阪急三宮駅
JR三ノ宮駅の隣にあるのが、「お阪急」こと阪急電鉄の三宮駅です。正式には「神戸三宮」なのですが、便宜上本記事では三宮駅とします。
1936年(昭和11)に開業したこの駅は、「世界一格好いい駅」と呼ばれた超近代的な駅でした。
(上の写真のカラー化)
地元では「阪急会館」と呼ばれた神戸阪急ビル東館に電車が吸い込まれたり、はたまた出てくる光景は、地元民や鉄道好きな人にはおなじみでした。
しかし、よく考えるとビルの中に電車が通り抜けるというのは、攻めに攻めまくったデザイン。それが実にモダンで近未来的。当時は非常に珍しかった「地下鉄」の阪神三宮駅とともに、ハイカラ好きな神戸っ子の誇りでした。
この地上5階地下1階のビル自体も、中に映画館が3軒もあり非常にモダンな造りだったと聞いています。
川西英という版画家が戦前に制作した阪急三宮駅(当時は「神戸」駅)ですが、ビルをくぐったトンネル奥に見えるホームが、「省線」と呼ばれていたJR三ノ宮駅です。建物は変わったものの、構図は今も変わっていません。
これを見るだけで、当時のモダンぶりが容易に想像できます。阪急電車に乗って三宮駅に着く前の、信号の赤や青色が艶めかしく光る暗いトンネル(実はビルの中)を抜けると、そこには奥まで伸びた近代的なホームが。
暗闇の向こうから電車がガタンゴトンと音を立ててやってくる姿は、まるで手塚治虫アニメか銀河鉄道999のような世界だったことでしょう。私も6歳のときにはじめてこの駅を見た時、得も言われぬ6歳なりの未来感を感じ、親が制止しきれなかったほど興奮した記憶があります。
手塚治虫は、宝塚とは言え阪急沿線の出身。阪急で神戸にも来たことがあると本に書いていたので、三宮駅の近未来SF感が幼き手塚のインスピレーションを、少なからず刺激したかもしれません。
阪急電車と三宮駅は、『火垂るの墓』でも描かれています。映画では、先に亡くなった節子と一緒に電車に乗るシーンがあります。
それが阪急電車と三宮駅1。
二人を乗せた電車は三宮駅を出発し、
阪急会館のトンネルを抜けて大阪の方向へ向かいます。
『火垂るの墓』でも描かれた初代の駅ビルは、残念ながら阪神淡路大震災で壊れてしまい、現在は残っていません。今でも残っていれば絶好のネタだったのですが、ないものは仕方ない。
が、西側は残り現役で使われています。
どこかの高級ホテルと見間違えるような、白亜を中心とした色使いとデザイン。阪急の前に「お」をつけたくなるような高級イメージは、こういうところからも来ているのです。
この西口は、神戸に来たらわざわざ見に行く価値があるほどの昭和モダン建築の傑作、近代建築ファンなら必見の駅です。
閑話休題。
現在の駅ホームは、構造こそ変わっていますが基本的な位置は変わっていません。ホーム上の屋根も当時のままです。
そこで、ふと上を向いて屋根を見てみると!
なんだか穴を何かで埋めた感が。
これ、実は空襲で焼夷弾が屋根を貫いた痕なのです。
空襲で焼けた阪急三宮駅、奥の右の屋根の部分が当時のホームですが、屋根に爆弾で開いた孔が数多くあるのがわかります。AIでカラー化してみると、背筋が震えるほどリアルです。
また、左の駅ビルの4階と5階が焼けて窓枠がグシャグチャになっていることもわかります。焼夷弾が天上から貫き熱で焼けたか溶けたのでしょうが、3階までは焼夷弾も貫かなかったのでしょう。
この写真の右側の屋根が、多少補修されているとは言え今も使われているのですが、こんなに穴が開いているなら一ヶ所なわけがない。私のカンはそう申しておりました。
ここでも、坂本九の名曲そのままに上を向いて歩いてみると、やはり私のカンは正解でした。
あるはあるは、孔を埋めた跡が!!
孔の大きさからして、焼夷弾ではなく機銃掃射の痕じゃないかというものも発見しました。
これでもまだ一部です。これはそうじゃないかな!?ただの老朽化じゃないのかな!?と断定できないものまで入れると、阪急神戸三宮駅の真上は「孔だらけ」でした。
また、こんなものもありました。
空襲の熱で鉄骨が曲がってしまった姿も残っています。曲がりは設計上のデフォルトかな!?と思ってしまうほどにさりげないですが、熱で曲がったものです。
駅構内は、鉄が変形するほどの温度に達していたということでしょう。鉄は1000℃で変形し、1200℃に達すると溶解するのですが、空襲当時の駅の中はオーブン状態になっていたはず。この時駅にいた人たちは、こういう言い方をするのも何ですが、鉄をも曲げる灼熱地獄の中でこんがりとローストされたのかも…深夜だったので乗客はいなかったはずですが。
当時中学2年だった市民の回想によると、空襲翌日の阪急三宮駅西口にはシャッターが下りていて中に入れなかったものの、格子状だったため中が丸見えだったようです。
格子の前には、道に転がる黒焦げの死体とは逆に、まるで蝋人形のような真っ白な人々が100人以上倒れていました。服も焼けたり煤けたりもせず、きれいなものだったそうです。
おそらく、火を避けて駅にたどり着いたものの、煙に巻き込まれ一酸化炭素中毒で斃れたのでしょう2。
阪神大震災の傷跡でさえ探すのが難しくなった今ですが、70年前の戦争の傷跡が、都会のど真ん中のど真ん中で出会えることは、非常に不思議なことでもあります。この出会いは偶然ですが、こういった小さな傷痕は今でも町の至るところに残っているかもしれません。
誰も見向きもしないささやかな戦争の痕…これも昭和の探索忘れてはいけない歴史の一部なのです。
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