高畑勲監督の名作『火垂るの墓』は、戦争という大人の勝手に振り回される幼い兄妹、そして戦争という大きな渦の中、ゴミのように消えていく二人の命。号泣不可避の映画です。
イギリスの映画雑誌でも、見た後トラウマになる映画の第6位にランクインしたとか。
しかし、こんな泣ける映画に
ちょっと待った!その設定おかしい!
とクレームをつけた不届き者…じゃなくてある人たちがいました。
それが元海軍士官たち。
彼らはあの映画のどこに怒りを感じたのか。
大人の姿をした子供になり、特に昭和の社会史や海軍方面の考察を深め、「歴史狂」となった上で改めてこの映画を見てみると、この映画、脇が甘くツッコミどころが多いのです。今まで涙に濡れて見えなかったものがクリアになってゆく…
なおここから、映画のストーリーの矛盾に対し、血も涙もない客観的考証をしていきます。先を読むと『火垂るの墓』のイメージが壊れる可能性があります。お涙頂戴のかわいそうな映画というイメージを崩したくない方は、此処から先は読まないで下さいなんて言わないことはありません。
ええか、絶対読んだらあかんで。ホンマにあかんで(笑)
『火垂るの墓』の矛盾-清太と巡洋艦『摩耶』
映画では、こんなシーンがあります。
清太「兄ちゃんな、節子の生まれる前、観艦式見たことあったんや」
節子「かんかんしき?」
清太「せや。お父ちゃん、巡洋艦『摩耶』に乗ってな。連合艦隊勢揃いやで」
観艦式とは、軍事パレードのひとつで、軍艦を並べて壮行する式のことである。
■『摩耶』(まや)
摩耶は、日本海軍の重巡洋艦。高雄型の3番艦である。川崎造船所(現在の川崎重工業)神戸造船所にて起工。艦名は兵庫県神戸市の摩耶山にちなんで命名された。
レイテ沖海戦で米潜水艦の雷撃により沈没、戦艦武蔵に救助された乗組員が翌日の武蔵の沈没を体験したことで知られている。
考察しながら書くのが面倒くさいのでどちらもWikipediaより抜粋
その後、軍艦マーチをバックに敬礼をした兄妹の父が登場します。ちなみに、原作では「『摩耶』と父の姿を探したが見つけられなかった」となっています。
兄妹の父が海軍大尉だったという設定は、ここで裏付けられます。
何故わかるのかって? 軍服(正式には『第一種軍装』という冬服)の袖にある模様に注目。
黄色で囲んだ部分を袖章(そでしょう)と言い、水色の丸にある襟章(えりしょう)とは別に階級を表す海軍独特のものです。これは世界中の海軍ほぼ共通のもの。
(袖章一覧)
袖章は各階級によって紋様が違いますが、上のサンプルと比較すると父の袖章は大尉のものだとわかります。
大正11年(1922)11月、淡路島(洲本など)を行啓された摂政宮(のちの昭和天皇)の、海軍礼服姿の写真です。海軍軍服姿なので袖章がついていることがわかります。これを見ると同じ幅の金筋が3本。これは海軍少佐を表し、昭和天皇のご経歴と照合しても間違いありません。
袖章は今の海上自衛官にもあり、今でも士官と内々で呼ばれる幹部には金筋の袖章がつけられています。ただし、旧軍はイギリス海軍式で海上自衛隊はアメリカ海軍式。
写真のは一本線なので三等海尉、旧軍の少尉候補生ですね。おそらく幹部候補生学校を卒業したてのペーペー三尉でしょう。
それがどうしたと言えばそうなのですが、この階級が後々議論の的、映画の大きな矛盾となるのでいったん置いておきます。
ここで清太の回想をまとめると。
1.過去に神戸で行われた観艦式で
2.巡洋艦『摩耶』に乗った父を見た
ということ。さて、これを史実と照らし合わせていきます。
神戸の海軍観艦式
神戸で観艦式が行われたことは事実です。昭和に入ってからでも2回あります。
■昭和11年(1936)10月:特別大演習観艦式 阪神沖(大阪湾一帯)
特に昭和5年のものは、明治41年(1908)以来12年ぶりとあって人が殺到。今の阪急神戸線から見える風景が軍艦丸見えの絶景と客が殺到しました。阪急も規格が違う宝塚線の車両まで投入してなんとかさばいたものの、最後は変電所がオーバーヒートしてぶっ壊れてしまい、全線運休したという阪急の黒歴史エピソードがあります1。
清太は昭和20年当時14歳という設定なので、昭和5年はそもそも生まれておらずあり得ない。よって昭和11年のはずですが、原作を読むと「昭和10年」となっていました。節子それ1年ずれとるわ。
国立国会図書館の資料の地層の下に、こんなものが埋もれていました。
実際に行われた観艦式の一次資料です。映画の中で、清太が見たという観艦式の史実のすべてが書かれています。
ちょうどええわと中を見てみると、『火垂るの墓』のシナリオが成立しなくなる、重大な、非常に重大なことが…。
昭和11年の大演習は、阪神沖(大阪湾)に戦艦『長門』『陸奥』を筆頭に100隻以上の艦艇が集まり、大阪湾全海域貸切という大規模なものでした。
大阪府の半分以上の長さほどの海域に艦艇が配置されていることから、今では再現不可能な規模の大観艦式だったことがわかるでしょう。
大元帥陛下こと昭和天皇は、大阪港からお召し艦『比叡』に乗り込んでいるのですが、この観艦式を大阪史サイドから見てみると、2年前の昭和9年、室戸台風の高潮(東日本大震災の津波級)によって壊滅した大阪港の復興記念も兼ねていたようです。どおりで前の観艦式との間隔が短いわけだ。
観艦式という一大イベントに、神戸の街も奉祝という名のお祭りムード。お店は「観艦式記念セール」を行い、当時の神戸一の繁華街だった元町通りも、下の写真の通り。
(『昭和十一年海軍特別大演習 観艦式神戸市記念誌』より)
当時の神戸の町の夜の光を、資料ではこう記されています。
観艦式ご盛儀を奉祝するイルミネーションは、(中略)言葉を変へて表現するならば、『光源の街』と象徴しやうか、はた『燃える神戸』とでも表現すべきか、山に、海に、そして大空に、網膜に映るものもの総てが光を放ち、夜の神戸は實に素晴らしい奉祝情景を現出した。
『観艦式神戸市記念誌』
『火垂るの墓』の清太の回想にある、ライトアップされた神戸の街は本当だったということです。資料中のイルミネーションとアニメの光景がよく似ているので、作画スタッフはこの資料を参考に描いたのかもしれません。
映画の回想の通り、艦艇もライトアップされていることがわかります。
ライトアップされた軍艦を特定したいところですが、全くのノーヒントにつきお手上げです。シルエットからして駆逐艦か軽巡…と思ったら、読者さんより「妙高型重巡で間違いありません」という指摘が入りました。
ただし、観艦式自体は午後2時10分に終了と書かれているので、劇中の夜のイルミネーションの中の観艦式はフィクションです。
この資料を丹念に見ていくと、ある衝撃的なことに気づくこととなりました。
おい、『摩耶』がいないじゃないか!!
「いない」って無意識に擬人化していますが(艦これやりすぎやな)、11年の観艦式に参加した重巡は『古鷹』『青葉』『衣笠』『妙高』『那智』『足柄』『愛宕』『鳥海』で、『摩耶』の名前はどこを見てもありません。資料内の複数の項目をチェックしても、『摩耶』の一文字も見当たらず。これは観艦式に『摩耶』は不参加だっという証明になります。
というわけで、『摩耶』は観艦式に参加していない以上、回想に存在するわけがない。兄ちゃんはウソツキやと節子が泣いています。
原作にも『摩耶』と書かれているのでそうなったのでしょうが、アニメは『摩耶』って名指しにせず、「巡洋艦」でボカしておけばよかったのにね~。
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