樋口喜一郎という人物
占守島の戦いやユダヤとの関わりなど、最近再評価されている樋口季一郎大日本帝国陸軍元中将。
陸軍=悪という昭和的概念で歴史を論じるなら、樋口は間違いなく「良識的将軍」であります。
そんな樋口中将は、実は淡路島の生まれ。同じくユダヤ人を救ったと評価されている外交官、杉原千畝氏と比べると、淡路島でのその存在感は非情なくらい薄い。私も「島流し」で3年間住んでいながら、彼が淡路島生まれだと知ったのは最後の最後あたりでした。
それからすでに4年以上もの月日が経ってしまったのですが、今回改めて、樋口中将の淡路島での足跡を追ってみようと思い、島の南部を久しぶりに自転車で走って来ました。ダイエットも兼ねてだったというのは内緒です(笑
樋口喜一郎と淡路島
樋口季一郎の生まれ故郷は淡路島、現在の南あわじ市です。南あわじ市と言えば、「カミヌマグラード(笑)」という町があるように(笑)、関西人なら誰もが知ってる上沼恵美子氏の生まれ故郷であります。
明治21年(1888)8月に生まれた彼は、数え年14才で陸軍軍人を目指すべく島を離れるまで、淡路島の潮風を受けながら育ちました。
南あわじ市と一言でいっても、いくつもの在来の村が合併してできた自治体のため、地域としてはけっこう大きめなのですが、その中に阿万という地域があります。
樋口はその阿万にある奥濱家の長男として生を受けました。奥濱家は代々船廻問屋を営んでいた家系でしたが父の代で没落し、幼少期はかなり貧窮でかなりひもじい思いをしたといいます。
そのせいか、後に父母は離婚し季一郎少年は母親の実家(阿万家)で育つこととなりました。なお、父母は後に復縁しているので、離婚の原因はやはり貧困からなのでしょう。
ここで、樋口季一郎にまつわる一つの謎があります。
Wikipediaなどネットでは、彼の出生地は「現:南あわじ市阿万上町字戈の鼻」とあります。
厳密に言えば、これは間違い。さすがは江戸時代から文化レベルが高い淡路島、樋口についての郷土研究も進んでおり、ネットの情報は奥濱家が引っ越した後の住所だと判明しています1。
では、本当の出生地は?実はそれが謎。
本人の回想記が市販されているので、そこに書いてるやん?
と思って『樋口季一郎回想録』を紐解いてみたのですが、回想は軍人になってからなので幼少期には全く触れていない。
しかし、やはり郷土研究。その結論は…
史料不足につきわかりません!!
歴史研究としては正直でよろしい。しかし、ざっと目星はついている模様。
一つは、母の実家の阿万家。
ここは現存する萬勝寺の北西にあったことは研究で明らかになっており、
写真の場所あたりにあったのは現地史家の研究で確かとなっています。
もう一つの場所は、「吹上浜」。
これは戸籍に「〜」と書かれており、季一郎出生時の奥濱家の住所だったことは研究により確定。
で、それってどこにあるのか。南あわじ市には「島流し」で約3年住み、季一郎が少年時代を過ごしたエリアは自転車のサイクリングコースだったのですが、「吹上浜」なんて地名、聞いたこともないぞ…。
文明の利器、Google mapで検索してみるとこのとおり。これはすごいところに…
実際に行ってみると、畑と砂浜しかく人家はゼロ。こんなところに樋口…いや、人が住んでたの?と言いたくなる場所です。これは、実際に現地へ行ったからこそわかること。
ただ、樋口少年が遊んだであろう当時から変わっていない吹上の海岸だけが、その姿を留めていました。
季一郎少年のその後
季一郎少年はその後苦学しながらも、「三原高等小学校」に進学します。
高等小学校は現在の中学校に相当しますが、季一郎少年が進学した頃の高等小学校は明治時代の学制過渡期の頃で、明治後期までの旧制にあたります。
なので、この学校は明治30年代の学制改革で廃校となり、現在は学校があった場所すら不明なほど跡形もありません。地元にも関連資料はほとんどなく、公式郷土史の『三原郡史』にわずかに記載を残すのみです。
しかし、赤貧と言っていいくらいのレベルだった(と言われている)奥濱家のどこに、進学させるほどの経済的余裕があったのでしょう?ふつうなら小学校を卒業したらすぐどこかで働くのですが…
この時、季一郎少年の学習意欲と非凡な才を見抜いた存在がありました。母方の実家阿万家と、父の弟である久作の二人でした。
阿万家に関しては、詳しい資料はないものの、ある話があります。
戦後の季一郎の晩年のこと。彼は阿万家を訪れ、直接あるものを寄贈しています。それは陸軍の大礼服。
大礼服とは陸海軍軍人が「ハレ」の時に着る軍服で、将官クラスになると数着あつらえることになり、「戦前の東京杉並に家が一軒建つ」くらいの値段がしたそうです。今ならン千万円ですな。
孫によると、この寄贈は自分を育て支えてくれた阿万家へのせめてもの感謝だそうで、やはり自分の夢・大志を理解してくれ金銭的な援助をしてくれたという間接的な証左となっています。
なお、その大礼服は南あわじ市に寄贈され、「若人の広場」に展示されています。私も現物を見に行きましたが、阿万家でもかなり大切に保管されていたようで、まるで新品のよう。現存する大礼服自体珍しいのに、こんな保存状態の良いものは日本を探してもそんなにないのではなかろうか。
季一郎に目を付けていたもう一人の久作とは…彼はすでに陸軍主計軍人として独立しており、日清戦争後の台湾遠征や小倉連隊では、あの森林太郎こと鴎外とも同僚になっています。
久作は結婚し、大垣藩士の娘の家に婿入りしています。よって、姓は奥濱ではなく樋口…。
そう、この久作がのちに季一郎の養父となるのです。
樋口季一郎少年は、叔父*養父はもちろん、家族の支えあってこそ華開いたのですな。
その後、高等小学校在学中に、陸軍軍人を志すべく同じ兵庫県内の進学校へ転校。その後の人生は私がこれ以上書くまでもありません。
淡路島の話題は他にもこんなものがあります!
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