赤線時代の吉原を映した貴重な映像
(前編)
(後編)
昭和33年(1958)、売春防止法が完全施行となり赤線の灯が消えましたが、その寸前の東京吉原を映した映像が残っています。
当時警視庁の風俗営業取締部門に勤務していた小野常徳氏が自らカメラを持ち、今後の資料用にと撮影、編集した『赤線』という記録映画。
時間にして10分程度とは言え、映像としての現役の赤線は非常に貴重な資料映像として歴史的価値も大きいものとなっています。
しかも、映像は総天然色、つまりカラーフィルム。
当時は映画でさえ白黒が多かった中、素人がカラーで撮るのはかなりの冒険のはず。撮影機材もすべて手弁当だったそうだから、これ(機材・フィルム)高かったやろなと。
背景知識を知ることによって、そこまでして「遺そう」とした小野氏の思いが強く伝わってきます。
当然ながら、映像にはリアルタイムで営業していた吉原のお店の看板や文字も出てくるのですが、これらは吉原のどこに位置していたのか…自分なりに脳内で位置を当てはめてみると、興味深い地図が出来上がりました。
せっかく手元に赤線バリバリ時代の吉原の地図を3つも持っているので、それをベースに映像に映っているお店(カフェー)がどこにあったか、確認してみましょう。
なお、本編で用いる地図は、
①火災保険特殊地図(新吉原 昭和28年)
②『あざみ白書』(小林亜星著)掲載の、著者の記憶による吉原カフェー地図(昭和30年頃)
③『吉原今昔図』掲載 昭和33年赤線廃止時のカフェーの位置図
※本地図には「昭和33年公娼廃止時」と書かれていますが、公娼廃止は昭和21年1月。赤線はあくまで「当局黙認」であって公娼ではないというのが私のスタンス。
④『東京都全住宅案内図帳 台東区』(昭和30年代後半 ※赤線廃止後)
となります。
タカラ・メリー
映像は、浅草観音の近くに吉原があることを説明した後、元お歯黒どぶである花園通りを写し、そこから場面が変わり、ある店の玄関を写します。

静止画だとほぼ判別不能なほど崩れていますが、映像では「タ○ラ」と読むことができます。玄関周りの(おそらく)黒タイルが、赤線カフェー建築の片りんをうかがわせます。

「タ○ラ」からアングルが変わり、大通りに「メリー」という看板が見えます。この二つの店は同じ通りにあることは確定。さて、ここから地図とにらめっこして、約300店舗あったという店から探してみましょう。

当時の地図と照合すると、二つとも角町通り沿いにある店と判明しました。「タ○ラ」は、どうやら「タカラ」のようです。「メリー」はそのまま。
「タカラ」に関しては、地図③によると上図のように「宝や」となっていますが、その他①②④がすべて「タカラ(宝)」となっているため、3対1の多数決で「タカラ」としました。
巴里
しかし、「ドリヤン(ドリアン)」という名前の店って意外でした。この時代にドリアンって知ってたのかと。

お次に出ましたは、「巴里」という文字が見える看板。

アングルが変わり、「巴里」の正面があらわれます。
入口の上にネオンサインで”Paris”とあります。夜になるとこれがピンク色にでも光るのでしょう。

「巴里」は現在のこの場所にありました。
ニューあけぼの・白樺

お次に出てくるのは、かなり大きな大楼を思わせる建物に、左側に「あけぼの」と書かれた看板。

右側のお店の看板も見えてきました。「白樺」と読めます。
これで場所はばっちり。

場所は、こちらとなります。
京二助六・大河

お次に見えるのは、浮世絵の看板が特徴の「京二助六」。

上の画像が少し動き、「大河」と書かれた看板が見えてきました。

「助六」「大河」の位置はこちらになります。
周りにある「森」「柳や」などの鉄砲のようなマークは射的屋。遊郭・赤線・青線問わず、こういう所って射的屋が多いのよね。
サロン カルメン

お次に出てくるのは、「サロン カルメン」と書かれた看板のお店。西洋のお屋敷か城を模した外観で、現在のソープらラブホにも通じるものがあります。

「カルメン」があった場所はここあたり。ローソン千束四丁目店の前といったところか。
栃木・小柳

次に流れるは、「栃木」「小柳」と書かれた看板の店。

「京二」沿いの、すでに紹介済みの「助六」「大河」の向かいのお店ですな。
吉原随一の大店 大華
映像は、当時の吉原カフェー街でも最大の大きさを誇った店へとアングルを向けます。
その名は「大華」。

映像のアナウンスでも「吉原一の大店」と紹介されています。

さすがは大店か、ここで働く女給さんたちもどこか高級です。
ここ「大華」ではなんと、地下を掘って天然温泉を掘り当て客に振る舞っていたとのこと。
吉原の赤線は、警視庁や都の指導もあって「カフェー風」、つまり洋式にしろとの指導が出ていたとされています。だから豆タイルなどの昭和20年代の洋風仕様が「カフェー建築」と呼ばれ、赤線跡の様式美となっています。
が、ここは映像を見る限り「洋」の要素が全くない純和風。赤線と聞かなければ田舎の高級旅館とさえ感じてしまうほどです。

現在はマンションが建っている場所に、「大華」はありました。
赤線廃止時の吉原のマップを見ても、「大華」は「角海老」と並ぶ吉原随一の大きさを誇っていました。
吉原カフェー協同組合・吉原病院


赤線時代の吉原のカフェー(という建前で風俗営業が許されていた)の組合(カフェー協同組合)と、その前にあった旧吉原病院。
遊郭の娼妓は週1回の性病検査が義務づけられていましたが、公娼ゆえに費用は自治体負担、つまり税金でした。
吉原くらいの大遊郭になると廓内に遊女専用の病院があり、吉原病院もれっきとした東京府立(戦後は都立)です。同様の趣旨の「訳アリ病院」は、他にも同じ東京の洲崎病院や、大阪府の遊郭を一手に担った難波病院などがありました。
戦後に公娼制度がGHQによって廃止させられてからは、洲崎や難波病院がそうなったように、吉原病院も一般患者も受け付ける「ふつうの病院」になったはずですが、赤線となった後もそのままお世話になってたのでしょう。


吉原病院は現在、台東区立台東病院となっています。
吉原探索したいけど、ここって電車の駅からけっこう遠いのよね…
という方は、台東区のコミュニティバス「めぐりん」が、上野や浅草駅前から20分間隔で出ているので使えます。
赤線時代の吉原は京町通りがメインストリートだった!
赤線時代の大店が並ぶ「京町通り」の一丁目(京一)と二丁目(京二)は、かつては吉原の裏街道として日の目が当たらぬ区域でした。
しかし、昔の「鬼滅の刃遊郭編を知る」的なブログ記事の吉原大門編でも書きましたが、大正10年(1921)に起こった「あること」がきっかけで吉原遊郭への人の流れが変わります。
理由は市電の開通。

市電の千束町停留所から吉原へ通う客が増え、かつては吉原の裏街道だった京町通りが吉原のメインロードとなり、大門前の江戸町は逆に寂れてしまいます。
この流れは、映像の赤線廃止時まで続きました。
よって、この映像に映っている店はほとんどが「京一」「京二」の店ばかり。

吉原大門に接し、大正後期までは吉原一の大店が並んだ江戸町通りは、このアングルくらいでしょうかね。
店の数はもちろん、京町通りや角町・揚屋町にも負けていないのですが、大店はなく小さな店ばかり。
映像にもあまり出て来ないということは、客足も京町に流れているんだなということが、間接的に読み取れるかなと。
実は、記録映像『赤線』に映っている吉原のカフェーは、これだけではありません。
他にも敢えて取り上げなかったものもあるので、興味がある方は映像と当時の地図をにらめっこして、過去の赤線時代の思いを馳せてみてはどうでしょうか。

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