『鬼滅の刃 遊郭編』が始まりました。「遊郭」という言葉にアレルギーがある人たちの大きな反発が予想されましたが、無事放送開始になり、遊郭探偵としては少しホッとしています。
『鬼滅の刃』自体には興味がなく、前回の『無限列車編』は全く見ていません。しかし、今回は遊郭を舞台にしているとのことなので、せっかくだから見てみようと、久しぶりにアニメを見てみました。さすがは人気アニメ、内容は面白かったので、ここから私もハマっていくのだろう…すぐにマンガ喫茶に駆け込んで原作読みに行きました。これをことわざで、木乃伊取りが木乃伊になると言います(笑
しかし、面白い面白くないという感情を極力排除した、考証も兼ねています。
「遊郭史家が『鬼滅の刃 遊郭編』を見るとどうなるのか」という副題を織り交ぜ、ストーリーを愉しみながら鬼滅の刃と遊郭の絡みを考証してみようと思います。アニメを批判したりdisったりする意図は全くないことを先に記しておきます。
また、遊郭とはどんなものなのか、いまいち整理がついていない鬼滅ファンの方も、まずはアニメはアニメで楽しんで、
実際の吉原や遊郭ってどんなのだったんだろう?
という時に、本編を見て二重にお楽しみいただければ。
鬼滅の刃に描かれた吉原の風景①ー仲之町通り
『鬼滅の刃 遊郭編』第二話には、吉原の象徴として大通りが登場します。
台詞にも「吉原」と言っているので、ここは吉原の大通り「仲之町通り」です。
夜の帳がおりた頃に人がどことなく集まり、通りの真ん中に植えられた季節ごとの木々は、吉原の表の面を派手に演出していました。吉原ってこんなんやったんやろなーと想像力を豊富にさせるきれいな描写です。
人は夜の明かりのもとに、夏虫のように集まり、それは盆も正月もなかったといいます。
『鬼滅の刃』の時代設定である大正時代を例にとると、大正5年(1916)の吉原の遊客数は1,256,813人1。1日あたり約3,443人が遊んだという計算で、「冷やかし」など実際に遊んでいない人は数に入れていません。推定ですが、純粋な人出はこの3〜5倍はいたのではないかと。
なお、明治後期〜大正期、つまり『鬼滅の刃』の時代設定の「仲之町通り」沿いに並ぶ建物は、遊女がいる貸座敷(妓楼)ではなく、芸者置屋や引手茶屋2でした。
「遊郭=遊女しかいない」というのは、遊郭全体を見るとハズレではありません。が、こと吉原に限ってはハズレ。
遊郭というものは、基本的に「遊女」「芸者」「幇間」(男の芸者)の連合体でした。よって遊郭には、貸座敷の場を盛り上げたり、客を貸座敷に誘導するセットアッパー役としての芸妓や幇間も少なからずいました。吉原芸妓は、2010年に最後の一人が亡くなり絶滅してしまいましたが、幇間はまだ健在です。
吉原と共に生きた江戸文化の担い手の一つ、幇間。日本に6人しかいなくなった幇間の一人、松廼家八好さん、ついに新宿末広亭デビューです!
(伯山ティービィーより)
吉原芸妓や幇間はお江戸全体に聞こえるほどレベルが高く、引手茶屋で彼(女)らの芸や唄を愉しむだけ、つまり貸座敷に登楼しない遊び方も全然あり。吉原に来る=女とニャンニャンするとは限らないのです。
鬼滅の刃に描かれた吉原の風景②‐張見世
『鬼滅の刃 遊郭編』では、客が見世の格子越しを覗いているシーンが見受けられます。これは一体なにを見ているのでしょうか。
江戸時代から明治時代にかけての遊郭の華と言えば、遊女が直接格子越しに並び、現物ディスプレイとして客を待っていた風景。これを「張見世」と言います。張見世とは、何人、何十人もの遊女が格子越しに並び、そこで男が格子越しに好みの「一夜妻」を選ぶというシステム。
時には格子越しに会話を続けているうちに恋が芽生えることもあったのか、『誹風柳多留』という江戸時代の川柳集の初編(1765年)には、
「相惚れは額へ格子の跡がつき」
という句が収められています。
「冷やかし」という言葉があります。現代は、買う気もないのに値段や在庫を聞く客に対してこの言葉を使いますが、「冷やかし」とはそもそも、実際に登楼する気もないのに張見世の遊女に話しかけたりする男のことで、遊郭から生まれた廓用語なのです。
『鬼滅の刃』にも、張見世で並ぶ花魁たちの姿が描写されています。キセルは張見世の必須アイテムの一つ、何をタバコを吸うためだけではなく、男の襟にキセルの先を熊手のように引っかけ、客を逃さないツールでもありました。
真偽は確かめようもないという前置き付きですが、かつての遊郭の妓楼跡で見つけた、遊女が実際に使っていたと伝えられるキセルです。けっこう小ぶりで、確かにこれは女性用っぽい。
しかし!
大正時代に入ると、今では空気同然のある概念が日本社会に浸透し始めます。それは「人権」。『鬼滅の刃』の時代は、ちょうど日本に人権という概念が芽生え始めた頃でもあります。
遊郭も、人権の面から批判の矢面に立てられます。張見世は女を「モノ」として扱う非人道的行為だ…そんな声が東京はもちろん、全国規模に拡大していきました。
遊郭は国が認めた公娼ではあるけれども、公営ではありません。商売である以上、時代に合わせて変化していかないと生き残れません。そんなことは、遊郭をビジネスとしてみれば「1+1=2」なくらいの絶対定理。実際、経営戦略を間違えたり、時代の変化についていけず潰れてしまった遊郭は、山形県米沢や大阪堺市の乳守などが例としてあります。
遊郭史を法制史や経営学など別の面から見ると、システムや法律などが時代に合わせて細かく変わっていっています。
張見世も例外ではありません。大正初期に法律が改正されます。
・第十六条ノ二
引用:「貸座敷引手茶屋娼妓取締規則」警視庁
「貸座敷営業者ハ娼妓ヲシテ張見世ヲ為サシムベカラズ」
(大正五年五月警視庁令第八号改正)
文語体なのでわかりにくいですが、要は遊女に「張見世」させちゃダメよということ。ということで、大正5年(1916)8月1日3から、東京の遊廓すべてで張見世が禁止されます。
遊郭=張見世というイメージで、かつそれが遊郭がなくなるまでずっと続いた…なんて思っていた方、遊郭に関する知識が江戸時代か明治くらいで止まっています。さっさとアップデートしましょう。
そんなの法律だけで実際は隠れてやってたんじゃないの?
売春防止法があるのに現在も風俗産業が花盛りな現実を見ると、そういう斜めな考えになっても仕方ない面があります。
が、遊郭は公許なので、隠れて張見世やれば営業停止処分は免れません。
時代も法的背景も違いますが、つい先月(2021年11月)にも、関西では知る人ぞ知るちょんの間、兵庫県尼崎市のかんなみ新地が潰されました。理由は不明ですが、おそらくコロナの非常事態宣言中に隠れて営業していたことが、警察の逆鱗に触れたのでしょう。
警察権力をナメてはいけません、警察がやっちゃダメということを守らないと、このように髪の毛一本この世に残すことすら許されないくらい潰されます。
吉原の場合を説明します。
前述のとおり、吉原遊郭は貸座敷・芸妓置屋・引手茶屋の連合体です。それぞれに組合があったのですが、その組合を束ねるのが「新吉原三業組合」。
そのトップは「取締」と呼ばれ、複数人が就任していました。上の写真は、吉原弁財天に残る取締役の玉垣です。
取締役は警視庁から廓内のある程度の治安・秩序維持の権限を委託されており、客とのトラブルのお裁きや、「悪さ」をする業者を吉原内の「議会」にかけて懲罰する権限がありました。他の遊郭にはほとんどない、吉原独特の制度だそうです4。吉原の格式を維持するには内部にも規律が求められ、それを乱す者は容赦なく追放とかなり厳しかったといいます。
この法令はあくまで警視庁令、つまり東京府(当時)だけの適用でした。しかし、遊郭を管理する法律「貸座敷娼妓取締規則」は内務省の法律の土台があるので、すべての地域で禁止されたのは容易に想像できます。大阪でも、大正7年(1918)の書物に「大阪では近来張見世を禁じられ」とあるので5、東京と同じ時期に禁止になったのでしょう。ただし、最終権限は各道府県に任されているので、北海道のように4~5年のブランクがある所もあります。
ただ…どことは申しませんが、某県の某遊郭ではこっそり張見世が行われたという伝説が残っています。あくまで伝説なので、真偽は定かではないですけどね。
『鬼滅の刃 遊郭編』の時代設定は大正時代ですが、明らかに吉原で張見世が行われている様子。なので、あくまで史実に沿えば鬼滅の時代設定は大正5年(1916)以前でなければならない。いや、資料によっては前年の4年には、吉原の貸座敷はすべて「写真見世」に切り替えているとの記録もあります。
張見世は遊郭の艶めかしい一面、ある意味シンボルではあります。が、張見世というエースを出しちゃった以上、『鬼滅の刃 遊郭編』の舞台は1910年代、大正元年〜5年(ないし4年)でないと筋が合わなくなってしまいました。
しかし、実際に『鬼滅の刃』の原作を読んでみると、時代的には大正前期かと感じます。実際、某SNSでたぶんイギリス人が
『鬼滅』のタイショー時代っていつなの?
と素朴な疑問をコメントしていたので、
大正時代は西暦で言えば1912~1926年までだけど、『鬼滅』は自分の推定だと1913~14年くらい。少なくても1923年9月1日※1よりは前。
ヨーロッパで人間同士が戦っていた時※2、日本では人間と鬼が戦ってた…ってイメージで結構
※1「浅草編」で「十二階」がチラッと写っていたため
※2第一次世界大戦のこと
と答えておきました。「第一次世界大戦の頃」と答えておけば、いちおうの模範解答でしょう。
ちなみに、アニメ派にはネタバレになりますが、お館様が柱合会議で言った「戦国の世」、無惨が縁壱にフルボッコにされ、びえーんと尻尾巻いて逃げた「戦国」は、
ざっくりで、英国のヘンリー8世か神聖ローマ帝国のカール5世(=ハプスブルク朝スペイン カルロス1世)が死んだ頃(西暦1550年前後)、またはその子どものエリザベス1世かフェリペ2世の絶頂期(1580年前後)。
(ちなみに、この頃にフランス語の文献に初めて日本語が出現した)
特にイギリス史では、
「日本人が漠然とイメージする戦国時代(信長の台頭~本能寺の変〜秀吉の天下統一~関ケ原の戦い~徳川家康幕府を開府)≒エリザベス1世在位期間」
と非常にわかりやすい。イギリス人やアメリカ人などには、こう説明しても結構だし、世界史の教養として覚えておいてもどこかで役に立ちます。
また、あのシェークスピアが活躍した頃でもあり、彼の作品の中ではいちばん有名な『ロミオとジュリエット』を書き上げ初上演された頃と覚えても良いかと思います。
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