みんなで学ぼう!神戸の空襲

神戸の空襲昭和史
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神戸大空襲予行演習(昭和20年2月4日)

「ドーリットル空襲」の頃はまだDo Nothingと皮肉れるほどの余裕があった日本も、昭和20年に入るとほとんど余裕がなくなっていました。戦争中の体験記などを読むと、戦前は裕福だった文士も昭和19年末になると食うものも食えず、食糧事情が逼迫し始めた頃でもあります。

昭和19年(1944)8月、サイパン島などマリアナ諸島が陥落、ここに米軍が飛行場を作ったことにより、日本本土のほとんどがB29の空襲の射程範囲に入りました。

日本本土への空襲も、翌年から各地で行われることになりました。

サイパン陥落以降、神戸の上空にはB29の編隊が飛んでくるようになりましたが、あくまで偵察や写真撮影用。なーんだ、爆弾落としてこないのかよと市民が安堵する中、焼夷弾による爆撃が2月に行われました。

戦災概況神戸市昭和20年2月
(国立公文書館デジタルアーカイブ『戦災概況図 神戸』より)

濃い赤の部分が被害箇所ですが、これは焼夷弾の威力を試すための実験空襲だったことが米軍の公開資料からわかっています。鐘紡や川崎車両などの工場が被害を受けたものの、友軍機も応戦したこともあり範囲の割には被害は少なかったようです。

また、7日の午前1〜2時の間にも空襲があり、1トン級大型爆弾で元町の大丸界隈の建物のガラスがすべて割れたなどの被害が出ました。


しかし、この前月に、米軍は無差別空襲を主張したカーチス・ルメイが司令官に就任。これは翌月から起こる地獄絵図の、ほんの腕鳴らしに過ぎませんでした。

第一回神戸大空襲(3月17日)

空襲実施機数(B29):307機
投下爆弾量:約2,328トン(焼夷弾が中心)

被害区域:兵庫区、林田区、葺合区、新開地、元町、三ノ宮

神戸空襲戦災地図3月
(昭和20年3月神戸市戦災地図。国立公文書館デジタルアーカイブ『戦災概況図 神戸』より)

東京大空襲から一週間後、神戸ははじめて大規模空爆の被害に晒されます。都市工業地域に対する夜間焼夷弾攻撃と中高度昼間攻撃法が併用されることになったこの空襲によって、西は現在の長田区・兵庫区、東は三ノ宮駅前など神戸市の西半分が多大な被害を受けました。
妹尾河童の傑作、『少年H』で描かれている神戸空襲は、この3月のものです。

神戸大空襲新開地
1945年3月の空襲で焼けた神戸新開地
神戸大空襲元町
空襲から一夜明け、煙が充満する中逃げる人たち(JR元町駅付近)
神戸大空襲神戸工業専門学校
焼夷弾の直撃を受け炎上する神戸工業専門学校(現在の長田区)

(いずれの写真も神戸市「神戸の戦災 写真から見る戦災」より)

この空襲に一つ、大きな特徴があります。それは超がつくほど低空からの爆撃だったということ。
B29による空襲と聞いてイメージするのは、「かなり高いところ」からということを想像することがほとんどだと思います。それはある意味当たっています。実際の空襲も、6,000~10,000mからということが多い。

しかし、この空襲の攻撃高度は1,900~2,500m。神戸の空襲全体の平均攻撃高度が、ざっくり5,000~6,000mくらいなので1、2,000mなど異常とも言える高度です。3月10日の東京大空襲も同様の高度でした。
地面と高度の距離が近いと、目標に対する命中率は当然上がりますが、撃墜されるリスクも高い。2000メートルなど対空高射砲の絶好の餌食なのに、敢えてその高度でやってくるということは、やる方も決死の覚悟です。
勝ったのですべて「正義」とされましたが、アメリカさんも彼らなりに「特攻」ってやってたのです。ただ、パイロットに「死んで来い」とは言わなかっただけで。

しかし、さすがにこれは高度が低すぎて迎撃の友軍機や高射砲の餌食になり被害も大きく、以降の空襲の高度は上述した5〜6000mとなっています。

NEXT:『火垂るの墓』にも描かれた最大の空襲

  1. 神戸市文書館資料から平均値を割り出し。
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