玉の井の情景
昭和初期の玉の井最盛期の風景を、実際に玉の井通いをした一人が書いた本から、少し長いですが引用してみます。
何となく、文字から玉の井の雰囲気が醸し出されるかもしれません!?
午後四時を過ぎると、ラジオや蓄音機を鳴らすことも、花街らしい三味線の爪弾きさえ禁じられて、嫖客の下駄や靴の音、女が小窓から客を呼ぶ声だけになる。
「ちょいと洋さん、いい男ね、寄ってらっしゃいよ」
「ねえ、めがねさん、ちょいと・・・」
「鳥打帽のお兄さん、口あけだから安くしとくよ」
といった秘密めいた声や、ねずみ鳴きが交錯する。
(中略)そばに介添えの婆やがついていて、当人は恥ずかしそうに眼を伏せているものもいる。
「初見世ですよ、あがってやって下さいな」
婆やが代わりに客を呼ぶ。窓に座って一週間や十日たっても、初見世で通るのである。
(中略)そのうちあなたは気に入った顔立ちの女を小窓の中に発見して、吸い寄せられるように小窓へ近づくにちがいない。
「あがって下さる?」
以心伝心、女はあなたがその気になったことを見抜く。
「いくらだい?」
「野暮いわないで、さぁ・・・」
女はバタンと窓を閉め、すわっていても手の届く引戸を開けた。
2つの呼び込み部屋の双方に引戸があって、中に入れば土間は一つなのである。
土間を上がると、鼻の先に二階への階段がある。値段の交渉は二階へ上がってからでもいい。その結果折り合わなければ、ギザ一枚(50銭硬貨)置けば帰れるのが、昭和4,5年頃のルールだった。
階段というより梯子段といった方が近いのを上がって、二畳ほどの引付け部屋に入ると、女は茶を運んできて、安物の花梨の卓の上に置いた。
お茶といっても出がらしの番茶である。この「おぶう」を多分あなたは飲まないだろう。何となく性病のバイキンが、茶の中に浮遊しているような気がするからである。
だが、あなたは目の前の女をまじわることは、不思議に不潔感がない。
「泊りでいくら?」
「いくらならいいの?」
「君の方から言えよ」
「あんた遊び馴れているんでしょ。この間もこの前通るのを見たわ」
「はじめてだよ、ノイは」 (※「ノイ」は玉の井の略語)
「三円五十銭でどう?その代わりもうお客取らないから」
「二円五十銭」
その時期、チョンの間が1円、泊りで2円、奮発して3円なら極上の客だった。
「ケチ」
と言って、女はもう一度腕時計を見る。
終業時間は近い。それまでに泊まりの客が取れるかどうか計算したのだ。
「いいわ、その代わり先に寝ててね」
「いや、湯屋に行ってくるよ。すまないが手拭と石鹸貸してくれ。石鹸代をおまけにしてポッキリ3両」
なるほど遊び馴れている。
女にチョンの間稼げる時間を残して、しかも女から風呂道具を借りて、銭湯で一と汗流して来るなどは、相当この土地で年季を入れていなければ出来ない芸当だ。
(中略)あなたは明日の朝、日の出ないうちに起こされて、はいって来た口から寝ぼけ眼の女に送り出され、シーンとした昧爽の空気の中を、東武線玉の井駅へ寝不足の不透明な気持で歩いて行くことになる。
(出典:『新下町伝説』東京新聞出版局)
いずれも1930年代前半の玉の井を写した写真です。2枚目は1932年の9月、ちょうどこの時期に流行した「アッパッパ」を着ています。
玉の井はこんな風景が迷路のようにあり、狭い路地の左右から女性に
「ちょいとお兄さん…」
とピンク色の声でささやかれると、気の弱いオスは全く太刀打ちできません。おそらく私もダメ。
「そんな女性たちが、店にある「覗き穴」から玉の井界隈を漂う客を誘惑するのである」とその本には書かれていました。上の提灯には「山お」らしき文字が書かれていますが、おそらくその店の屋号でしょう。
玉の井の最期
日本は戦争への道を進み始め、国内全体に暗い空気が流れた昭和12年以降も、玉の井の繁盛が変わることはありませんでした。いや、むしろ赤紙(召集令状)で戦争に行く男たちで余計に賑わいました。「旧玉の井」の最盛期は、彼らが押すな押すなと駆け込んだ昭和12~13年という人もいます。
更に、上述した『濹東綺譚』によって玉の井の名前が全国区になり、地方からのお上りさんも増えて空前の盛り上がりを見せました。
そんな玉の井に終わりが来たのは、昭和20年3月10日の東京大空襲。
ここあたりも空襲で跡形もなく焼失、いや消失、戦前の玉の井の歴史はここで終わります。『寺島町奇譚』によると空襲直前まで営業が行われており、この漫画のクライマックスにもなっていります。
終戦2年後の写真でもこの通り。東向島駅の東側(右側)に「ラビリンス」と永井荷風が表現した魔窟があったはずなのですが、きれいさっぱりお掃除されてしまったようです。現在に残る戦前の玉の井の面影は、「お歯黒どぶ」の上にフタをするように作られた狭い道路以外全く残っていません。
コメント
BEのぶ様
初めまして、天王寺駅の怪にノックアウトされた者です。
現在玉の井旧3部に居住しており、その昔は母方の叔父夫婦が同カフェー街で銘酒屋を営んでおりました。
そんな血と育ちから、古めな鉄道と遊郭跡を求めて全国を彷徨っております。
貝塚と言えば遊郭跡と水間鉄道、これからもブログを楽しみに致しております。
>東京YSさん
はじめまして。拙ブログをお読みいただきありがとうございます。
趣味が合いそうなプロフィールですね、これからどんどん更新していくので、またよかったらお読みいただければと思います。
あと、玉の井のことで何かお聞きになっていたら情報いただけたらなーと。
戦後の地図には旧京成白鬚線跡と東武伊勢崎線、それに3部西端とで囲われた辺りにも旅館が数件記載されていて、現在も遺構が1件残存しています。エリアの線引きには曖昧な面があったのでしょうか。
その点カフェー街は組合が厳しかったこともあり、そうそう散らばらずかなりの密集度だったようです。
叔父夫婦はメインストリートで「けい」(前屋号「金波」後屋号「せいこ」)という店を営んでおりました。
賑わいはメインストリートもさることながら、そこから北へ伸びる二本の路地が特に凄かったそうです(貴ブログ③の写真ですね)。
旅館「錦水」を過ぎてアールの手摺りのある大店「鹿島屋」までの間にこれでもかというくらいの店があり、さらに西へ向かう路地の更にその奥の路地のとば口に貴ブログ⑤でエアコンが飛び出ている遺構「銀月」か「うきよ」?があったわけです。
玉の井も多くの建て替えが進んでいますが、ここは今でも最もディープな一角だと思います。
>東京YSさん
最後に行ったのがかなり前だった上に、まだ遊郭・赤線史研究家の駆け出しの頃だったので、来月玉の井と鳩の街など東京の赤線跡再調査に行こうと思ったら!
コロナで断念せざるを得ません。
夏には収束していると思うのでその頃に行きたいですが、その頃には当時の建物が残っているだろうか(いやもうなくなってるか)、心配です。
その点関西は貴重な物件や街並みがまだまだ多く羨ましい限りです。
実は私も、201系の最後をチェック〜播但線で梅ヶ枝遊郭へ〜和田山駅の機関庫(まだ有りますよね?)まで足を伸ばそうと思ってましたが、やはりコロナで躊躇しています。
先が見えずに困ったもんです。