大社線と大社駅の歴史
(大社駅の展示物より)
大社線は、明治45年6月1日に汽笛一声の声と共に開通しました。開通と共に駅前には旅館・食堂・土産物店が建ち並び、じきに出雲大社までの参拝道(神門通り)も完成しました。
この時点で、ある疑問が私の頭の中で浮かび上がりました。
大社駅の「生みの親」は後藤新平!?
大社駅の場所から、観光客の第一目的地の出雲大社までの位置関係は以下のとおり。
けっこうな距離があります。実際に歩いてみると、いらち大阪人の名に恥じぬ、通常の1.3倍速早歩きの私でだいたい12~3分。観光ガイドには「徒歩約20分」と記載されており、数字的にはほぼ正解です。
この地理関係を見てまっさきに思ったのが、
もっと近くに駅作りゃよかったやん?
実際、後輩の一畑電鉄の出雲大社前駅がかなり近くに作られていることを見ても、この位置に作るのは「何かの間違い」だろうと。
資料によると、もちろん最初は大社にかなり近い位置に作る計画もあったようです。が、誘致をめぐって地域どうしが喧嘩し始め、駅近くに作ったら参拝客が商店や旅館を素通りしてしまうから町外れに作れという謎理論も加わり、揉めてしまいます。
そこへ、「神」があらわれました。
当時、鉄道院総裁(国土交通大臣)だった後藤新平が視察に訪れました。大社駅の場所で揉めているという話を聞いた後藤は現地を訪れ、勢溜(神社境内正門大鳥居の横の広場)の高所から見下ろし、住民の意見を聞いた上で、
「あそこに決まり!」
との御託宣で決まったと。
実際に大岡裁きならぬ後藤裁きをしたのかは定かではなく、あくまで一説に過ぎません。が、地元では「後藤新平伝説」として広く信じられています。そして、「後藤が指した」ところに駅が出来たのも事実です。
大社駅の発展
明治45年に開業した大社線は全国から参拝客が訪れ瞬く間に大繁盛となり、大社駅の易者も早速手狭になり客からのクレームも多くなったと言います。
そこで、全国一二を争う大神社の門前町にふさわしい駅舎をというわけで、
現在に残るこの駅舎が大正14年(1924)に作られました。
(昭和初期の大社駅(『大社線80年の軌跡』より)
大社駅は昭和に入りますます列車に行き来が多くなり、昭和4~5年頃から全国各地からの団体臨時列車も多くなりました1。年末年始には毎日7~8両編成の列車(1列車約500人)が発着し、出雲大社までの沿道は旅館の看板と幟でカラフルだったと元駅員の回想にあります。
昭和5年の時刻表には既に、大阪や京都発大社行き列車(二等寝台車付き)を確認することができます。そして昭和10年(1935)からは、大阪発の急行列車も誕生します。急行なんて、もう直通列車があるから今更いいじゃないかと思ってしまいます。
(昭和15年鉄道省編纂時刻表より)
しかし、時刻表を見てみると、やはり急行の存在感は一段階違います。特急はおろか、急行でさえ東海道本線や山陽本線など主要幹線にしかなく、しかも山陰本線初の急行が大社行きだった…出雲の住民が胸熱にならないわけがない。
この列車には、食堂車(和食堂車)も連結されています。
(『大社線80年の軌跡』より)
上の時刻表と同年、大社駅で記念撮影する急行食堂車の女性たち。大陸での戦争の影響が日常生活にも出始めた時期ですが、彼女たちの服装と笑顔からは、そんなものは微塵とも感じません。こういう写真を見ると、彼女らはあの戦争を生き抜いたのだろうか、ふと思うことがあります。
戦争で観光どころではなくなった大社駅。しかし休まる時はありませんでした。次は戦地へ赴く地元の出征兵士の出発が多くなり、その日の大社駅前や通りは混雑を極め、嵐のような万歳三唱の声が駅前広場を占有していたと言います。
戦後の大社駅
戦争後の混乱で参拝どころではなかった日本でしたが、昭和25年(1950)から参拝客を中心とした客足が戻り始め、大社駅は絶頂期を迎えます。
(『大社線80年の軌跡』より)
昭和30年代、その絶頂期当時の写真です。団体客を迎えるバスの数からして、現在からは考えもつかないほどです。東京から急行「いずも」が大社まで直通し、東京と列車一本で直結されたのも、この頃です。
当然、大社駅の営業収支は大黒字、旅客だけでなく、地元特産のブドウを中心とした貨物輸送も好調で、黒字だからけっこうわがままも聞いてくれたと当時の駅長の回想にありました。
大社駅から新しい旅路へ出発した、ある一人のアーティストが、大社線の思い出を語っています。
「まだ見ぬ土地に対する不安で複雑に揺れ動いていた(中略)私を優しく温かく見守りながら、『元気で行ってらっしゃい』と送り出してくれた大社駅。
ここは私にとってすべての夢の出発点となったわけです。
竹内まりや引用:『大社線80年の軌跡』
一度聞いたら忘れられないメロディとボイスで我々の耳を魅了する、歌手の竹内まりやさんはここ大社町出身。出雲大社の前にある旅館「竹野屋」の娘であり、現在は歌手業の傍ら実家のオーナーとなっていることは、知っている人は知っていることでしょう。
彼女は地元の大社高校出身なので、通学で駅を使うことはなかったですが、上の記述は高校生の時に留学メンバーに選ばれ、夜行列車で東京へ向かった際の思い出です。
彼女もこうして、家族や町の人々に見送られて、後ろ髪を引かれつつも新たな道へ向かって大社駅を去ったのでしょう。
ちなみに、現在の「竹野屋」はまりやさんがオーナーとなっています。実家は景気後退と経営ミスによる従業員の離反で休業せざるを得ない状態まで追い詰められたそうですが、実家の危機を救おうと竹野屋旅館を継ぎました。
私が若い頃、山下達郎と竹内まりやは典型的な「美女と野獣」カップルと言われていました。いや、今は葉加瀬太郎が野獣なので「珍獣」かも(オイ
人間として全くの青二才(中学生だったので仕方ない)だった私は、
あんな美人があんな顔の男に惚れるって何なん?
と、若干の反感すら持っていました。竹野屋を継ぐ話には山下達郎氏の後押しもあったそうですが、その話が彼の器の大きさをあらわしており、なるほど、「美女」が「珍獣」に惚れたのはここかと、年を重ね人生経験を積むと認識できる次第であります。
大社駅の終焉
しかし、大社駅の賑わいはここまででした。
昭和40年代後半より、モータリゼーションの発達と道路事情の改善などで遠距離からバスで出雲大社へ直接訪れる観光客が増え、大社線は斜陽の時代を迎えます。観光収入(定期券収入を除いた数字)も昭和44年をピークに減少を見せ始め、廃線まで二度と戻ることはありませんでした。
ほぼ独占だった貨物輸送も、国鉄自身のストや親方日の丸による荷主無視の営業が荷主を大激怒させ、鉄道と縁を切りトラック輸送に。JR貨物が頑張っても客側がなかなか戻らないのは、国鉄時代の傲慢さによる荷主の不信感を今だに引きずっているそうで、商売は信用を失うとえらいことになる歴史の実例でもあります。
大社線も昭和50年代後半にはローカル線に転落し、最後は線内を走る列車が単純に往復するだけとなりました。
駅には廃線時点の大社駅の時刻表もそのまま残されていますが、一時期は東京・大阪・名古屋から優等列車も発着した「幹線」も、最後は一抹の寂しさを時刻表の中に残したまま無くなることに。
国鉄からJRになる寸前の頃には廃止が決定、JRとして再出発した数年後、大社線は廃線となりました。
前述のとおり、大社駅は路線廃止とともに解体の予定でした。が、あまりの立派かつ貴重な建築な上に、大社の歴史や鉄道史資料としても貴重だと保存が決定。2004年にあは重要文化財に指定されています。
路線はなくなってしまい駅としての役目は終えた大社駅ですが、観光施設として第二の人生を歩み、現在も出雲大社参拝の観光スポットとして、欠かせない場所となっています。大社に行った際は、「和の贅」をお楽しみ下さい。
なお、「2020年度」とあり具体的にいつかは不明ですが、建物の老朽化による解体修理&耐震加工工事が行われます。地元新聞の記事によると、6年がかりの工事とのことなので、しばらくは写真の姿を見ることができなくなります。間近で見たい方はご注意を。