今年も「サクラサク」の季節になってまいりました。
Twitterのタイムラインをボケっと見ていても、ところどころで桜の開花の報告を見ることができます。今年は残念ながら、コロナの影響で花見はお預けになる人が多いと思いますが、一年くらい花見をしないからって死ぬわけではありません。
夜になると一気に寒くなるので、まだ本格的な春とはいかないですが、もう春はすぐそこまで来ています。

兵庫県はタマネギ島…もとい淡路島。そこに桜が似合うある場所が、島の一角にあります。
淡路島の忠魂碑ー淡路島一桜が似合う場所

ここは南あわじ市のあるところ。ここも桜が満開になっていますが、奥に何かがあります。先へ進んでみると、

何かのモニュメントが見えてきました。

天を突くかのような長細いモニュメントが。これは、一体何なのか。
私が数年前に淡路島に来た時に、まず目に止まったのがこれでした。明らかに何かを模した、そして明らかに周囲から浮いている彫刻。これは「何かある」に違いない。そう感じたのは至極当然なことです。
これは何を模しているかは、横から見ると一目瞭然でした。

鉄砲です。
それも三八式歩兵銃か!?
三八式歩兵銃とは、旧日本陸軍の主力小銃のことで、日露戦争の頃から採用され旧軍の消滅まで使われた銃でした。
すでに化石と化し骨董品屋でも売っていないこの銃ですが、25年前の中国留学時、旧満洲の瀋陽(奉天)の骨董市で一度現物を見たことがあります。ジャンク品ながられっきとした売り物、値段もガラクタ並みだった覚えがあるので、こんなん売ってましたと日本領事館を通して寄付すればよかったかなと、いまさらながら思ったりします。
どう見ても猟銃には見えない、軍隊用の銃のモニュメント。これは軍、あるいは戦争に関係あるものに違いない。
その証拠は、正面に書かれた文字から判明しました。

「忠魂」
の文字が見えます。
これは忠魂碑だったのです。以後、ここは建っている場所から「おのころ島忠魂碑(仮名)」とすることにします。
忠魂碑とは
忠魂碑とは、
平たく言うと、国ではなく地域コミュニティが自発的に作った戦死者の慰霊碑のことです。似たようなものに「忠霊塔」がありますが、
忠霊塔:陸軍の推奨のもと戦死者の遺骨を納めた塔型の施設
とかなりの違いがあります。
日本近代史はイコール戦争の歴史と言っていいほどの戦争の連続でしたが、忠魂碑はその歴史と共に全国に作られました。軍馬や軍用犬の忠魂碑も建てられたといいます。しかし、敗戦と共に軍国主義の象徴として撤去されたところも多くあったと聞いています。
現在はいくつ残っているのでしょうか。調べてみたものの、確かな数はわからずでした。しかし、結論から言って、思いもしなかった意外なところにもあったりします。

「忠魂碑」でググってみると、全国には大小さまざまな忠魂碑があることがわかります。
大砲の砲弾の形が比較的多いですが、それでも圧倒的多数ではなく、一定ではありません。
ググってみた忠魂碑の形をいくら見ても、こんな形の忠魂碑はなく、レアどころかおそらく全国でも唯一なものだとわかります。いるかどうかは知りませんが、全国の忠魂碑マニアにとっては絶対に見逃せないものの一つでしょう。
マニア垂涎の逸品である(?)「おのころ島忠魂碑」ですが、間近で見てビックリしたのはその造形の精巧さもさることながら、保存状態が非常に良いこと。まるで数年前に作られたかのようにピカピカなのです。
当然、数年前に作られたわけがない証拠が、このモニュメントに隠されています。

これ、何かわかるでしょうか。
これは「在郷軍人会」のマークで、在郷軍人会とは、これも平たく言うと「現役から退いた元軍人たちの団体」ということ。

在郷軍人会の徽章(シンボルマーク)が上の画像ですが、陸軍の五芒星と、海軍の錨に剣と盾とを組み合わせたものです。「おのころ島忠魂碑」と同じなので、明らかに数年前ではなく戦前に作られたことがわかります。
ただし、画像を見てもわかるとおり、少々欠けております。これは戦後になって暴動で壊されたもの…ではなく、24年前の阪神淡路大震災で欠けてしまったそうです。しかしながら、ここと台座が少し壊れただけでほとんど傷がなかったそうです。この忠魂碑がただならぬ意志で作られたことが、この出来事一つで伝わってきます。
それにしても、少なくとも数十年の風雪に晒されても、大地震という天変地異に遭ってもほぼビクともしないこの忠魂碑、やはり英霊が守ってくれたのであろうか。
この忠魂碑はいつできたのか?
そこで気になったのが、これがいつ作られたのかということ。
地元の史料によると、大正10年に三原郡が独自に招魂祭を始め、その後は各町村ごとに忠魂碑が建立されたとの記述があります。
しかしながら、それ以上の情報はググっても出てこなかったので、ここは地元在住の強み、図書館で情報収集することにしました。
意外と知られていませんが、各自治体には「地域史のスペシャリスト」の常駐が法律で定められています。厳密に言うと自治体というより教育委員会なのですが、その専門家がふだんどこにいるかというと、たいていは図書館にいます。
図書館員は、最近は民間委託が増えていますが、「人間Google」としての役目も兼ねています。利用者の「わからない」を調べ、答えるのも図書館員の仕事の一つです。都道府県立や政令指定都市級の大きな図書館ともなると、「調査課」という専門窓口やスタッフも存在します。
この忠魂碑は南あわじ市にあるので、市立図書館に直接出向いて問い合わせてみました。

すみません、忠魂碑について聞きたいのですが!

ちゅ、ちゅうこんひ?
あの鉄砲の形したあれと言うと、どうやらわかってくれた模様。わかってくれたところで、あれはいつできたのですかと聞いてみると、

わ、わかりません…
ここまでは全然予想内。
どっかに記録が残ってるはずやから、どないかして調べやがれ、わかるまで俺はテコでも動かんぞと下から目線でお願いすると、南あわじ市には埋蔵文化財センターというところがあり、そこにマニアックな御仁がいるとのこと。南あわじ市の場合、専門家は図書館ではなく埋蔵文化財センターにいたのです。
問い合わせてみると、どこそこの本の何ページに書いてますと、書名どころか頁名まで指定。さすがは職業マニアック、レベルが違う。ただし、結果的にそのページは間違っていたのですが、その誤差わずか数ページ。さすがは専門職です。
地味にネット初公開ですが、あの忠魂碑の建設時期は昭和9年5月。満州事変は始まっていたものの、まだ戦争の足跡はここまで聞こえていなかった時期です。おそらく日清・日露戦争の戦没者を中心に祀っていたのでしょう。
戦争が激化した昭和18年、淡路島にも米軍のグラマン戦闘機の姿が見え始めたか、碑は標的になって破壊されてはいけないと撤去され、地中に埋められたそうです。そして戦争も終わり混乱も落ち着いた昭和29年ころ元の場所に戻されたと、郷土史の史料に書かれていました。
あの妙な…もといレアな形の「おのころ島忠魂碑」は、こちらにあります。

淡路島に来た時は一度現物を見に来ては如何でしょ。一つのアートとしてもインパクトが強い逸品です。芸術家なら何かインスピレーションがひらめくかもしれませんよ。
淡路島は大阪府だった!?
忠魂碑の謎を追って地元の史料を読んでいると、おや?と首をかしげた記述がありました。
戦前の旧三原郡(たぶん今の南あわじ市)から陸軍に召集された人たちが向かった先は、以下のようになっています。
・歩兵第八連隊(大阪市)
・野砲兵第四連隊(信太山)今でも自衛隊の駐屯地として現存。
・騎兵第四連隊(堺・金岡)
・輜重兵第四連隊(同上)
・工兵第四連隊(高槻)
(※日華事変(日中戦争)前のデータ)
私が妙だなと違和感を感じたのは、彼らの召集先がすべて「大阪」だということ。
陸軍は「連隊」単位で召集されるのですが、そのエリアは「連隊区」という軍事行政区域として決められています。兵庫県には姫路連隊や、「丹波の鬼」と呼ばれた猛者揃いの篠山連隊があり、連隊がなかったわけではありません。また、神戸にも「神戸連隊区」が置かれ、兵庫県の軍政を担っていました。
淡路島は、説明するまでもないと思いますが兵庫県です。私の車のナンバーも紛れもない神戸ナンバーです。
ところが、兵庫県の中でも淡路島だけ何故か大阪連隊区の管轄となっていたのです。
ホンマかいなと歩兵第八連隊などの「大阪連隊区」の管轄を見てみると、兵庫県津名郡、三原郡の名前があります。当時の津名郡・三原郡は淡路島全体(昔は洲本市も津名郡)でしたが、大阪のすぐ隣の尼崎市は神戸か篠山の連隊区。
これを現代風にわかりやすく言うと、淡路島は行政的には兵庫県だけれども、軍政的には大阪府だったということです。
「兵庫県なのに大阪府」の矛盾は、昭和15年(1940)に津名郡洲本町が洲本市になり、昭和16年(1941)4月に神戸連隊区に変更されるまで続いたのですが、淡路島だけなぜ大阪なのだろうかと、素朴な疑問が消えません。北淡(島の北部)の人は、神戸と目と鼻の先なのに大阪に飛ばされ、さぞかし「なんでやねん」と思ったことでしょう。
忠魂碑を調べ終えてお腹いっぱいになるはずが、満腹感が癒える間もなく次の疑問が浮かび上がりました。

淡路島には他にも忠魂碑があるのだろうか?
南あわじ市の郷土史である『三原郡史』によると、淡路島にはじめての忠魂碑ができたのは明治39年(1906)のこと。その前年に「明治三十七八年戦役」こと日露戦争が起こっていましたが、淡路島からも兵士が出征し、帰らなかった人もたくさんいたのでしょう。
島に点在する墓地を見ると、偶然こんな墓碑を見つけました。

「日清日露戦争に出征し奉天攻略及び入城に参加す」と書かれています。
墓の主は昭和32年に亡くなっているので、明治の戦役で亡くなったわけではありません。が、我が勲章とばかりに墓碑に刻んでいることから、これがよほど誇らしかったのでしょう。おそらくは、故人が生前、墓に刻めと遺言したのだと思います。
明治時代建立!洲本の忠魂碑
淡路島には他に忠魂碑があるのだろうか?
色々と調べてみると、こんな絵はがきがありました。

「(淡路名所)淡路洲本忠魂碑ト三熊城天守閣」と書かれた絵葉書…現在ある洲本城の模擬天守は昭和3年(1928)に作られたので、昭和の初期、洲本の市街地に存在していたことが確かです。
上の絵葉書の写真の角度的に、この忠魂碑はここにあるはず。
この洲本八幡神社は、以前に市街地をブラブラしていた時にくまなく散策したはず。忠魂碑のような個性的なモニュメントがあれば、何じゃありゃ!?と記憶に残っているはず。
しかし、見逃したという可能性もあるので、もう一度探索へと足を伸ばしました。
もう一度、隅から隅まで探してはみたものの、やはり見つからず。戦後に撤去された忠魂碑の例もあるので、洲本のもそうなんやな、うん、そうに違いない。
そう自分で結論づけつつ、ふと駐車場の方向を見てみると!

あった!!!
車に追いやられるように、駐車場の片隅にそれは残っていました。絵葉書にあった忠魂碑に違いありません。もう諦めモード99.9%のところで見つかったので、思わず妙な声を出してしまいました。周囲に誰もいなかったのが幸いでした。

こちらは「忠魂碑」ではなく「招魂碑」と書かれていますが、どちらも同じようなものです。
こちらは石ではなく青銅でできており、緑青色に変化した砲弾が時代の古さを物語っているかのようです。

裏を見てみると、「明治三十九年10月」と書かれており、『三原郡史』に書かれていた忠魂碑の記述と一致。これが淡路島一古い忠魂碑です。
まさか現在でもあるとは思ってもいなかったので、これは大きな収穫でした。

洲本市大野の忠魂碑
さらに掘り進めていくと、ある洲本市議会議員のHPのある記述が目に入りました。
大野地域戦没者追悼慰霊祭
洲本市議会議員 小松茂氏ブログより
午前10時より、大野地区忠魂碑前で大野地域戦没者追悼慰霊祭が執り行われました。
大野という地区に忠魂碑が残っているとの情報が。この記述以外にはググっても誰も指摘していない未発掘の掘り出し物の模様。誰かに書かれる前にこの目で確認すべく、大野地区に向かってみました。
探すこと数十分、

桜の絨毯が敷き詰められた石の道の奥に、

それはありました。大野地区の忠魂碑です。
こちらは特に変わった形ではなく、ふつうの碑の形となっています。

忠魂碑の横には、すでに風化して判別がかなり難しくなった、100年以上前の日清・日露戦争の戦没者や、

まだ新しい太平洋戦争までの戦死者までの芳名碑がありました。

これで終わりではありません。まだあったりします。
福良の忠魂碑
島の南西部、少し手を伸ばせば徳島県という「福良」という地区にも、忠魂碑が残っているという情報をGET。ここは今でこそ南あわじ市ですが、元は「南淡町」という別の自治体だったので、そのエリアの忠魂碑なのでしょう。
しかし、これがとても難敵でした。
なぜならば、情報はGETしたものの、記述は
「休暇村施設内道路脇の高台に、東向きに碑が建つ」
のみ。

確かに福良に休暇村があるのですが、休暇村が山のてっぺんにあり、周囲は山ばかり。休暇村の周りにローラーをかけて探し回るしかないのですが、「道路脇」を探すだけでもちょっとしたトレッキング、いやミニ登山。
今どきケータイの電波も通じない秘境の如き山道を歩き、ハチに追いかけ回されつつ2時間かけても見つからず、何度もHP1となってしまいついにギブアップ。素直に休暇村のフロントで聞くことにしました。

忠魂碑がここあたりにあると聞いたのですが…(疲

ちゅ、ちゅうこんひ?
またその反応か(笑
なにせHP1、じゅもんを唱えるMPも…ではなく説明する体力も気力も尽きていたので、ネットにただ一枚だけ残る福良の忠魂碑の写真を見せると、なにやら反応が。

ああこれ見たことあります!
あるのはええから、どこにあるんやっちゅーねん。
すると、フロントのおねーさんの口から、とんでもない言葉が!

このふもとにありますよ!
つまり、こういうことです。

全然場所ちゃうやんけ!!(笑
どこが「休暇村施設内道路脇」やねん!俺の2時間と体力を返せ!それより福良の山の中で遭難しかけたやんけ!
と文句の一つでも言いたいものの、これもまあ見つかったからよしとしましょうか。それにしても、山登りってこんなに疲労困憊になったっけ?というほどしんどかったです。

いろいろすったもんだはあったものの、ようやく見つけました福良の忠魂碑。
こちらも砲弾の形をしています。

正面にはなにかの徽章が見えます。最初は菊の御紋か在郷軍人会のマークかと思ったのですが、どうやらどちらでもない、見たことがない模様です。一体これは何か、わかる方は教えて下さい。

裏に回ると、「昭和三年11月建之」とはっきり書かれております。

再び正面へ戻ると、「陸軍大将一戸兵衛」という人物の筆であることがわかります。

一戸兵衛(いちのへひょうえ 1855-1931)は、「陸軍三長官」のひとつである教育総監になったものの、世間的な知名度は低い人物です。大正時代に在郷軍人会長になっていますが、この碑が建てられた時の会長でもありました。
この一戸の孫娘は、のちに小野寺信少将の妻、百合子夫人となります。小野寺信のことを知ってる人がいれば、あなたはなかなかの陸軍通。

淡路市の忠魂碑
そして最後は、一気に島を北上。
島の北部に「釜口八幡神社」という古い神社があります。


島の東側の国道28号線を走っていると、
「なんじゃありゃ!?」
と道行く人に御慈悲と、ささやかなサプライズをもたらす大仏がそびえているのですが、その足元に神社はあります。

ここにも立派な忠魂碑が残っていました。

この紋所が目に入らぬかぁ!
とばかりに、陸軍と海軍のシンボルが正面に刻み込まれています。

ここの忠魂碑のユニークなところは、碑の形も砲弾ながら、四隅にも砲弾のモニュメントがあるところ。一つの芸術作品として格好良く、視覚的に計算されているなと感じました。
そんな忠魂碑の横に、あるものが置かれていました。いや、転がっていると言った方が的確かもしれません。

大砲と砲弾です。
兵器に詳しい人によると、右は75mm砲で左側の砲弾は安式十二吋加農砲のものと推定されるそうな。

「75mm砲」の横には、「忠」の「中」が欠けているものの、「忠魂碑」という文字が見えます。砲弾も4つあるので、かつては四隅に置かれていたのでしょう。今の忠魂碑が建てられる前はかつて本物の兵器が碑となっていたのです。しかし、鉄製のため風雨に晒され錆びた結果、現在のものに置き換えられたのでしょう。
たとえ主役を譲っても、旧碑にまだ心は残っている・・・か。

裏を見ると、「昭和七年10月建之」と書かれており、洲本市内は別格とすれば他はみな昭和ひと桁と、似たような時代に作られていることがわかります。

こちらも誰かの名前が書かれていますが、ところどころ欠けていてよくわかりません。しかし、「陸軍大将 鈴木」とあるので調べてみると、あっけなく主がわかりました。

鈴木荘六(すずきそうろく 1865-1940)陸軍大将もこれといって知名度が高いわけではないですが、上に書いた一戸兵衛の後任として在郷軍人会長となりました。頼まれたら書くと全国に揮毫が多く残っています。鈴木の揮毫による忠魂碑も、全国に残っているそうです。
私が調べた限り、淡路島に残る忠魂碑は以上ですが、ほとんどないと思われていたものが数か所も一気に見つかったので、もしかして探せばもういくつか見つかるかもしれません。島の南部にある沼島(ぬしま)にもあるという図書館員からの情報もあるのですが、情報主もそんな話を聞いたことがある…という程度。機会があればこの目で確かめてみたかったのですが、それも叶わず淡路島を離れる結果となりました。
おわりにー桜という鎮魂歌

「おのころ忠魂碑」の横には、最近(平成に入って)作られた、ここの地域の戦没者の名前が刻まれた芳名碑があります。
日清・日露戦争の頃からか、それともアジア太平洋戦争だけなのかは、碑を見ただけではわかりません。
が、数えてみたところ100名以上の名前が刻まれていました。

戦争で亡くなった人のお墓は、古代エジプトのオベリスクのような独特の形をしています。
先端が尖った四角錐で、墓地でなんとなく見た人も多いと思います。
この墓の形は神道系、確か天理教信者のお墓も同じだった記憶があるのですが、軍人や戦没者の墓もなぜ同じ形なのか、諸説あってよくわかっていないようです。
墓地にある兵隊の墓標を見ると、向かった戦地や戦没地などが、お墓によっては事細かに書かれています。「墓石の数だけ人間の歴史がある」というのが私の持論。墓標に刻まれた人間の生涯だけでも、ブログが一つ作れそうです。
淡路島に点在する墓地を見てみると、

「昭和十九年五月十七日印度方面(に於て)戦死」と書かれています。
昭和史や戦史をそこそこ知っている人は、「印度方面」の文字だけでインパール作戦だなと連想するはず。史実と墓標の戦死日を照らし合わせると、インパール作戦でビンゴです。
墓石の主は「獣医曹長」と書かれていましたが、階級からして軍馬の扱いに長けた人だったのでしょう。曹長となると、二等兵スタートの兵・下士官としてはかなりの高位、終点ほぼ手前の階級です。
インパール作戦は、世界の戦史でもこれほどメチャクチャな作戦はないと世界中の研究家が呆れるほどの無謀な作戦でしたが、そこで命を散らした一兵士の無念や如何。

こちらは陸軍ではなく海軍ですが、墓石の劣化が激しく読み取りにくいものの、どうにか「巡洋艦『鈴谷』」と判別できました。
軍艦にも人間と同じく、「出生地」と「本籍地」「現住所」、そして「戦没地」があります。『鈴谷』の場合は横須賀生まれで本籍地は呉。関西での海軍の管轄は広島県の呉鎮守府なので、年齢的におそらく志願で海軍に入り、『鈴谷』乗組となったのでしょう。
墓石には「昭和19年10月xxxxテ湾ニテ戦死ス」(xは判別不能)と書かれています。『鈴谷』自身が10月25日にレイテ沖で沈んでいるので、「xxテ」はレイテ。この人は艦と運命を共にしたのでしょう。
墓石に書かれた年齢は18歳、今なら高校3年生です。記録によると『鈴谷』は戦死者90名、行方不明者504名。400名以上が僚艦によって救出されましたが、そのままレイテ島の陸戦に動員されほとんどが戦死しているので、このお墓に骨は入っていないと思います。陸軍と違い、海軍は海が墓場のようなものなのです。
私自身、祖父をはじめ周囲に元海軍関係者が多く、陸軍より海軍の方に興味のベクトルが向いている上に、この墓標を目にした時の『艦これ』のイベントがちょうどレイテ沖海戦(捷一号作戦)。ゲーム内で実際に『鈴谷』を酷使していたせいか、墓石の主は赤の他人ながら他人事ではない、親近感のような、戦友のような妙な感覚を覚えました。
しかしながら、18歳ならやりたいこともたくさんあったろうにと、自然と手を合わせ冥福を祈っていました。
戦争を指導した軍や政治のトップは万死に値します。昭和史を研究している身としても、「こんな奴らが戦争指導してたのか。そりゃあかんわ」と腹立たしくもあり、鼻で笑ってしまうこともありと、複雑な気持ちを感じることも多々あります。
戦争を賛美する人もいれば、侵略戦争の尖兵を祀るなんてと死人に鞭を打つ人もいますが、彼らは黙って戦い、黙って死んでいった歴史のかけらです。右も左もへったくれもない兵隊たちに責任を突きつけるのはどうかと思います。
ここはイデオロギーなどいったんは抜きにして、国のため、故郷のため、そして家族のために散っていった若者のため、忠魂碑に手を合わせては如何でしょうか。毎年誰にも促されることなく咲き、誰にも知られることなく散っていく忠魂碑の桜の花びらの一つ一つが、僕らを忘れないでという魂の声なのかもしれません。
そういう意味では、

ここが日本一…は言い過ぎですが、淡路島一桜が似合う場所だと私は確信しております。

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