もし襲撃されていなかったら?
歴史考証にifは絶対禁物です。あくまで事実をベースに考察しないといけません。しかし、ここは「自由すぎるブログ」、息抜きに歴史のifを考えてみましょう。その名も
「浜口首相が襲撃されていなかったら、どういうスケジュールで岡山へ向かっていたか」
上述のとおり、浜口は午前9時発の『燕』で西行の予定だったところを襲われています。襲撃がなかったとすると、偶然居合わせた幣原や広田とやあやあと挨拶を交わし、乗車していたことでしょう。
首相としては昭和史に大きな汚点を残した広田ですが、ヨーロッパ情勢に明るい外交官としてプロ。彼からソ連情勢の話を聞きながら列車はそのまま西へ向かい、大阪か神戸へ到着します。
しかし、『燕』は神戸行きであり岡山へは向かいません。一度は乗り換える必要があります。
午後6時、『燕』は終点の神戸へ到着。浜口は、おそらく神戸から欧州方面の船に乗る予定だった広田と別れて宿泊先へ向かい、大阪か神戸で一泊と推定できます。
そして次の日、山陽本線の列車で岡山へ向かったと思われますが、さてどの列車に乗ったのか。当時の時刻表をめくってみることにします。
神戸から岡山への列車は、新幹線がない時代でも、いやだからこそ山ほど走っていましたが、私がこれかな!?と思ったのは、下関行き列車番号7の急行(以下「7列車」)。
この列車は急行ながら特急並みの設備を持っており、京都からは展望車も増結されていました。急行なのに展望車があったのは、内地ではこの列車のみで、総理大臣が乗るにはピッタリの列車です。
7列車は大阪に9:40着(9:45発)、神戸には10:25に到着しています。所要時間は40分。車両も時代も違うので参考記録ですが、同じ区間を新快速が25分で走っています。
浜口は大阪ないし神戸から1等展望車に乗って岡山へ向かい、13:22に岡山着といった予定だったと私は推測します。
なお、特急『富士』や『櫻』だと阪神に夜遅く到着、岡山には深夜着になってしまうので論外とします。
しかし、この7列車は東京発。なら東京から乗れば乗り換えなしで良いじゃないかとも思いますが、乗り鉄じゃあるまいし東京から半日以上も揺られるのは寝台でもしんどい。大阪か神戸でワンクッション置くのは至って常識的。
さらに、当時は今よりはるかに「格」が求められた時代でもあります。総理大臣ともなると1等展望車くらいに乗ってくれないと困る。実は7列車に先行する、8:35神戸着→11:52岡山着の下関行き5列車もあるのですが、これには一等車がありません。なので、これはないと私はみました。
ちなみに、その5列車の右側に9:40神戸着(東京発)の17列車がありますが、これは鉄道マニア知る人ぞ知る、ある意味特急以上の格式を持った「貧乏人のご乗車お断り列車」です。これについては、また機会があれば。
その後の浜口と死
腹に銃弾を受けた浜口は、意識はあったもののすぐに病院に運ばれ、腸の3割を摘出する大手術が行われました。翌年1月に退院したものの体調はすぐれず、幣原外相が首相代理として務めました。
しかし、議会は紛糾し野党政友会の犬養毅、鳩山一郎が執拗に浜口の衆議院への登壇を要求します。その要求に押され、浜口総理は体調不良を押して議会にあがりました。
満身創痍で絶対安静を命じられていた浜口を国会へ引きずり出した犬養と鳩山は、人間のクズだと現在でも批判され、二人の評価を大いに下げている要因となっています。
が、幣原によるとちょっと事情が違うようです。
安静にしとけ、言いたいことがあれば書面に書いて各閣僚が代弁すると周囲も言ったものの、
「俺はこういうことで攻撃を受けると、病気だといって引っ込んでるに忍びん。議会でいろんな質問に答えるのは総理大臣として当然の職務だ。どうか止めないでくれ」
引用:『外交五十年』
と結局出ちゃったと。あかん、こいつ一度言い出したら聞かへんさかいな…と幣原も大阪弁でぼやいた(幣原は大阪出身)か、最後は諦めたようです。
浜口は4月に総理を辞任した後、何度か手術を行い一時は小康状態を保つものの、8月に入り容態が急変、26日に息を引き取りました。家族が呼ばれるほど容態は悪かったものの、亡くなる1〜2分前まで意識があり、お世話になった人たちに御礼の言葉を述べていたそうです。享年62歳。
昭和初期のブログはこんなものもいかがでしょうか?
コメント