ガマ将軍南喜一から見た玉の井|おいらんだ国酔夢譚番外編|

玉の井と南喜一とヤクルト 遊郭・赤線跡をゆく
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玉の井私娼解放運動

運動を開始した南は、

「借金と身体は別のものだ、借金のために身体をダメにして働くことはない。借金は他の仕事で返せばいい。不当な待遇のなかで泣いていることはない。すぐに飛びだぜ!」

『ガマの闘争』

というようなガリ版のビラを何千枚も刷り、玉の井の銘酒屋街にばらまきます。

南一人が運動を起こしても、所詮多勢に無勢でしたが、元々演説が上手く人を引きつける何かを持っている南には、二つの味方がついてくれました。
一つは、労働運動の同志。具体的には寺島界隈の工場の従業員ですが、南の労働運動の同志は5000人以上と言われ、一声かければ「戦闘員」として完全武装で駆けつけました。
もう一つは、地元のヤクザ。
玉の井の業者は、前述にとおり治安維持という名目でヤクザをつけています。しかも、向こうは

南なんて東京湾のふかのエサにしてやる!!

といつでも殺してやると息巻いている…南は肉体労働に従事したことがあるだけに体が非常に頑丈、相撲も並みの力士くらいの強さを誇っていましたが、やはり一人では多勢に無勢、下手すれば殺されるのは自分の方。

南が採用したのは、「毒を以て毒を制す」
南は若いころ、飯島という東京でも一二を争う地ヤクザのボスと喧嘩し、それがきっかけで二人は義兄弟の契りを交わす仲となりました。
その飯島は昭和3年(1928)に亡くなってしまうのですが、後を引き継いだ親分が先代との約束も引き継ぎ、用心棒兼「玉の井女性向上会」の広報を買ってくれることに。
しかも、組合側のヤクザに飯島の子分が少なからずおり、面従腹背よろしくスパイとなってくれたのも幸いしました。

ビラの効果はすぐにあり、酌婦たちが毎日のように南の家に駆け込み、玉の井のひどい実態を訴え始めました。
女たちは、千葉県にいた前妻1の兄が隠れ家を提供してくれた場所で匿い、雇い主に直接交渉することに。

その間に南は、女性たちに労働組合を作らせることにしました。女と雇用主との間の待遇改善を、団体vs団体という土俵に持ち上げようとしたのです。

団体交渉権は、現在では憲法第28条で保証されている権利ですが、当時はそんなものありゃしない。しかも、娼婦の組合など前代未聞。遊郭の公娼でさえも、遊女による団体ストはありましたが「団体交渉権」はありません。ましてや、労働組合ができたのは戦後の赤線時代です。

南は「玉の井女性向上会」という団体を設立、酌婦たちに加盟させ「客を取る数の制限」「外出の自由」「帳簿の随時公開」などの要求を求めることとなりました。
しかし、組合側は団体交渉を拒否、南らの解放運動と組合側は真っ向から対立しました。

埒が明かない中、南は最後の一手を打ちます。
労働組合の同志を集めてビラを配るいつもの作業を行う中、南は彼らにある命令を出しました。

南

今日は丸腰で行け

今までのビラ配りは、組合側の用心棒に対する護身用に鉄の棒や脇差しドスを差して行っていましたが、今回は丸腰で行けと。
続けて南は指示します。

南

向こうが襲ってきても一切手出しするな

これは間違えると自分が死ぬ危険な賭けでしたが、彼らも南の親分の言うことだからと指示に従うことに。

案の定、丸腰の彼らに組合の用心棒が襲いかかり、一人が組合事務所まで拉致されてしまいました。
しかし、これが南が望んでいた展開。よし罠にかかったと、事務所へ単身乗り込みをかけることに。

南

オレが一時間経っても戻ってこなかったら、隅田鉄工所へ動員をかけてくれ

隅田鉄工所には、南の親分のためなら命も惜しまない工員兼戦闘員が約800名、彼のお呼び待ちの状態で待機しており、事の進み具合によっては組合と「一戦交える」覚悟だったのです。
一つ事を間違えたら「玉の井戦争」が起こり、血の海となってしまう一触即発の状態。果たして事の顛末は!?

南が組合事務所へ向かったこの時の服装は浴衣一枚の丸腰、武器など持っていません。まるで銭湯にでも行く格好だったと本人が述べています。
が、これが逆に作用し、向こう側をビビらせることとなりました。

詳細は省略しますが、南の組合幹部の不法と搾取を説いた説得に、最初は聞く耳を持たなかった雇用主側も、

南の言うことの方に理がある

と南の弁舌に耳を傾けるようになりました。
そして空気が南の提案に賛成に変わってきたところで、彼は最後に、

南

この南の言うことが正しいか間違っているか、もう一度皆さんで検討いただきたい。その後にまた皆さんと話し合いたい

そう言い話し合いを切り上げ、事務所を後にしました。外へ出ると、話を聞きつけた鉄工所の工員や飯島の子分たちが数百名、完全武装で事務所を取り囲み、それを100名近い警察官が取り囲む異様な風景となっていました。

しかし、これが功を奏し寺島警察署長が間に入るということで、警察署で交渉の第二ラウンドが開始。深夜2時まで及んだ交渉の結果、銘酒屋を締め上げてきた組合幹部たちも折れ、南の要求のすべてを呑むことで決着がつきました。
幹部の搾取に悩んでいた業者も、酌婦の「玉の井女性向上会」への参加を黙認する形で南の味方につくこととなり、「玉の井女性向上会」は以下の権利をGETします。

・外出の自由

・労働時間の自由

・買い物の自由選択

世間からも雇い主側から「モノ以下」扱いされた私娼も、ようやく「人並み」の権利を手に入れることとなりました。「暑い盛りの頃だった」と南が記しているので、おそらく昭和8年の夏の頃だったのでしょう。

かくして、南たちが命を懸けた運動は、他の私娼窟や遊郭にも大きな影響を与えることとなりました。

南がぶつかった、日本の現実…

  1. スペイン風邪で死亡。
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