3.盾津飛行場
(完成直後の盾津飛行場ー現地の説明板より)
盾津飛行場は昭和8年、国威向上による民間飛行士育成のために建設が始まった飛行場を母体としています。
翌年9月に飛行場は完成、同時に陸軍省に寄贈され昭和10年6月1日に正式受領、同時に「大阪陸軍飛行場」と改名されました。が、俗に「盾津飛行場」と呼ばれていたようなので、本記事では以下「盾津飛行場」に統一します。
RKDBや八尾空港Wikipedia記載の「昭和9年」とは、おそらく盾津とごちゃごちゃになっているのではないかと。
せっかく作られた空港でしたが、ここあたりは地盤が弱く寄贈された陸軍の方も活用に困った様子。所有は陸軍なものの、しばらく民間で使ってねーとグライダー訓練や模型飛行機大会、学生の飛行訓練などに活用されることに。
阪神飛行学校がここに作られたのも、そういう経緯があってのことだろうと思います。
対米戦争後の昭和18年(1943)、海軍指定企業だった松下電器産業(現Panasonic)が「松下航空機」に改名、航空機本体や部品製作にあたることになりました。
松下幸之助は盾津に工場を建設し、盾津飛行場もその際に「海軍によって」拡張されます。
ジュラルミンがないから木造で飛行機作ってくれ!
と海軍にお願いされてもね~という松下は仕方なしに了承したものの、ネジすらままならない状態で、試作機を飛ばす滑走路もセメントがないために漆喰で地面を固める有様。漆喰はセメントの5~6倍のコストがかかったそうです。
松下飛行機は1年の試行錯誤の末、木造飛行機『明星』の製造を開始、数機が完成し飛行…と思ったら即墜落。結局『明星』が日の目を見ることはありませんでした。
そして終戦、GHQによっていったん接収されたのち盾津町(当時)に払い下げられ、盾津中学校などの公共敷地となりました。
盾津飛行場はどこに?
私は大阪と言っても南部、いわゆる泉州の出身なので、東の方、歴史地理学的な表現でいう北河内国の郷土史はほぼ白紙です。なので、ひとまず場所を特定することに。
「盾津」はJR学研都市線鴻池新田駅の南部一帯、地名としてはすでに消滅し盾津中学校などの学校名にとどまっているのみです。
ここに「東大阪トラックターミナル」という大規模物流施設が府東部にありますが、ここは昭和44年(1969)に大阪府が飛行場跡地を購入したもので、管理運営はあの泉北高速鉄道。
なんで泉北高速”鉄道”が物流事業やってんねんと思ってしまいがちですが、実はこちらが泉北高速”鉄道”の本業。元々は大阪府営の第三セクターだったので、大阪府の土地を管理運営していても矛盾はありません。
飛行場があったあたりを、戦前・戦後の地図で比較してみました。
戦前には何もなかったところに、戦後の「跡」ですが飛行場がくっきりとあらわれています。
昭和17年(1942)の盾津町(当時)の航空写真では、飛行場のラインはくっきり見えるものの、滑走路などは見えません。
戦後の昭和23年(1948)の航空写真では、かなり薄くなっているものの、滑走路の跡が見て取れます。昭和17年以降に滑走路が作られたことがわかります。
飛行場の面積は約10万坪(33万㎡)で長さ940m、幅560m、滑走路750m。地図右半分が飛行場敷地、左は第四師団の練兵場として昭和14年(1939)末か15年から使われていました。
盾津中学校の場所には訓練生やパイロットの居住区だったと伝えられ、校内に飛行場があった碑が建てられています。
また滑走路の一部は、現在府立かわち野高校になっています。ここ、以前は「盾津高校」という名前だったはずですが、また一つ旧(ふる)くからの地名が一つ消えたのは少し寂しい気分です。
現在の地図と比較してみると、飛行場との区割りだったと思われる水路(赤矢印)と、航空機誘導(運搬)路跡(灰矢印)が道路として残っています。数少ない飛行場の遺構で、これが残ってたからこそ跡の特定が容易でした。
航空機誘導路は北方向に一直線伸び、その先には…
なにやら工場らしきものが…ここが松下幸之助が作った松下飛行機の跡。
ここは現在の大東市、住道駅近くにあたりますが、大阪人なら住道とくればSANYOを連想するほど、戦後永らく三洋電機㈱の企業城下町でした。SANYOが消えた現在でも、「三洋町」「三洋橋」など地名に残っています。
三洋電機の創立は戦後ですが、場所がつい7~8年前まで三洋の工場だっただけに、三洋電機が旧松下飛行機の工場を売却してもらい、拠点にしたのかもしれません。
松下飛行機跡は現在、南半分が大阪府の朋来団地、北半分が三洋電機→京セラ工場となっています。
で、これで終わろうかと思いきや、航空写真にはまた謎を呼ぶものが写り込んでいました。
住道駅のすぐ南に、滑走路のような、そうでないような筋の道が確認できます。その横には格納庫か倉庫らしきものが幾棟も。盾津の飛行場からはかなり離れているのですが、これは一体なんなのか。『大東市史』でも読んだらわかるかもしれないけれど、これ以上追求すると本題から反れてしまうのでペンディングとします。
飛行場のことはこれでわかった。さて本編これにて終了。
…もう一つ、なにか残ってませんか?
5.盾津飛行場最後の謎
大阪府が東郊に建設する計画だった「大阪国際飛行場」…ここは当時の新聞記事によると盾津に作る予定だったはず。
盾津に飛行場があったことは事実ですが、それと「50万坪の大規模空港」と府が広げた風呂敷は果たして同一なのか。
前述の大和川国際飛行場以上にニッチで、ネットで掘れる限り掘ってみたものの、これ以上のものは出てこない昭和史大阪ミステリー。
ここからは私の推測となります。
考えられるパターンは3つ。
①盾津飛行場をそのまま流用
②盾津飛行場を陸軍から購入、大型機離陸可のように拡張
③盾津飛行場を全く別の空港を建設する
何の根拠もないという前提ですが、①はまあないと思うのでおそらく②か③でしょう。
しかし、大型機が発着するような空港を作るには、盾津に致命的な欠点がありました。上にサラッと記述しました。盾津飛行場は地盤が弱いと。ではなぜ弱いのか。
(https://genkiayumu.exblog.jp/10459281/より)
大阪人なら郷土史として社会の授業で習ったことがあるかもしれませんが、弥生時代~古墳時代、ここあたりは内海が塞がって形成された「河内湖」という淡水湖がありました。
(Wikipediaより)
河内湖は土砂の流入や治水、開墾で次第に小さくなり、江戸時代初期には「新開池(しんかいいけ)」「深野池」という大きな池となっていました。
18世紀はじめ、鴻池善右衛門宗利という大坂の商人が新開池を開発する権利を入札し、新田開発を行いました。
鴻池家はのちに、鴻池銀行(現三菱東京UFJ銀行)や日本生命を創設する財閥となりますが、鴻池が開発した新田は「鴻池新田」として駅名にも残っています。
盾津飛行場は「箕輪」の西に位置しており、江戸時代は池の中。池を埋め立てた場所だけに、地盤が弱いのも頷けます。
「府営空港」が幻に終わったのも、大阪市に対抗して風呂敷は広げてみたものの、地盤の弱さで適地ではないことが判明。「大阪国際空港戦争」は伊丹で落ち着きつつあるのと、戦争でそれどころではなくなり、そのまま流局…。
私はこのように推測しています。
しかしながら、私がわかるのはここまで。
大阪市営大和川国際飛行場(仮称)に次ぐ謎、大阪府営国際飛行場(仮称)はしばらくペンディングとしておきましょう。府立公文書館に行けば、議会の記事録など資料が残っているはずですが、私は貧乏暇なし。
興味ある方はこの続きをどうぞご自由に!と見知らぬ誰かにプロジェクト(?)を託します。これ、ええネタやと思いまっせ。
・神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ
・レファレンス協同データベース
・Wikipedia-盾津飛行場/八尾空港
・松下幸之助.com
・大日本神国也-大阪陸軍飛行場
・『八尾市史』
コメント
遠い親戚が「松下飛行機」に勤めていたらしいです。
その所在が不明だったのですが、貴コラムで明らかになりました。長い間のモヤモヤが解消しました。
有り難うございます。