真田山陸軍墓地-大阪の中心にある異空間

大阪史
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大阪の真ん中に墓地が!その正体とは!?

先日、大阪は玉造の方へ行って用事を済ませてきたのですが、さて用事も済ませたし帰るかと引き返そうとすると、ある方向から妙なプレッシャーが。
それは境内の横にある小さな公園の方向。公園しかない。しかし、このまま帰るなという、後ろ髪を誰かが引っ張るような感覚を覚えました。

その方向へ向かってみると…

大阪の真田山陸軍墓地
筆者
筆者

なんだこりゃ!?

どう見ても墓場ではありますが、なんだかタダの墓地ではなさそう。

ここで、私のカンがピンときました。
私には、傍目から見ると変かもしれない癖があります。

墓場に行く時、趣味が悪いかもしれません、ちょっとした楽しみがあります。それは墓石に書かれた人物と、死亡した日付などを見ては、その人が生きていた頃、どういう人生を送っていたのか思索にふけること。

特に、先の戦争で戦死した兵士たちの墓標を優先的に見ています。誰が、いつ、どこで亡くなったが詳細に書かれているので、お墓として興味深いと見ているのですが、この同じような墓標の行列、これは陸軍か海軍の墓地に違いないと。

公園から見下ろす形でその墓場はあり、斜めの草の坂になっています。近付いてみると一目瞭然。やっぱし旧日本陸軍の墓地でした。

それにしても、何でこんな所に陸軍の墓地が?

とスマホを取り出し早速ググってみる。するとここは、

「真田山陸軍墓地」

という旧軍の墓地でした。

真田山陸軍墓地のお墓を拝見

ここは明治4(1871)年に作られた、軍の墓地の中では日本最古の集団墓地。旧陸軍墓地は、福岡や広島など大小合わせて全国にいくつか残っているのですが、ここ真田山は最大の規模となります。

明治4年、同じ年に日本に徴兵制が敷かれたのですが、それと同時に出来たということになります。

真田山陸軍墓地と大阪パノラマ地図

大正13年(1924)発行の『大阪市パノラマ地図』にも、しっかり記載されています。

ちょっと墓標を拝見させてもらうと。

真田山陸軍墓地

軍人軍属の墓標には上述のとおり、いつ、どこで亡くなったのかが書かれていますが、墓標を見てみると、揃いに揃って「明治十年」の文字が。
明治10年に何があったのか?いや、あったのでしょう。それほど「明治10年」の横並びでした。

その墓標のもう一つの特徴は、こう書かれていること。

「鹿児島県賊

墓石に刻まれた文字が風化して判別できない部分も多かったのですが、私の脳内データベースを駆使したところ、

鹿児島+賊+明治十年=西南戦争

と出ました。

明治10年に起こった西南戦争、西郷隆盛が政府に対し鹿児島で反旗を翻した、あの戦争の戦死者を葬った兵士の墓なのです。
西南戦争(または西南の役)は、明治初期に起こった最大の士族反乱です。同時期に起こった士族の反乱の中でも、あまりに規模が大きかったが故に「~の乱」ではなく「戦争」になっています。
明治10年というと今から130年前のこと。一般墓地で見る墓標は、太平洋戦争で亡くなった人のものがほとんどですが、ここまで古い兵士の墓標は生まれて初めて見ました。
が、さすがに130年も経ったら風化が激しいのか、墓標に書かれた字が判別できるだけならまだマシ。字が判別不能のものや、墓標自体が壊れているものが多かったのは、少なからず時代の流れの冷酷さと無情さを感じました。

この墓標には、眠ってる兵士の出身地も書かれています。
それを見てると、大阪はもちろん、福島県の会津やら、東京やら、山口県やら、色んな地方の人が眠っていることがわかります。そして、時代背景を思わせるこんな記述も。

真田山陸軍墓地

平民

って、いつの時代の言葉やねん!?
明治時代なのに、いや、明治時代だからなのか、当たり前の如く「平民」と書かれています。墓を見てみると、判別可能な限りだと「平民」が多かったですが、「農」の字が見えるお墓もありました。「農民」出身もいたのでしょうか。

西南戦争時の官兵は訓練度も士気も低く、西郷の下に集まり士気が高かった薩摩軍に最初はコテンパンでした。が、警視庁で働いていた旧幕府軍関係者から「抜刀隊」という精鋭を集め、勇敢に戦ったそうです。
その中でも、旧会津藩の人が大活躍したという話が。実際は会津藩士ばかりが活躍したわけではないですが、今でも話が残っているということは、一騎当千の如き奮闘ぶりだったのかもしれません。

会津の人は、戊辰戦争の時は「賊軍中の賊軍」として数々の辛酸を嘗め、旧長州(山口県)の人をひどく嫌っているという話を聞いたことがあります。
いつかは知りませんが、萩市が「もうあの時から100年経ったから、そろそろ仲良くしましょうや」と会津若松市に交流を打診すると、

まだ100年しか経ってねーよ!

と萩市の手を振り払ったという逸話がWikipediaに書いてありました。

また、福島県出身の俳優西田敏行が大河ドラマ『翔ぶが如く』で西郷隆盛を演じましたが、その際故郷の友人や親戚にお伺いを立て、
「長州はダメだが、薩摩ならまあいい」
と「了承」をもらったというエピソードもあります。

今でも陸上自衛隊や防衛大学校、警察の行進曲に使われている「陸軍分列行進曲」は、西南戦争の時の「抜刀隊」の活躍を歌詞にしたものです。それをシャルル・ルルーという、やたら「ル」が多いフランス人の軍楽顧問が編曲して行進曲に仕立てたもの。

確認はできなかったですが、この「抜刀隊」の墓もいくつかここにあるらしいです。

「生兵」とは

100年以上経った荒廃が激しい墓標の中に、ちょっと奇妙なものを見つけました。

真田山陸軍墓地

「生兵」って何ぞや!?
「故」ならわかるけれども、この「生兵」と書かれた墓標を少なくても3柱確認しました。また、この「生兵」の死亡年月じゃ明治十年ではなくバラバラ。
何の知識もないままその場で推定してみると、

「従軍して生きて帰ってきたけど、『戦友と一緒に眠りたい』って希望した人」

と推測してみたのですが、現実はそんなロマンティックなものではないらしい。
調べによると、「生兵」は「せいへい」と読み、明治7~20年まで存在した制度でした。
徴兵で集められた男が半年間「新入社員教育」ならぬ新兵教育を受け、それに合格した者が二等兵として階級を送られたのですが、その半年間の、階級すら与えられなかった兵隊を「生兵」と。

確かに、普通の墓場にある兵士の墓標には、
「故 陸()軍 ○○ 名無権兵衛 墓」
のようにに、○○の部分に階級が書いてあるのですが、「生兵」にはそれが書かれていない。
「生兵」は戦闘には参加してないので戦死はあり得ない(はず)。確認したところ、「生兵」の死因は「病死」でした。
つまり、訓練中に病死したり事故で亡くなった人の墓ってことで、どうやらここには全部で113基の「生兵」の墓があるらしい。
その113基の内訳は、

・病死:71人
・事故死:2人
・負傷が悪化:1人
・不明:39人

「不明」が妙に不気味に感じます。

NEXT:真田山陸軍墓地の探検は、まだ続く
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