淡路島の桜と忠魂碑-淡路島に残る英霊たちの面影

淡路島忠魂碑桜南あわじ市淡路島

今年も「サクラサク」の季節になってまいりました。

Twitterのタイムラインをボケっと見ていても、ところどころで桜の開花の報告を見ることができます。今年は残念ながら、コロナの影響で花見はお預けになる人が多いと思いますが、一年くらい花見をしないからって死ぬわけではありません。

夜になると一気に寒くなるので、まだ本格的な春とはいかないですが、もう春はすぐそこまで来ています。

2018年淡路島賀集八幡桜

兵庫県はタマネギ島…もとい淡路島。そこに桜が似合うある場所が、島の一角にあります。

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淡路島一、桜が似合う場所

南あわじ市忠魂碑と桜

ここは南あわじ市のあるところ。ここも桜が満開になっていますが、奥に何かがあります。先へ進んでみると、

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何かのモニュメントが見えてきました。

淡路島の忠魂碑南あわじ市

天を突くかのような長細いモニュメントが。これは、一体何なのか。

私が数年前に淡路島に来た時に、まず目に止まったのがこれでした。明らかに何かを模した、そして明らかに周囲から浮いている彫刻。これは「何かある」に違いない。そう感じたのは至極当然なことです。

これは何を模しているかは、横から見ると一目瞭然でした。

南あわじ市榎列忠魂碑

鉄砲です。

それも三八式歩兵銃か!?

三八式歩兵銃とは、旧日本陸軍の主力小銃のことで、日露戦争の頃から採用され旧軍の消滅まで使われた銃でした。

すでに化石と化し骨董品屋でも売っていないこの銃ですが、25年前の中国留学時、旧満洲の瀋陽(奉天)の骨董市で一度現物を見たことがあります。ジャンク品ながられっきとした売り物、値段もガラクタ並みだった覚えがあるので、こんなん売ってましたと日本領事館を通して寄付すればよかったかなと、いまさらながら思ったりします。

どう見ても猟銃には見えない、軍隊用の銃のモニュメント。これは軍、あるいは戦争に関係あるものに違いない。

その証拠は、正面に書かれた文字から判明しました。

淡路島の忠魂碑

「忠魂」

の文字が見えます。

これは忠魂碑だったのです。以後、ここは建っている場所から「おのころ島忠魂碑(仮名)」とすることにします。

忠魂碑とは

忠魂碑とは、

Wikipediaより明治維新以降、日清戦争や日露戦争をはじめとする戦争や事変に出征し戦死した、地域出身の兵士の記念のために製作された記念碑。

平たく言うと、国ではなく地域コミュニティが自発的に作った戦死者の慰霊碑のことです。似たようなものに「忠霊塔」がありますが、

忠魂碑:ただの慰霊碑
忠霊塔:陸軍の推奨のもと戦死者の遺骨を納めた塔型の施設

とかなりの違いがあります。

日本近代史はイコール戦争の歴史と言っていいほどの戦争の連続でしたが、忠魂碑はその歴史と共に全国に作られました。軍馬や軍用犬の忠魂碑も建てられたといいます。しかし、敗戦と共に軍国主義の象徴として撤去されたところも多くあったと聞いています。

現在はいくつ残っているのでしょうか。調べてみたものの、確かな数はわからずでした。しかし、結論から言って、思いもしなかった意外なところにもあったりします。

全国の忠魂碑

「忠魂碑」でググってみると、全国には大小さまざまな忠魂碑があることがわかります。

大砲の砲弾の形が比較的多いですが、それでも圧倒的多数ではなく、一定ではありません。

ググってみた忠魂碑の形をいくら見ても、こんな形の忠魂碑はなく、レアどころかおそらく全国でも唯一なものだとわかります。いるかどうかは知りませんが、全国の忠魂碑マニアにとっては絶対に見逃せないものの一つでしょう。

マニア垂涎の逸品である(?)「おのころ島忠魂碑」ですが、間近で見てビックリしたのはその造形の精巧さもさることながら、保存状態が非常に良いこと。まるで数年前に作られたかのようにピカピカなのです。

当然、数年前に作られたわけがない証拠が、このモニュメントに隠されています。

南あわじ市忠魂碑在郷軍人会のマーク

これ、何かわかるでしょうか。

これは「在郷軍人会」のマークで、在郷軍人会とは、これも平たく言うと「現役から退いた元軍人たちの団体」ということ。

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在郷軍人会の徽章(シンボルマーク)が上の画像ですが、陸軍の五芒星と、海軍の錨に剣と盾とを組み合わせたものです。「おのころ島忠魂碑」と同じなので、明らかに数年前ではなく戦前に作られたことがわかります。

ただし、画像を見てもわかるとおり、少々欠けております。これは戦後になって暴動で壊されたもの…ではなく、24年前の阪神淡路大震災で欠けてしまったそうです。しかしながら、ここと台座が少し壊れただけでほとんど傷がなかったそうです。この忠魂碑がただならぬ意志で作られたことが、この出来事一つで伝わってきます。

それにしても、少なくとも数十年の風雪に晒されても、大地震という天変地異に遭ってもほぼビクともしないこの忠魂碑、やはり英霊が守ってくれたのであろうか。

この忠魂碑はいつできたのか?

そこで気になったのが、これがいつ作られたのかということ。
地元の史料によると、大正10年に三原郡が独自に招魂祭を始め、その後は各町村ごとに忠魂碑が建立されたとの記述があります。
しかしながら、それ以上の情報はググっても出てこなかったので、ここは地元在住の強み、図書館で情報収集することにしました。

意外と知られていませんが、各自治体には「地域史のスペシャリスト」の常駐が法律で定められています。厳密に言うと自治体というより教育委員会なのですが、その専門家がふだんどこにいるかというと、たいていは図書館にいます。

図書館員は、最近は民間委託が増えていますが、「人間Google」としての役目も兼ねています。利用者の「わからない」を調べ、答えるのも図書館員の仕事の一つです。都道府県立や政令指定都市級の大きな図書館ともなると、「調査課」という専門窓口やスタッフも存在します。

この忠魂碑は南あわじ市にあるので、市立図書館に直接出向いて問い合わせてみました。

筆者
筆者

すみません、忠魂碑について聞きたいのですが!

図書館員
図書館員

ちゅ、ちゅうこんひ?

あの鉄砲の形したあれと言うと、どうやらわかってくれた模様。わかってくれたところで、あれはいつできたのですかと聞いてみると、

わかりません

ここまでは全然予想内。

どっかに記録が残ってるはずやから、どないかして調べやがれ、わかるまで俺はテコでも動かんぞと下から目線でお願いすると、南あわじ市には埋蔵文化財センターというところがあり、そこにマニアックな御仁がいるとのこと。南あわじ市の場合、専門家は図書館ではなく埋蔵文化財センターにいたのです。

問い合わせてみると、どこそこの本の何ページに書いてますと、書名どころか頁名まで指定。さすがは職業マニアック、レベルが違う。ただし、結果的にそのページは間違っていたのですが、その誤差わずか数ページ。さすがは専門職です。

地味にネット初公開ですが、あの忠魂碑の建設時期は昭和95。満州事変は始まっていたものの、まだ戦争の足跡はここまで聞こえていなかった時期です。おそらく日清・日露戦争の戦没者を中心に祀っていたのでしょう。

戦争が激化した昭和18年、淡路島にも米軍のグラマン戦闘機の姿が見え始めたか、碑は標的になって破壊されてはいけないと撤去され、地中に埋められたそうです。そして戦争も終わり混乱も落ち着いた昭和29年ころ元の場所に戻されたと、郷土史の史料に書かれていました。

あの妙な…もといレアな形の「おのころ島忠魂碑」は、こちらにあります。

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淡路島に来た時は一度現物を見に来ては如何でしょ。一つのアートとしてもインパクトが強い逸品です。芸術家なら何かインスピレーションがひらめくかもしれませんよ。

淡路島は大阪府だった!?

忠魂碑の謎を追って地元の史料を読んでいると、おや?と首をかしげた記述がありました。

戦前の旧三原郡(たぶん今の南あわじ市)から陸軍に召集された人たちが向かった先は、以下のようになっています。

・歩兵第八連隊(大阪市)

・野砲兵第四連隊(信太山)今でも自衛隊の駐屯地として現存。

・騎兵第四連隊(堺・金岡)

・輜重兵第四連隊(同上)

・工兵第四連隊(高槻)

(※日華事変(日中戦争)前のデータ)

私が妙だなと違和感を感じたのは、彼らの召集先がすべて「大阪」だということ。

陸軍は「連隊」単位で召集されるのですが、そのエリアは「連隊区」という軍事行政区域として決められています。兵庫県には姫路連隊や、「丹波の鬼」と呼ばれた猛者揃いの篠山連隊があり、連隊がなかったわけではありません。また、神戸にも「神戸連隊区」が置かれ、兵庫県の軍政を担っていました。

淡路島は、説明するまでもないと思いますが兵庫県です。私の車のナンバーも紛れもない神戸ナンバーです。

ところが、兵庫県の中でも淡路島だけ何故か大阪連隊区の管轄となっていたのです。

ホンマかいなと歩兵第八連隊などの「大阪連隊区」の管轄を見てみると、兵庫県津名郡、三原郡の名前があります。当時の津名郡・三原郡は淡路島全体(昔は洲本市も津名郡)でしたが、大阪のすぐ隣の尼崎市は神戸か篠山の連隊区。

これを現代風にわかりやすく言うと、淡路島は行政的には兵庫県だけれども、軍政的には大阪府だったということです。

「兵庫県なのに大阪府」の矛盾は、昭和15年(1940)に津名郡洲本町が洲本市になり、昭和16年(1941)4月に神戸連隊区に変更されるまで続いたのですが、淡路島だけなぜ大阪なのだろうかと、素朴な疑問が消えません。北淡(島の北部)の人は、神戸と目と鼻の先なのに大阪に飛ばされ、さぞかし「なんでやねん」と思ったことでしょう。

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