現在、関西空港へのアクセスラインとして大車輪の遅延騒ぎを起こし…は今や昔、JR西日本のドル箱路線として活躍している阪和線。昔は「阪和電気鉄道」、略して阪和電鉄という私鉄でした。
当時の経営陣は、ネタを残すために経営していたわけではないはずですが、阪和電鉄がこの世から姿を消して75年、こうして後世によって愉しくネタにされております。
そういう意味では、その努力は決して無駄ではなかったと思います。実質たった10年しか存在しなかったのに、こうして記憶として残っているのだから。
阪和電鉄の伝説といえば、暴走「超特急」が有名ですが、そんなの飾りです偉い人にはそれがわからんのです…ではなく、阪和電鉄伝説の真骨頂は、多角的な、あまりに多角的すぎた経営。
当時の私鉄では常識となった住宅地設営はもちろんのこと、
夏真っ盛りの海水浴場に人気漫才師を呼び、
冬には兎狩りツアーを行い、
「いも掘り」やら「松茸狩り」やら、果てには「高射砲実弾射撃大会」まで。
阪和電鉄は旅行代理店かイベント会社か?と見間違うほどの行事の数々。お客さんに電車に乗ってもらおうと、涙ぐましい努力を行っていたのです。しかしながら、広告を見ると大鐵(今の近鉄南大阪線)や南海も同様の松茸狩りを行っていることから、秋の国民的行事だったのでしょう。
そんな阪和電鉄のお涙頂戴の経営の中でも、
「こんなものまで手を出さんでも(笑)」
と呆れ半分、驚き半分なものがあります。
以前取り上げた天王寺駅や、近いうちに採り上げる砂川遊園やゴルフ場も、相当ニッチだと書いた本人も認識しています。が、これらは資料があるだけまだマシな方。
本件は、わかっているのは「あった」ということだけ。あったのはわかっちゃあいるけれども、私をもってしても(?)資料がなかなか見つからず、かなり長い間塩漬けにしていた案件でした。
日本初の総合射撃場
といってもタイトルでネタバレしているのですが、阪和電鉄が経営していたニッチなもの、それは「射撃場」。
その名は「阪和射撃場」、それも阪和電鉄の直営です。
常識的に考えれば、なんで鉄道会社が射撃場なんて運営しとんねん?と不思議な感覚を覚えますが、それは考えるだけ無駄なこと。
なぜならば阪和電鉄だから…その一言で解決です。
ところで、阪和電鉄直営の射撃場はどこにあったのでしょうか。
当時の案内図を見ると、駅で言うならば上野芝と鳳の間に位置にありました。あれ?津久野は?と不思議に思う方もいるでしょうが、津久野駅ができたのは戦後のこと。当時は影も形もありません。が、もし現在にも阪和射撃場があると妄想すれば、最寄り駅は間違いなく津久野駅です。
津久野駅から15か20分ほど歩くと、小さな丘陵の上に建つ団地の姿を目にします。UR(旧公団)向ヶ丘第二団地です。
射撃場はここにありました。が、団地や分譲住宅が立ち並ぶ閑静な住宅街と化した今では、ここに日本初の総合射撃場があったなんて住民ですら想像できるはずもありません。
阪和射撃場の開業は、時代が戦争の臭いできな臭くなった昭和13年1月10日。触れ込みは「日本初の総合射撃場」。
昭和13年1月11日付の『大阪朝日新聞』掲載の阪和射撃場のニュースです。阪和電鉄は、浜寺の海水浴場でもそうですが、朝日新聞と手を組んでいたらしく広告も『大阪朝日』がほとんどです。
(昭和13年4月頃『大阪朝日』の広告)
ふつうであれば、
こんな非常時に!
と”愛国国民”が目くじらを立ててきますが、設立の趣旨にはこんなことが書かれています。
今や国家非常時局の真唯中にあっては各人射撃の心得を会得しておくことは、銃後の備えとして忘るべからざることであります。
阪和射撃場パンフレットより
もちろん、会社である以上金儲けなのは本心ですが、その本音を国策に沿った施設ですアピールして隠している阪和電鉄もあくどい。
当時の阪和電鉄の沿線案内から、以下のことがわかります。
◆敷地面積:3万坪
◆営業時間:8:00~17:00
◆年中無休
◆入場料20銭
◆銃器は無料で貸し出し
◆弾丸費:5発20銭(二二径小銃)、1発9銭(三八式単銃)
また、オープン当時の新聞広告によると、銃は三八式単銃、二二径小銃、ブローニング猟銃、拳銃等があったとのこと。
どうもロゴもあったようです。
阪和電鉄のパンフや資料を多方面から探してみると、少しは気合を入れたか意外に写真が残っています。
射撃場は軍銃用の200mレーンと、50mの小銃・拳銃用レーンに分かれ、10レーンまで用意されていました。上屋があって雨天でも射撃可能、他の射撃場とは電話連絡ができたという、一時の戯れで作っていない。阪和電鉄、本気です。
女性も気軽に射撃訓練できます!と広告でも宣伝しますが、そもそもここに来るまでが大変です。今でも津久野駅から歩くと、真夏だと熱中症になりそうなくらいの距離。送迎車でもない限り、車で来れるほどのブルジョアでないと無理です。
学生たちの射撃訓練の場にも使われたこともありました。大正14年(1925)から学校での軍事教練が始まりましたが、阪和射撃場での射撃訓練も行われていました。
阪和電鉄が沿線住民に発行していた小新聞『阪和ニュース』によると、昭和14年(1939)5月7日に「第一回大阪府下中等学校射撃大会」が行われ、北野中、今宮中、住吉中、上宮中などが参加したと記録されています。中を「高」に変えたら、現在の高校名となります。
また、翌年の神武天皇祭(4月3日)の午前9時より「大阪総合射撃協会」主催の射撃大会も行われ、300余人が参加したそうです1。
いつの広告か失念してしまったが、こんな射撃大会も。
昭和16年、射撃場は次のように紹介されています。
「射撃場は緑池々畔の風景に恵まれた丘陵地、詳しくは泉北郡八田荘村の平岡・八田寺・堀上・毛穴の四大字に跨る三万坪の地域を割し万全なる装備のもとに建設された実弾射場、クレー射場を持つ一般公開の総合射撃場である。
その開設以来、学生、在郷軍人、町内会、狩猟家、会社員等団体と個人を問わず婦人射手も交って日毎に利用客激増、真摯な射撃練習が行われている」
『南海沿線厚生施設篇』より
すべてが本当かは疑わしいですが、なかなかもって本格的な設備を誇っていたようです。
「日本初の総合射撃場」の肩書だけあって、パンフレットも豪華でした。
存在は確認していましたが、ついに見つけた現物の阪和射撃場のパンフレット。ついに幻の阪和射撃場の尻尾をつかんだと、私の興奮は想像に難くない。
詳細を見てみると、昭和初期にしては実にクオリティが高いことがわかります。
パンフの説明によると、写真のスキート射場は左右にある発射装置からクレー(お皿のような的)が射出されるという仕組み。今ではクレー射撃なら当たり前の設備ですが、ここが日本初とのこと。
このパンフ、なんとこのご時世に日英二ヶ国語表記です。想像だが、客層を日本人だけに絞らず、日本在住の外国人射撃愛好家もターゲットにしていたのかもしれません。
阪和射撃場から上野芝射撃場へ
阪和電鉄もかなりの設備投資をしたと思われる射撃場も、親会社の数奇な運命に巻き込まれることとなります。
昭和15年12月、阪和電鉄は永遠のライバル南海鉄道に吸収合併させられ、「南海山手線」となりました。
と同時に、阪和射撃場から「阪和」の文字が消え、「上野芝射撃場」と名称が変わることに。しかし、営業は相変わらず続けられていたようで、
昭和17年の南海の沿線案内にも「上野芝射撃場」として掲載されています。
このとき、この射撃場で「全国射撃大会」が行われたと記録にありました。
『全国男子中等学校・師範学校体育大会』なるものが大阪で行われ、その射撃部門が上野芝射撃場で行われたと。
射撃大会は8月23日~25日にかけて行われ、初日・2日目は信太山の陸軍演習場にて練習、25日が上野芝射撃場にて本番というスケジュールでした。
が、一体どんな「試合」だったのか、まさか中学生どうしが実弾で撃ち合うということはあるまい、は残念ながら資料には書いておらずわかりません。
また、関西だけではなく遠くは山口県の豊浦中学2も参加したことが、豊浦高校の校史に記載されています。
射撃場の運命は、戦争の激化によってさらに狂うこととなります。
南海山手線は昭和19年、国に買収され現在の阪和線となります。上の資料はそれが決定する直前の南海の沿線案内で、上野芝射撃場の「山手線」のところに「省線」というスタンプが押されています。
国に買収された際、もともと阪和電鉄の財産だった射撃場も同じく買収され、国有地として戦争と戦後のどさくさに放置されたのでしょう。射撃場が閉場した正式な「命日」はいまだにわかっていません。
ネット初公開!阪和射撃場の…
ここに、一枚の航空写真があります。
何の変哲もない、古そうな航空写真です。ただ、赤い丸の部分に注目下さい。人工的に作られた、長方形のなにかが見えますよね。
実はこれ、阪和射撃場を上から撮影した航空写真です。昭和17年に大阪市が撮影した航空写真で、偶然射撃場が写真に入っていたものです。
こちらはパンフに続く射撃場特ダネ第二弾。そもそもこの航空写真、射撃場とは全く関係ない別件調査で見つけた副産物なのですが、撮影時期は昭和17年、上述のとおり生みの親の阪和電鉄は既に無く南海の里親のもと「上野芝射撃場」に変わっていたころのものです。
これがこの世に残る、唯一の「上から見た阪和射撃場」となります。
阪和射撃場時代のパンフレットと照らし合わせると、施設の位置関係はこうなると思われます。航空写真を見る限り、設備は阪和射撃場時代から変わっていないでしょう。
Google Map上に反映させると、だいたいこんな感じとなります。
これをベースに、射撃場の跡を歩いてみることに。