山口県萩市-芳和荘と弘法寺遊郭|遊郭・赤線跡をゆく|

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芳和荘-萩に残る「遊郭旅館」

山口県の萩市。江戸時代は毛利藩の城下町であり、維新の志士たちを生んだこの町に、かつて遊郭の貸座敷を使った旅館があります。名前は芳和荘
昭和33年(1958)、売防法完全施行で赤線が廃止になった際、そのまま赤線業を続けるわけにはいかなくなった業者たちは、当然ながら他の職業に転職せざるを得なくなりました。
現役の所も表向きは「転業」したということになっており、いろいろあって「営業」しているのですが、ほとんどの赤線は旅館や下宿、アパートなどに鞍替えを行いました。
それも建物や設備の老朽化や、立地条件上旅館作っても客が来ない現実もあって閉めることが多くなり、今でも現役な「遊郭旅館」(私の造語です)はかなり少なくなりました。

芳和荘は全国でも数少なくなった「遊郭旅館」の生き残りの一つ。更に築100年を数え、おそらく現存する「遊郭旅館」の中でも古さは最古参の一つでしょう。

もう四捨五入すると10年前になるのですが、この生ける遊里の遺物芳和荘に泊まりに行ったことがあります。
私が宿泊した時は、遊里史マニア以外にはほとんど知られることがなかった隠れ旅館。私が泊まった時も宿泊客は私一人、ふつうなら貸切状態に大喜びです。が、やはり一人というのは非常に心地悪いもので、誰かいてくれないかな…と久々に人恋しさを感じたことも事実です。
しかし!現在では予約困難な人気宿としてその名前は全国に!?料金も、私が泊まった時は3000円くらいだった記憶があるのですが、今では4500円(朝食付きだと5000円オーバー)。しかしながら、個人的には商売繁盛でおめでたいことだし、5000円出すぜお釣りは要らねーでも泊まる価値は十分にあります。

で、いつもならここから延々と!?長文が続くのですが、今回はスライドショー方式でようつべにアップしました。でもアップしたのは約10年前の話(笑


今回の「遊郭・赤線跡をゆく」は超手抜き…もとい、超シンプルに終了。今回はえらい手抜きやなという声が聞こえてきそうですが、この動画一つ作るのに微調整も入れて4時間もかけたので、決して手抜きじゃないんです。動画作成って異常に時間がかかるもの、最近やけに凝った動画が多いですが、編集時間いくらかかってるんやろかと思ってしまいます。

しかし、さすがは10年前の動画か、遊里史の知識も動画編集の腕も雑だなと自分で改めて思わざるを得ないので、動画の補足として萩の遊郭のことを。

 

萩遊郭の歴史

萩越ヶ浜遊郭

萩遊郭は長州藩の時代から存在していました。が、芳和荘がある浮島地区ではなく、萩市街から遠く離れた越ヶ浜地区でした。
そこは漁師や海運業者が集まる萩のウォーターフロント、江戸時代には西廻り航路の商港、風待ちの港として多くの船で賑わいました1
人が集まり賑わうところには、自然発生的に歓楽街、遊里が形成されます。その上、海に出ると人の肌が恋しくなるそうです。

フネが港に戻った時には「3本足」で立ってたものさ(笑

と回想した海の男もいました。漁師でも船員でもなく、元大日本帝国海軍中佐ですけどね(笑

 

萩の遊郭

越ヶ浜地区の遊郭は明治中期まで存在していたのですが、明治42(1909)年に芳和荘がある浮島地区、現在の東浜崎町の一郭に移転。弘法寺というお寺があったことから、「弘法寺遊郭」と呼ばれるようになりました。

しかし、越ヶ浜遊郭の方は、萩市街地への移転の際、貸座敷免許地の免許を返上したわけではなかったようです。
『山口県統計書』を見ると、数軒・数人だけなものの、移転後数年間は貸座敷・娼妓ともに残り、大正2年(1913)まで存続していました。同年10月より統計上の数字が切れているので、9月が越ヶ浜遊郭の真の終焉の時といってもいいでしょう。

芳和荘が作られたはっきりとした期日は不明ながら、だいたい大正初期と言われ、遊郭時代は「長州楼」という屋号でした。

 

萩の遊郭の範囲

芳和荘のご主人いわく、赤で塗った範囲が遊郭街だとのこと。そして、元遊郭の建物は芳和荘以外残っていないとのこと。残念無念。
とはいえ、芳和荘自体が良い保存状態で残ってること自体、奇跡に近い。動画に出る2階客室部分の手すりの部分は建設当時そのまま、それでもまるで10年前くらいに作られたかのような新鮮さを保ってます。よほどいい木材を使い、萩遊郭の中でも贅を尽くした妓楼の一つだったのだろうと。聞いた話によると、大工の棟梁3人に作らせ、それぞれ競わせたのだと伝えられています。
逆に言えば、もし残っていたら他の貸座敷も見てみたかったなと惜しい気持ちもあります。

 

萩遊郭地図

『昭和前期日本都市地図集成』という、一般人にはまず間違いなく死ぬまで用がないマニアックな本から抜粋してきた、1930年代前半の萩市の地図です。地図にくっきり「遊廓」と書かれとることがわかります。
この地図の「廓」の文字あたりに芳和荘があり、青い■を加えた所にはファミレスのジョイフルが建ってます。

 

萩弘法寺遊郭貸座敷の位置図

現地資料による昭和初期の萩遊郭の貸座敷位置図が掲載されています。昭和5年(1930)の『全国遊廓案内』によると「貸座敷10軒、娼妓約40人」とのことですが、内務省警保局(現警察庁)が公権力を使って調査した同時期の数字では、「貸座敷8軒、娼妓24人」『山口県統計書』の昭和4年末の数字は「貸座敷8軒、娼妓25人」と一次資料での数字はほぼ一致。こちらの数字の方が信頼に値します。
地元資料の地図には6軒しかないですが、遊郭は出入りが激しく数字が安定しない業界な上に、資料のソースは地元の人の記憶。多少の誤差はやむを得ない。

芳和荘のご主人の言うとおり、萩遊廓跡を歩いても確かに芳和荘以外に当時の妓楼は残ってません。が、遺物というか残骸というか、レアなものがかつては残っていました。

萩の貸座敷遊郭跡
動画でも紹介していますが、これは芳和荘の隣にあるある妓楼の残骸。資料から元「新開楼」のものということがわかります。
外壁だけボロボロになりながらも残っていたのですが、この外壁自体よりも貴重なものは、「貸座敷」と書かれていたと思われる玄関の門柱。
上の二文字は長年の風化で判別不可能でしたが、下は明らかに「敷」と書かれているのが画像からでもわかると思います。
”遊郭街+「敷」=貸座敷”と容易に推定できるのですが、推定するまでもなくほぼ当たりでしょ。

しかし、ここまで引っ張っておいて悲報です。この門柱、2020年時点ですでに現存しません…

さて、いつもなら1万文字くらいをかけて延々と書くのがいつもの常だったのですが、今回は3000文字弱で終了。こんな少なくて良いのだろうか…という妙な背徳感が私の脳裏をよぎっていますが、これくらいのボリュームでちょうどいいだろうと自分に言い聞かせ、今回は終わりとします。
芳和荘についてもっと詳しく細かいことを知りたい方は、巻末に「同志」のリンクを貼っておくのでそちらをどうぞ。

 

  1. ただし、小川国治 「西廻り海運と港町の整備」(『転換期長州藩の研究』、1996年、思文閣)によると、大型廻船は山陰沖を一気に渡り萩を通過していたそうです。

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