「大門」…それは遊郭を演出する舞台装置の一つ。
「廓」(くるわ)とは、辞書通りに解釈すると「(壁や囲いで)囲まれた場所」という意味で、廓すべて遊廓なりではないですが、娑婆とは隔絶された遊郭の世界のとおりの言葉です。
遊郭とは、俗世間とは隔離された世界でもあります。”性地”としては「性欲のトイレ」として、歓楽街としては「別世界」として町の隅に追いやられた存在でもありました。
その中で「大門」は、
「ここからは『別世界』ですよ」
と目視で確認できる目印としての機能もありました。
よく考えてみて下さい。浦安の鼠楽園や大阪の全世界工房などのアミューズメントパークは、入口に門(ゲート)があるでしょ。あれはチケットチェックの場所だけでなく、門をくぐれば夢の世界ですという象徴でもあります。遊郭だってコンセプトはそれと同じです。
吉原に限らず、遊廓にはその象徴として入口には大門が設置されていたことが多く、遊郭が無くなっても門柱だけは残っていたところも数多くありました。
21世紀でも、某県某市の遊郭跡に唯一残っていた所があったのですが、東日本大震災であえなく倒壊。なので現在遺構は全く残っていませんが、大門があった場所は「大門通り」など道の名に残されていることもあります。
吉原大門の歴史
一般的に吉原吉原と呼ばれている吉原ですが、遊廓としての吉原の正式名称は「新吉原」です。
勘の鋭い人は、ここでピンときます。
”新”があれば、”旧”があった?
ご名答、「新吉原」があれば「旧吉原」があったのです。
場所は東京日本橋人形町。400年前、ここに「旧吉原」が存在していました。
ここにも「大門」があり、400年経った現在でも「大門通り」と呼ばれています。日本は歴史が、まるで講談の続き話のように脈々と受け継がれていることが、この一件でもわかります。
なお、旧吉原から新吉原へ移転されたのは明暦3年(1657)。4代将軍家綱のころです。
「新吉原」の大門の現在は、こうなっています。ここにかつて、吉原の大門が建てられていました。ちなみに、別の遊郭は「だいもん」と読むところもありますが、吉原は「だいもん」ではなく「おおもん」です。
写真で確認できる、もっとも古い吉原大門は明治初期のもの。その姿はけっこうショボい木製の門でした。江戸時代から大門は存在していたはずですが、これを便宜上「初代」とします。
「2代目大門」は、明治14年(1881)に作られた上の写真のもの。ちょうど上の撮影場所とほぼ同じ位置にありました。石柱の両側には、当時最先端だったガス灯が据えられ、夜な夜な廓の世界へ男どもをいざなっていました。
両側の柱には、
「春夢正濃満街桜雲」
「秋信先通両行燈影」1
という福地桜痴の漢詩が彫られています。
この門をくぐると本格的な遊郭の世界。「娑婆」と称された現実の世界とは違う、「廓」の別世界への入り口としてのシンボルが、この大門でした。そして、見てのとおり、「大門」といっても扉はなく、門はシンボルとして存在していただけでした。
江戸時代の駄洒落話に「吉原七不思議」というものがありますが、その一つに、
「大門あれど扉なし」
があります。つまり、門があっても扉はない。それは江戸時代からだったのです。
「3代目」は、こちらの大門。『鬼滅の刃 遊郭編』第二話にある大門は、この門をモデルとしています。
この門は、明治40年(1907)1月1日に除幕式が行われており、この年完成とみなして良いでしょう。
門上にある「女神像」は、弁財天という説が有力ですが竜宮城の乙姫と書かれた資料もあり、はっきりとしていません。
ただの個人的な推測ですが、この前年に日露戦争が終わったので、「戦勝記念」の凱旋門よろしく建て替えられたのかもしれません。
しかし、この門の寿命はあまりに短すぎた。
この4年後の明治44年(1911)4月9日、現在でも伝説となっている「吉原大火」が起こります。
大門もこのとおり、見るも無残に全焼してしまいました。
この大門は『関東大震災』で焼けた…世間ではそうされています。しかし、調べてみると一目瞭然。少なくても「吉原大火」で一度は焼けているのです。
では、大正時代が舞台の『鬼滅の刃 遊郭編』のこの大門は何やねん!!と。
おそらく、大火後に同じものが作り直されたのでしょう。それを証明する一次資料がないので断言はしませんが、常識的に考えればそうなります。同じものが作り直されたのを前提とすると、「関東大震災で崩壊した」というのも当たり。すべて丸くおさまり大団円。
お暇なかた、東京都立図書館か台東区立図書館で、明治44年4月10日~45年or大正元年の東京の地元新聞記事(『都新聞』あたりが目安)を隅から隅まで探して見て下さい、どこかに「吉原大門再建さる」という記事があると思います。そして記事をプリントしてPDFにして私宛にメール下さい(笑
吉原大門にまつわる、あるデタラメ
ところで、この大門について、一つの俗説が現代日本でまかり通っています。
「関東大震災で大門が閉じられて、中で遊女がたくさん焼け死んだ」
震災による火事を避けるため、廓外にある弁天池に人が殺到、「6~700人が溺死した」というのは事実ですが、それが全員遊女という話が現代までまかり通っています。
当時は廃娼運動まっただ中、「遊女は廓に閉じ込められたかわいそうな人たち」という宗教的信念から、「そうじゃない」という反証はすべて見ざる聞かざる2。そこから事情を知らない大衆のかわいそうを誘い、感情に乗って伝わったようです。
しかし、ここまで見ていただいた方ならわかるでしょう。扉なんて江戸時代から存在していない…そんな「扉」を使ってどうやって「閉じられた」のでしょう。それ以前に、大門はその震災で倒壊しています。倒壊した「門」をどうやって「閉じた」のでしょうかね。これは一次資料もがっちり揃っている、れっきとした事実。
しかし、100年経った今でも
遊女が閉じ込められていっぱい焼け死んで…
なんて言ってる人がいるのです。
SNSやブログどころか、天下のマスコミ様がこんなことを書いています。
(遊女ら供養 振り返る20年 吉原弁財天で来月9日 家田荘子さん法話 東京新聞2019年10月24日付)
4〜50年前の記事ではありません、2年前の2019年です。丁寧に資料を見ている歴史学者や私のような歴史探偵から見ると、駄記事を超えたフェイクニュース。己の妄想で記事を書くなよと、ヘソで茶が沸かせそうです。
さて、この記事を書いた東京新聞の文責さん、「少なくても明治以降は存在したことがなかった門」をどうやって閉めることができたのか、反証としての一次資料を提示してご説明いただきましょうかね~(笑
なお、これはリアルタイム(震災直後)から
ない扉をどうやって閉められるんだYO!www
という文化人からの激しいツッコミがあるので、以下のリンクに記しています。
再建されなかった大門ーその理由
この大門は、上の写真のとおり、大正後期(1923年)の関東大震災で再び焼失・倒壊してしまいます。さて「4代目」はというと…実は以後再建されることはありませんでした。
大門といえば吉原のシンボル的な存在。そんなものがなぜ再建されなかったのか?
実は、大正時代中期から後期にかけ、吉原、いやその周囲で吉原の歴史にも大きく影響した大変化が起きていました。
それは電車(市電)の開通。
大正10年(1921)、三輪橋から東京駅まで市電の路線が開通。同時に「千束町」停留所が開設されました。上の地図を見ればわかるとおり、停留所は遊郭のすぐ裏手に作られ、吉原へ通う交通の便が非常に良くなりました。
市電の開通は、吉原通いの客の流れをガラリと変えました。
客は大門から入らなければならない…なんて決まりはないため、市電に乗り「千束町」で降り、裏門から入るのが吉原行きの主要ルートとなりました。裏門は当然がら空き。ここでも、上述した「大門が閉じられて遊女が閉じ込められて」の嘘出鱈目っぷりがわかります。
電車の開通は、停留所の真逆に位置した吉原大門からの流れを減らすことになりました。
大門側にも、「山谷町」という停留所があり、新橋まで路線が延びています。が、「千束町」に比べるとやはり遠く、吉原への最寄り駅としてはちと弱い。人間は楽をしよう、楽をしようとする生き物(脳のデフォルトプログラムがそうなっている)。吉原通いも楽したいなら千束町停留所を目指すのは、大脳生理学の理にかなっています。
江戸っ子の間でも、
吉原へ行くなら市電の「山谷町」で降りればいいのか?
バカヤロウ!「千束町」だよ!
という会話で口コミで広まったのでしょう。
遊郭史って、実は客を運ぶ交通手段(電車など)も重要になってくるのですが、吉原も交通手段の進化、そして変更によって大きく変化したのです。
市電の開通、そして大震災以降は、大門からいちばん遠い位置にあり、「吉原の田舎」だった京町が逆に吉原の表玄関となりました。特に戦後の赤線時代の賑わいは京町が中心で、映像や写真に残る赤線時代の吉原は、たいていこの京町なことが多いです。
そして、かつての表玄関、大門側の江戸町は客数も少なくなり、それが間接的な原因か、江戸町にあった大見世、大文字楼は戦争を待たずして閉店してしまいました。
たかが大門、されど大門。この大門一つで吉原の遊郭の歴史の一角がわかるのです。
吉原大門の話、これにて読み終わりにございます。
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