貝塚空襲と遊郭|被害・日時・遊郭はどうなったのか【大阪空襲】

貝塚を襲った空襲と遊廓の被害 遊郭・赤線跡をゆく

大阪大空襲といえば、大阪市中心部の被害がよく知られています。
しかしその影響は周辺地域にも及んでいますが、なぜか空襲された場所に貝塚市があります。

この空襲、爆弾が確かに落ち死者も出ているのですが、米軍の記録にはない素性不明の空襲でもあります。
では、なぜ貝塚に爆弾が落ちたのか。どのような被害があり、現在その痕跡は残っているのだろうか。

本記事では、貝塚空襲の概要と被害、そして貝塚遊郭との関連、現在も残るその痕跡について詳しく解説する。

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貝塚空襲とはーその概要

貝塚空襲は、昭和20年(1945年)7月9日〜10日にかけて行われた空襲です。
この日の空襲は、米軍の記録によると、

・仙台
・岐阜
・四日市
などが空襲の被害を受け、関西では
・和歌山
・堺
が有名です。

米軍の資料には、これらの空襲の目的・目標・B29の機数、飛行ルートなどの詳細が残っています。

が、貝塚の空襲にはそれが全くありません。つまり、米軍は貝塚を攻撃目標にしていないと。
しかし、実際に爆弾(焼夷弾)が落ち、家が焼け死者が出ています。
一体どういうことでしょうか。

貝塚空襲の謎ー米軍資料にない。が、空襲は現実に起こった

作戦資料がない以上、米軍に「貝塚?いいえ知らない空襲ですね」されているので、詳細は現地の報告から推察するしかありません。

貝塚市の資料によると、岸和田・貝塚に空襲警報が発令されたのは9日の午後10時半、10日の午前4時に警報解除となっています。
同じ日に行われた堺空襲の空襲警報発令が午後10時38分なので、ほぼ同時となります。

同日にマリアナから関西方面へ向かったB29は、以下のルートを飛んでいました。

1945年7月10日、堺・和歌山空襲のB29飛行ルート。貝塚を空襲したB29もここに含まれると思われる。
他にも岐阜や四日市などへ飛んだ部隊もあるが省略

和歌山組は室戸岬を通って南四国を縦断し、和歌山へ。堺組は淡路島を横断して目標へ。
実は室戸岬、淡路島にはB29監視網(アナログ見張りやレーダー)があり、この部隊の動きは報告もされています。

そして、空襲後は潮岬を目標に飛んでいき、マリアナへ帰るというルートでした。
潮岬もB29銀座のような「いつものルート」になっており、軍はここにもレーダーや見張りを置いて監視させていました。

1945年7月10日、堺・和歌山空襲のB29飛行ルート。貝塚を空襲したB29もここに含まれると思われる。

アップさせるとこのような感じです。
貝塚を襲ったB29は堺か和歌山を襲った部隊のどちらかになりますが、貝塚市による調査だと、和歌山組はあり得ないと。
なぜなら、和歌山組はミッションで空襲後は潮岬へ直行というルートになっています。なら帰還ルートとは真逆の方向の貝塚にはわざわざ行かんだろうと。

じゃあ、あとは一択、堺組やんか!

となるでしょうが、そうは問屋が卸さない。

日本への空襲で使われた焼夷弾は何種類かあります。
M69集束焼夷弾はガソリンをゼリー状にしたものを詰めたもので、まさに日本を住宅を焼き払う専用焼夷弾。日本人がイメージとして連想する「焼夷弾」がこれ。
堺空襲を行ったB29には全機これが実装なことは、米軍の公式記録からも明らか。

しかし、貝塚の空襲で発見された焼夷弾には、M69の他にもM47という工場爆撃用焼夷弾(M69と違って一定の爆発力もある)も発見されています。M47は和歌山空襲に使用されていたもの。

この結果から、貝塚には少なくても2機以上のB29が飛来したものと推測されます。

つまり、何機来たのかそれすら記録がなく謎なのです。

貝塚空襲の被害

貝塚の空襲の被害を受けた町は、中町、西町、東町、海塚、そして近木となります。

1945年7月9〜10日の貝塚空襲概況。国立公文書館より
(『全国主要都市戦災概況図 岸和田』国立公文書館デジタルアーカイブ所蔵)

物的被害

空襲後の7月12日に管轄警察署(岸和田)が行った調査報告によると、

全焼452戸
半焼16戸

合計468戸が被害を受けています。

人的被害

こちらは資料によって死者数がまちまちなのですが、最新の資料による死者数は25名、負傷者は35名となっています。
死者の内訳は、

町名死者数
西の町4
中の町2
海塚3
東町16

死因はほとんどが焼死、または火傷による死亡ですが、中には焼夷弾に直接当たった死亡者も数名います。
M69焼夷弾の重量は2.7kg。言わば3kgのダンベルが空から雨のように降ってきて、それが頭に当たったら、防空頭巾はもちろん鉄製の兜でも無理でしょう。
しかも、米軍はそれを考えて貫通力を増していたというから、焼夷弾の脅威は火だけではないのです。

貝塚空襲の規模は決して小さくないのですが、地元以外ではあまり知られていないのです。

貝塚空襲と遊郭(近木新地)

貝塚空襲では、なぜか遊郭にピンポイントに爆弾が落下しています。

11945年7月9〜10日の貝塚空襲概況。国立公文書館より。貝塚遊郭(近木町)も戦災場所に。

貝塚空襲の戦災マップの、黄丸で囲んだ区域が近木地区、遊郭のエリアでもあります。
しかも、遊郭を狙ったか遊里の真ん中にピンポイントに焼夷弾が落下。

貝塚遊郭のマップと貝塚空襲で焼失した区域
赤:遊郭のエリア オレンジ:焼失地域

上の図のとおり、遊郭の3分の1以上、ざっくりで4割ほどを焼いています。

1946年6月6日撮影、貝塚市遊郭(近木新地、近木町)の航空写真。空襲で焼けた跡が残っている。
1946年6月6日撮影航空写真

空襲後1年経っていない貝塚遊郭の航空写真です。
近木新地の空襲焼失図と向きが逆なので把握しにくいですが(図の上(貝塚駅方向)が写真の下方向)、焼失した区域は更地のまま残っていることが写真にくっきり残っていますね。

偶然話を聞くことができた地元民の証言

貝塚遊郭探訪時、たまたま出会ったご婦人に遊郭の話を聞こうと声をかけてみました。

すると、それが大当たり。遊郭の元貸座敷楼主のお嬢さん(っても話を聞いた時は80過ぎてましたが)だったのです。

遊郭の話も聞いたのですが、それ以上に筆者が興味を持ったのが貝塚空襲の話。
彼女によると、火の手が遊郭に移った時女子供・遊女を真っ先に逃がしたようで、

(楼主だった父の命令で)お女郎さんと一緒に南海電車沿いに南の方へ逃げた

とはっきりと述べていました。

「お女郎さんと一緒に逃げた」
実は、これが大阪の遊里の空襲のキーワードになります。

昭和20年3月の大阪大空襲で、当時日本最大だった松島遊郭が灰燼に帰します。
その時、松島遊郭で働いていた遊女も被災しますが、その時の遊郭組合の公式死者数は10人程度。
しかし、空襲で死んだ遊女の無縁仏を弔った竹林寺の記録によると、その数は270人。実際は3〜400人ではないかと推定しています。

遊女は「商品」でもあるので、逃がしたりすると逃げたまま戻らない可能性があります。だから言い分をつけて逃がさないように「閉じ込めた」のかもしれません。
実際、他の遊郭はたいていそうだったのだから。

真実はみんな墓場まで持って行ってしまったので、真相はどうかわかりませんけどね。

業者も反省したのか、焼け出された後に堺の遊郭を訪れ、

松島の楼主
松島の楼主

ええか、空襲来たら遊女みんな逃がすんやで!

と龍神遊郭の楼主にアドバイスをしたと堺市の記録にあります。

堺の遊郭は貝塚と同じ日に焼けてしまったのですが、彼らはそのアドバイスとおりに遊女を全員逃がしたそうです。

時間の都合でそれ以上詳しい話が聞けなかったのが残念ですが、もしかして貝塚遊郭にも同じアドバイスをしたのかもしれません。

貝塚遊郭のマップと貝塚空襲で焼失した区域
赤:遊郭のエリア オレンジ:焼失地域

そして、上の焼失地図も間違いないと断言されていました。
よ~覚えてはりますな~と感心していたら、

だって、これ私(ら)の証言をもとに作られてるから(笑

偶然とはいえ、思えばすごい人に出会ったもんだ。

なぜ貝塚は空襲されたのか

なぜ貝塚に爆弾が落ちたのか。米軍の資料に残っていない以上、その目的はわかりません。

貝塚には紡績工場があり、空襲のターゲットにもなり得る標的ではありましたが、実際に焼夷弾が落ちた遊郭とは場所がかけ離れています。遊郭を狙ったのであればどストライクではあるのですが、そうではないはず。
可能性として考えられる理由は、二つあります。

可能性その1 灯火管制が効いて見当違いの場所に落としてしまった

貝塚遊郭の空襲と灯火管制
灯火管制のポスター

灯火管制はやり方が原始的なので、

こんな子供だましが効くかいwww

と後世の笑いものになっている感があります。

が、後世の研究によると意外に効果があったらしく、佐賀市のように目標と全然違う場所に落とし、米軍も「戦果なし」と記録に残した例もあります。
貝塚も、工場地帯に落とすはずが目測を誤って遊郭に落としてしまった…かもしれない!?

可能性2 爆弾が余って適当に落とした

B29は、爆弾を積んだ量と目標の距離に応じて燃料が積まれます。
その量は往復するのにギリギリの量で、

せっかく日本へ来たんだし、空からKYOTO見物を

と寄り道すると燃料切れで墜落不可避。
復路分の燃料も、目標地点で爆弾を全部落としたとみなして計算されているため、爆弾が余る→重くなる→燃費が悪くなる→燃料切れにより墜落の可能性大となります。

つまり…

搭乗員A
搭乗員A

爆弾余ってるやん!

搭乗員B
搭乗員B

どこかへ落とせ!


と適当に落としたら、たまたま貝塚を直撃しちゃった説。

このパターンは全国けっこうあり、なんでこんなところに爆弾落としたの?と頭を抱えてしまうような所の空襲は、たいていこのパターンです。

これだと、堺の空襲を終えたB29が帰路の際、

機長
機長

まだ爆弾余ってるぞ!さっさと落として空にしろ!💢
不時着してサメのエサになりてーのか💢

搭乗員
搭乗員

Yes, sir❗❗

と、貝塚(と岸和田)という関係ない場所に落とした理屈と「動機」が成り立ちます。

しかし、いくら考えても公式記録がない以上、すべては推測にすぎません。

現在に残る空襲の痕跡

貝塚空襲は、遊郭はもちろん周囲の建物にも被害が及び、感田神社や要眼寺などの寺社も全焼しています。

しかし、貝塚遊郭の慰霊碑などは存在しておらず、終戦から80年も経ったため痕跡などはほとんど残っていません。
先年に、要眼寺か妙泉寺かの鐘楼が発掘され、戦争で溶解した屋根瓦が発掘されたそうですが、現物として残っているものは、一つしかありません。

貝塚市、空襲の痕跡が残る円光寺(圓光寺)

空襲で被害を受け、16名もの死者が出た東町に、円光寺(圓光寺)というお寺があります。

ここにも焼夷弾が落ち、鐘楼の軒先には空襲による火災で発生した焦げ跡が残っています。
筆者も10年ほど前に見に行ったことがあるのですが、なぜか写真が残っておらず。
また改めて見に行こうと思います。

詳しくは円光寺のHPまで。

参考記事ー大阪の戦争遺跡記事

三光神社の「片足の鳥居」

大阪市の真ん中にある神社に遺された空襲の傷跡とは

阪和線美章園駅を直撃した爆弾

阪和線美章園駅に爆弾が直撃し、24人が死亡する惨事が起きました。駅の片隅にはその慰霊碑が残されています。

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