現在、淡路島には民間飛行場を含めた空港は存在していません。
が、現在は関西空港を発着する航空機の主要ルートになっており、管制塔の交信をネットで聞いていた時も、「アワジ」という声が頻発されていました。
空を見上げると時折、我が家の真上を飛行機が飛んでいることもあります。
そもそも、関西空港は淡路島に作る計画もあったという話を聞いたことがあります。
が、淡路島に関空ができたらできたで、市街地から遠すぎて利用者は不便極まりなかったろう。
実際に島に住むと感じます。
そんな淡路島にかつて、空港が存在していた…知っている人は島民でもあまりいません。
さもありなん、存在した期間は戦争中、それも1年にも満たなかったから。
淡路島の飛行場-その名は○○
戦争一色となり日常生活も緊迫の度を増した昭和18年(1943)、陸軍より、阪神地区防空用に淡路島に飛行場を建設せよという命令が下されました。
翌年4月より建設が始まり、突貫工事の末11月に完成しました。その建設のため地元の人たちが動員され、
飛行場の敷地内の住民は国から一方的な価格で買い上げられ、立ち退きを要求されました。((『三原郡史』より))
滑走路の長さは約1500m、幅は60m、敷地は180ヘクタールで甲子園球場47個分。その中に、当然格納庫や兵士たちの宿舎も作られたと思われます。
この飛行場、正式名を「陸軍由良飛行場」、または「榎列飛行場」と言います。
「由良」とは実は淡路島の東の端の集落の名。島の地理に詳しい人は、ここのどこが「由良」やねんとツッコミを入れたくなりますが、由良に陸軍の基地があったので、その支部という意味合いだと思います。
しかし、軍機(軍事機密)の関係でその名称で呼ばれることはなく、建設時点から伏せ字で「○○(マルマル)」と地元では呼ばれていました。
飛行場が抜けてるやんと思われるでしょうが、「飛行場」自体が軍機、口に出すのもはばかられる時代でした。地元では現在でも正式名では呼ばれることはなく、「○○飛行場」と言わないとわかりません。
当時の世の中、軍機に触れればスパイと疑われてもおかしくないほど、空気はピリピリしていました。「◯◯」はその残滓と言えます。
以前に書きましたが、黒鋼の浮かべる国家機密戦艦『大和』『武蔵』、あんなバカデカい国家機密、地元の人はみんな知っています。
しかし、
呉でやけにデカい戦艦作ってるらしいぜ
なんて言ったものなら軍機保護法違反1。 次の日に憲兵があなたの家のドアを叩くでしょう。
「◯◯飛行場」には一時、50機もの飛行機がここに集結したそうですが、訓練用の空港のため機体は古く、また木製のデコイ(囮)も数多くあったという証言も残っています。
今でも田舎…もといのどかな風景なのに、当時はさらに何もない感満載の所に飛行場を作れば、米軍は当然気づきます。昭和20年7月30日、米軍によって襲撃を受け、5人が死亡したそうです。あと半月、半月生きていれば終戦だったのに、と亡くなった方が悔やまれます。
そして翌月の終戦後には閉鎖されますが、玉音放送前後に「何か」を焼く軍人の姿を地元住民は目撃しています。
その後、米軍によって閉鎖されられ、残った飛行機15機はすべて焼却処分、敷地は平穏な農地に戻りました。
○○飛行場については、存在していた期間が短かったのと、書類が焼却されたせいか資料がほとんど残っておらず、これ以上のことはわかりません。
私も新資料がないか、島在住のアドバンテージを利用して地元図書館の人に探してもらったのですが、郷土史以外めぼしいものはないようです。
「○○」という不気味な名前とともに、「あった」という事実だけが島に残っています。
飛行場はどこにあったのか
さて、○○飛行場はどこにあったのか。
昭和22年(1947)の航空写真です。
終戦から2年、農地などに再利用され痕跡が消えつつありますが、滑走路の跡はくっきりと残っています。
正直、これを見ただけでは淡路島のどこかさっぱりわかりません。何せここだ!というはっきりとした目印がない…川を目印にすればいいかもしれませんが、治水で川筋が変更されている可能性が高く、確証は持てない。
しかし、一つ変わらないものがありました。
矢印の池が位置・形ともに変わっていないことがわかります。
ここで一つ驚きがありました。ここ、今私が住んでいる家の近くだったのです。目と鼻の先はオーバーだけれども、健脚の持ち主ならジョギングで行ける距離。
淡路島ふしぎ発見がすぐ近くに…灯台下暗しとはこのことか。
飛行場跡を歩いてみる
○○飛行場があった場所は現在、こうなっています。
一面の農地となっており、ここに滑走路や格納庫などがあったなど微塵も感じさせません。実際に行ってみればわかります。本当にここに飛行場なんてあったの?と。
で、この地図をベースに、昭和22年の航空写真を参照にして○○飛行場の滑走路を緻密に(翻訳:私なりに細かく)描いてみました。
まあ、だいたいこんな感じ。
太い赤線は、「幅60m 長さ1500m」のメインの滑走路、細線は郷土史によると未完に終わったものだそう。
「何もない」ゆえに困難かと思われた場所の特定でしたが、かつての用水路(だと思う)も道路となってそのまま残り、「今も何もない」がゆえに容易でした。
さらに幸いなことに、場所は我が家から自転車なら余裕のゆうちゃんな距離。これはすぐにでも調査せよという神の思し召しでしょう。
終戦後米軍によって武装解除され閉鎖となった飛行場は現在、上述したように一面の農地になっています。
その中で、滑走路の真上に作られた「松帆脇田」という集落があります。
ここにはもしかして、何かあるかもしれない。
松帆脇田の集落は現在、のどかな農村となっています。中を歩いてみても、ここに飛行場があったなど想像すらできません。
『三原郡史』によると、終戦後すぐの11月には農地転用が始まり、滑走路に使用されたコンクリートなどは農民によって剥がされ、建材などは家の壁などに再利用されたとか。
その残骸のようなもの…といっても、コンクリの塊に製造年月日が書かれているわけでもなく、外見ではわかりません。
ただ上の写真のように、
「これ、そうなんじゃないかなぁ~!?」
という、いかにも古そうなコンクリの塊の数々は、村の端々で見受けられました。ただ、これが果たして飛行場の遺物なのかは、たぶん集落の人でもわからんでしょ。
松帆脇田には、飛行場があった記念碑があります。
ここに小さな公園(?)があります。他のブログの方が位置を掲載してますが、間違っているのでここで訂正しておきます。
名前はやはり「○○飛行場」。
飛行場があった歴史を忘れてはいけないと、村の方が建てた記念碑です。「◯◯」が妙にリアルで少し身震いがします。
松帆脇田の集落の西の端、おそらくはここが飛行場の西の端だったでしょう。当然、農地と化して何も残っていません。
ついでとばかりに、旧飛行場の敷地を一周してみることにしました。
昭和22年の写真を見ると、矢印の部分に比較的大きめの四角い更地が。「何かの建物」があった痕跡ですが、おそらく格納庫でしょう。
その74年後の姿。自然に、いや農地に還りなんの面影もありません。
ここにはかつて、兵舎が並んでいました。
航空写真の痕跡は一つだけですが、郷土史によると3~5つの兵舎が並んでいたそうです。
黄矢印の方向へ撮影したものです。おそらく赤面のような感じで滑走路が伸びていたのだと推測しています。見てのとおりたまねぎ畑と化した上に、神戸淡路鳴門自動車道が滑走路跡を分断するように走るようになり、ますます飛行場があったという想像から遠ざかってしまいます。
「夏草や兵どもが夢のあと」
と詠んだのは松尾芭蕉ですが、少しだけ芭蕉がこの句を詠んだ心境が理解できた気がしました。
「春風や 海鷲どもが 夢のあと」
完全なパクリですが…。
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