行桟
川口には、「行桟」という独特のシステムがありました。
「行」は商売、「桟」は上屋(倉庫)・宿屋という意味で、合わせて商売拠点のような意味となります。
北京語では「ハンチャン(hang2 zhan4)」ですが1、大阪では日中語が混じり「ハンサン」と呼ばれていました。
海外で商売をしたい…言うのは簡単ですが、商習慣や法律、ルート開拓など様々な障壁があります。私も元商社マンだったのですが、毎日血を吐く思いでした。ゼロからカネを稼ぐとはこんなに辛いものなのかと。
でもお給金高かったでしょって?それは三○商事や三○物産の世界ですがな。
そんなあなたのお悩み、すべて我々がサポートします!
それが「行桟」という存在でした。
行桟は基本2階建てのアパートになっており、そこに事務所兼寝室を完備。
日本語や大阪の商習慣に通じた通訳兼秘書2も、1名以上ご用意。銀行との仲介や保証人代行や海上保険の代理店機能、さらに不在・帰国時のカスタマーサービスまで。人間はかばん一つでOK牧場!
至れり尽くせりとはこのこと。これなら現地事情がわからない商人Lv.1も不安なく商売ができます。
無論、行桟の利用料金はタダではないのですが、右も左もわからないLv.1は、ひとまず年間売上の2割。
日本での商売に慣れると、使用料として6~70円/月、他は売上に応じたご祝儀3を、旧正月など年1~2回4。
商人が儲かれば儲かるほど行桟も儲かるわけだから、win-winの関係。商売としてもかなり旨みがある。
元商社マンとして、このシステムは天才やろ!と感銘を受けました。
行桟を拠点に活動する商売人は、山東省出身者、天津出身者と、故郷で固まる傾向がありました。
これには、中国人の人間観が影響しています。
基本的に、中国人は家族・親類以外を信用しません。現在も、中国人観光客は中国人経営の店で買い物をし、中国人ドライバーの白タクに乗り、中国人所有の家で民泊するなど、中国人の中だけで経済を回していますが、これは「騙すより騙された方が悪い」世界を生き抜く中国人の他人不信が形になったものです。
他人不信の文化に基づいた中国社会では、自分と家族、親類の「宗族」の間が世界であり宇宙。革命家の孫文はそれを、「一握の砂」と表現しました。中国人に国という概念はない、あるのは宗族(砂)のみと。
バラバラの中国人を「中国人」として団結させるため、毛沢東は宗族社会を一度破壊し更地にしました。その結果は大失敗。
ならば宗族を国にまで拡大させよう!と方法を変えたのが現在の「愛国心教育」なのですが…書き出すとキリがないのでまた機会があれば。
同郷出身者以外には容易に心を開かない中国人は、自然に同郷出身者どうしで固まる傾向があるものの、ただしその中での団結力は非常に強い。秘密結社的なところがあるので、外からはなかなかわかりません。
行桟もそれぞれの地方別に分かれていますが、商売人も同郷経営の行桟ではないと利用しません。いつ寝首をかかれるかわからないから。
言うなれば、行桟はそんな中国人の生態系を利用したビジネスの一種なのです。
昭和12年(1937)の行桟の数は13、店員の数は平均22名。日中関係のきな臭さもあり、明治後期~大正初期の27件に比べれば半分以下ですが、それでも店員も入れると約1500人の華商が住んでいました5。
商売人が行桟に集まる理由は、それだけではありません。
世界を旅する旅人にとって、命とパスポートの次に大切なのが情報。今でこそインターネットがありますが、情報はナマモノ、活きの良い獲れたてピチピチは現地で収集が必要です。
旅人は「安宿」と呼ばれるところに泊まるのですが、理由は値段が安いだけでなく、そこに同じスタイルの旅をしている仲間も集まり、同時に情報も集まるから。ドラクエにたとえたたら「ルイーダの酒場」のようなもの。
華商が行桟に集まる理由も同じ。商売人サロンとして情報収集のしやすさもあるのではないかと、元バックパッカー&商社マンとして容易に想像がつきます。
ある輸出品と、ある企業
川口華商を通した対中貿易は、大正後期にそのピークを迎えました。
その年の貿易額は1億2000万円。戦前の大阪は、対中貿易に関しては神戸をしのいでいましたが、大阪港の対中貿易の6割を川口華商が商っていました。
主な輸出品は綿布や人絹などの原料で56%を占め、他は雑貨・生活必需品がほとんど。変わり種は自転車、鏡の名前も品目にあります6。
その中に、魔法瓶の名もありました。
昭和11年(1936)の売上は13万円(全輸出の0.4%)と、割合はごくわずかながら、扱う華商の数は20軒とまずまずの数字です7。
川口華商の活躍華やかな頃、川口の隣町の九条に「市川兄弟商会」という、愛知県から上阪した兄弟が経営する小さな魔法瓶工場がありました。魔法瓶の国内需要はあまりなかったものの、水は沸騰させないと飲めず、さらに習慣的に温かいものしか口にしない中国や東南アジアにはこれが大ウケ。特に中国向け輸出販売は川口華商が代理店として一手に引き受け、会社は大いに繁盛しました。
輸出が軌道に乗り、さて商標(ロゴ)を造ろうと考えた結果、主な輸出先の東南アジアでは神の使い、長寿の象徴である象をシンボルにしました8。
これが当時のロゴです。これが現在では…
これ。そう、市川兄弟商会とは今の象印マホービンのことです。
象印の前身市川兄弟商会が商売を軌道に乗せ始めた同じ時期、同じ大阪市西区に「菊池製作所」という同業他社があらわれました。
こちらは創業当初から虎マークの商標を掲げ、国内を中心に台湾・朝鮮・満州へ販路を伸ばしていきました。それを見た市川兄弟商会さん、
「あちらはんが虎やったら、こっちは象や!象で虎を踏み潰したる!」
という理由で「象印」にしたという説があります。主にネットで散見する話ですが(Wikipediaにも載ってる)、象印の公式HP・社史ともにそんな話はなく、いわゆる「そんなことは言ってない」9。
で、虎のマークの魔法瓶…連想ゲームすればおわかりでしょう、菊池製作所は現在のタイガー魔法瓶です。
現在は調理家電の大手としてしのぎを削る両社ですが、人間で言えば同じ町の産湯を浸かった幼馴染(象印の方が2018年、お先に100周年)、「象」「虎」のブランドは同い年(大正12年生まれ)です。
象印の社史には、川口華商とのタッグを組んだ活躍が公式HP上の沿革にも書かれていますが、タイガーの方は特に記載なく、川口華商との絡みはないようです。
戦争に消えた川口華商とチャイナタウン
川口の中国人の数は、昭和5年(1930)には1,737人とピークを迎えました10。
実際に行くとわかりますが、華商が固まっていた本田一番町・二番町(現在の本田1,2丁目)は、広い大阪の中では猫の額ほどしかありません。そこに1000人以上の中国人がいたとすると、けっこうな密度です。
大正末期~昭和5年くらいが、中華街としての川口の絶頂期でした。
その後の日中貿易は、大陸情勢の硝煙臭さの濃度と共に不安定となっていきます。
昭和6年(1931)の満州事変以後、日本と大陸との関係が怪しくなったと同時に、華商が独占していた日中間貿易に日本の大資本が参入。対中貿易の半分を占めていた原料の現地生産も始まり、それによって1,500人いた華商は300人に急減しました11。
3年後の9年には再び1000人越えと商売も回復するものの、昭和12年の支那事変(日中戦争)とその泥沼化により日中貿易は再び先細り、川口に住む華商の数も再び減少しました。
しかし、川口華商の数の最後のデータは昭和15年(1940)でも1000人強12。
上の川口の写真は、ちょうどこの時のものとなります。
昭和16年の対米戦以後は貿易も統制され、商売どころではなくなった中国人は次々と帰国。さらに昭和20年の空襲で川口界隈は焼失、大阪の中華街の歴史はここで幕を下ろしました。
大阪中華北幇公所付属中華学校も空襲で焼け13、1946年に本田小学校の校舎の一部を借り、「関西中華国文学校(すぐに大阪中華学校に改名)」として再スタートしましたが、1956年代に現在の地に移り、現在に至っています14。場所こそ違うものの、大阪中華学校は川口中華街の残滓だったのです。
毎度のごとく文章が長くなってしまった、ここでいったん中入り。
実際に川口を訪ねた後編は次回へ。
①大阪市産業部貿易課編『事変下の川口華商』(昭和14年)
②大阪市編『西区史 第二巻』
③大阪市編『西区史 第三巻』
④西口忠『川口華商の形成』
⑤宋晨陽論文『チャイナタウンとしての南京町の戦略-南京町商店街振興組合に注目して』
⑥論文『日本における華僑学校の現状』張澤崇
⑦ブログ「中華街たより(2018年5月) 『大阪川口華商』 – 日韓・アジア教育文化センター」
⑧大阪中華学校HP-学校案内
⑨象印マホービンHP「象印のあゆみ」
⑩象印マホービン経営推進部企画・編集『象印マホービンの90年』
⑪タイガー魔法瓶