好奇心のアンテナを限度いっぱいに広げていると、身近な場所や物でもさりげなく「???」と思う謎があったりします。
そして、それを掘り下げてみると意外なものが見つかったりすることがあります。
例えば、大阪にあるJR阪和線の天王寺駅。阪和線の天王寺駅は、他のJRの路線とは少し離れた所に位置しています。

同じJRなのに他の路線とホームが違うの?
という疑問を持たれてもおかしくないですが、その答えは簡単。
ここは元々、阪和電気鉄道(以下阪和電鉄)のターミナル駅として作られたもの。当時は私鉄なので別でした。

もちろん、当時は駅舎も違いました。
現在でも、終端式のホームが私鉄時代の面影を濃いめに残しています。
ここのホームには、気付くことはほとんどない、ちょっとした謎が隠されています。

各駅停車用ホームになっている7~8番ホーム。

今は降車専用になっている5~6番ホームです。
カメラマンの腕が悪いせいでわかりにくいですが、この2つのホームを比べてみたら、7~8番ホームと比べて5~6番ホームの幅が異様に広いのです。
毎日この駅を使っている人でも、ここはあまり意識しません。このアンバランスさは何か。
そしてもう一点。

7番ホームから和歌山の方向を写したものですが、途中でレールがグニャッと不自然に曲がっています。まっすぐにした方が効率が良いのに、何でわざわざこんな非効率な曲がり方をしているのか。
こう書くとなんか不思議に思いません?私はすごく不思議に思うんですけどね(笑

こんな非効率な曲がり方には、何らかの理由があるに違いない!
という謎が、私の中で煙を出しながら大きくなってきました。
そこで、名づけて「天王寺駅の怪」を解明すべく調査することにしました。
阪和電気鉄道時代の天王寺駅ホーム
阪和線が「阪和電気鉄道」だった頃の、天王寺駅のホーム配置から説明しないといけません。

現在の天王寺駅のホームは上の通りですが、大阪環状線や関西本線(大和路線)のホームは関係ないのでモザイクをかけ、阪和線のホームだけ表示しました。上の①~⑨番線がそれです。

阪和電鉄当時のホームの基本構造はこの通りです。これを『図①』とします。
ホームの基本構造は、変わっていないと言えば変わっていないのですが、ホームは今より少なめ。
図の上の広いホームが今の3番線~4番線ホーム、下のホームが同じく5番線と6番線と解釈下さい。
この図に当時の線路の配線を描くと、

こんなふうになります。これを『図②』としておきます。
阪和電鉄時代のホームの大きな特徴は、
「乗車専用ホーム」
「降車専用ホーム」
に分かれているところ。
「乗車専用ホーム」と「降車専用ホーム」は今の鉄道でもあるにはあります。が、昔の分け方は今とは少し違っていました。
阪和電鉄の「乗車」「降車」は、ホームの縦割の構図になっています。
文字で説明すると、天王寺駅構内に入った電車は、まず「降車ホーム」で止まり、乗客を下ろします。乗客を下ろした空の電車はさらにホームの奥へ進み、「乗車用ホーム」で乗客を乗せるという仕組みです。
上の図でわかる通り、阪和電鉄の天王寺駅のホーム番号の割り振りは、
乗車用ホーム:奇数
降車用ホーム:偶数
と分けられていました。
このやり方、阪和電鉄独特のやり方ではありません。
当時の関西の私鉄ターミナル駅では珍しくないことで、昔の京阪のターミナル駅であった天満橋駅や、近鉄の上本町駅も同じやり方でした。
阪和電鉄は京阪系列の会社だったので、親会社に倣って同じ仕組みを採用したのかもしれませんが、本当のところはわかりません。

上の図は、大正時代の計画段階での阪和天王寺駅の平面図です。計画では乗車用と降車用のホームが島のように分かれていることがわかります。
しかし、実際はいろいろ事情がありこの計画通りには進まず、『図①』のホーム配置となりました。
昔の電車は編成が1両とか2両、今と比べたらのんびりとした両数でした。
それは阪和電鉄にかぎらず、たいていの鉄道がそうでした。だから、長いホームを作って「乗車」「降車」に分けることが可能だったのです。

戦前の阪和電鉄天王寺駅、「降車ホーム」から「乗車ホーム」を撮った写真です。
黄色で線を引いた奥が「乗車ホーム」で、乗客が電車を待っている姿も見えます。
上の「図②」の③番線ホームでしょう。
信号機がホームの真ん中に堂々と設置されていますが、これが「乗車ホーム」と「降車ホーム」の境界線になっていたものと推定されます。
天王寺駅の地下道
では、下ろした乗客はどこへ行くのか?という疑問が残ります。
そのままホーム沿いを出口方向へ歩いて行ったら、わざわざ乗車と降車を分ける必要はないし、降車した乗客とホームで待ってる乗車の客がホームでぶつかり、効率が悪くなること間違いなし。
そこで「図③」に登場していただきます。

この図での追加は、青線で描いた降車ホームから出口に伸びる地下通路の存在です。

これを見たらわかるように、天王寺駅で下りた乗客は出口専用の地下通路を通り、駅の外に出る仕組みになっていました。
その出口はどこにあったのか。

前編でアップした戦前の天王寺駅を別アングルで写したものです。
赤で囲んだ部分に、六角形っぽい建物が見えます。これは阪和天王寺駅の名物の一つの広告塔でした。

阪和天王寺駅を違う角度で写した珍しい写真です。
おそらく今のあべのハルカスがある場所にあった大鉄百貨店の屋上から写したものと思われます。広告塔が無駄とも思えるほど大きかったことが、この写真からわかります。
その広告等の下が、降車ホームから地下通路を渡った出口となります。逆に乗る時は、左の駅舎の入口から入るという仕組みになっていました。
『鉄道史料』という鉄道史の同人論文集の中に、実際に地下道を写した写真を発見しました。

幅は狭そうに見えますが、右の木で区切られた倉庫として使われている部分も元は通路で、地下道の実際の幅はホームいっぱいまであるようです。
実際に地下道に入ったことがある方の情報によると、「倉庫分を入れるとけっこう広い」とのこと。
白黒写真なのでわかりませんが、左上の採光窓がちょうど大人の顔の位置になり(1mほどだそう)、その下のタイルの色は白で、地下道の暗いジメジメした雰囲気を和らげようとする計算がされていました。
左上の採光窓は、

今の5~6番線に今も残る、ホーム下の謎の窓です。

上の地下道の写真は、現5~6番線の降車用階段跡から撮影したもので、現在の天王寺駅ではこの位置から撮影したということになります。
階段はすでに撤去されて跡形もありませんが、その跡のようなものはホーム下にさりげなく残っています。

ホームの上にも謎の改修の跡がシミのように残っていることに気づきました。近寄って見てみると、糊で封筒に封をするように、アスファルトで何かを「封印」したかのよう。
場所がちょうど階段があったと思われる場所なので、おそらくこの場所にあった階段と何らかの関係があるのでしょう。
ホームを「乗車」「降車」に分けた方式は、開業当初こそ機能していたのですが、昭和12年の支那事変(日中戦争)以降、軍需工場への通勤客が激増し始めた対策として、「乗車」「降車」にホームを分けず、乗車用ホームでも客をさばくようにしました。
そのため、地下道の入口階段を三方向に覆う仕切り面を折りたたむと、ホームと平面になるという、ちょっと変わった構造に変更することになりました。出典は明記しませんが、当時の鉄道省に提出した変更届が残っています。
今のホームに残っている謎の線上の改修跡も、既に折りたたんだ状態でもう二度と開けないようにされ、現在残る線は「封」をしたのかと推測しています。
そして、時は戦後に移ります。図書館でこんな資料を発見しました。


昭和23年(1948)発行の天王寺駅の公式資料「天王寺驛旅客流動状態一覧」です。
この資料、紙質が非常に悪く取扱要注意もの。前でくしゃみなんかしたら、風圧で砕けそうなほど脆い紙だったので、コピー1枚取るにも非常に苦心しました。
国の公式資料を、今ならトイレットペーパーにすらならない紙で書かないといけない、当時の物資不足がしのばれる史料でもあります。
当時の大阪鉄道局が、天王寺駅の人の流れを精査した資料なのですが、阪和線ホームの地下道が描かれていると同時に、そこから降りる乗客の流れも数字で示されています。
阪和線の電車を下りた乗客は、地下道を通りその中にあった改札を抜け、そのまま外にあった出口へ向かう流れもありました。
これは阪和線ホーム地下道が戦後にも使われていたという、確固たる資料。これも国鉄がマンパワーと国家権力(?)で調べた第一次資料なので、間違いはありません。
そもそも、このホームの区分け方式は関西の私鉄オリジナルと言われ、国鉄は全く採用していません。が、買収した私鉄が使っていた方式を国鉄が採用し、その上「復活」させるするのは空前絶後だと思います。
その中に、ちょっと変わった人の流れがあります。

青で薄く塗ったのが地下道ですが、そこから「阪和地下連絡口」と書かれた道を通り、城東線、現在の大阪環状線内回り線ホームへ乗り換えて行く流れがあります。

オレンジの線で描いた阪和線と城東線の連絡通路が、戦後に増設されたということですが、やはり天王寺駅、奥が深い。

史料の中にあった、阪和線の地下道に残る城東線との連絡通路の入口です。
戦後に壁面を破って作られたと説明文にありますが、それが本当だとすると国有化された昭和19年から、上の乗降客の流れを書いた図の昭和23年の間となりますね。


その地下通路の跡、実は今も残っています。今の大阪環状線内回り(鶴橋・京橋方面)ホームの、阪和線とつながる連絡階段の隅に、ぽっかり穴が空いています。
コンクリートの壁に、ここだけ木製の封がされてあります。
あるとわかって見てみるとけっこう目立つのですが、大多数の人は階段下に止まっている電車しか見えず、改札口から階段をダッシュで降りる。そのせいか、試しにネット上で検索してみても誰一人これに気づいていない。
一人くらい、これ何やろと疑問を提起している人がいてもおかしくないんですけどね。
私も内回り線へ続く階段は、おそらく何百回単位で使っています。が、こんなものがあったのかと目からウロコどころか、目玉自体が落ちてしまった衝撃でした。ホンマに心に余裕がある時に、心眼でのみ見える天王寺駅の遺構の気がします。
普段天王寺駅を使っている人でもこれを読んで、と私と同じく目玉が落ちた人がいると思います。

階段から窓の奥を覗いてみると、明かりが注いていることを確認。また、写真では見えないですが、何かモノを置いていることも確認しました。内部に詳しい人によると今でも物置として使われているそうです。
ところで、こんなところに通路作ったら電車とぶつかるやん!とお思いでしょう。
でもご安心を。連絡通路が現役だった頃はそこに線路はなく、今の外回り(新今宮方面)が開通し線路が開通したのは1961(昭和36)年のことです。つまり、その昔は連絡通路跡がある場所の手前が終点ということ。

後で述べる昭和29年の資料でも、今の11番線は終端式、つまり行き止まりになっています。

天王寺駅の謎、まだまだ続きます!
5~6番線ホームの新たなミステリー
5~6番線ホームをふと観察していると、ホームに線があることに気づきました。

地下道はこのホームの真下を走っていますが、ホームには天王寺駅を毎日利用している人すら気づかない、あるものが残っています。


ホームにうっすらと線が…。その線は、意識しないとわからない程度の線なものの、東西方向(和歌山方面)に延々と伸びていることに気づきます。
そして、その線をホームと逆方向に追っていくと…

このMio地下連絡口にぶち当たります。地元民の私でも、こんなところいつの間にできたのか記憶にない出入口ですが、これが後々、謎を解いてくれるキーとなります。
そしてこの線が、もう一つのことを示唆してくれています。
今の6番ホームとこの線のちょうど中心に、鉄柱が建っていることに気づきました。
腕を伸ばし、柱からホーム・謎の線のだいたいの距離を測ってみましたが、アバウトで鉄柱が中心になっています。
ここでピンときた私、こういう仮説を立てました。

「今の5~6番ホームは、阪和電鉄時代はこの幅だった」
5~6番線の仮説を立証してみる
そこで仮説の証拠探しを始めたのですが、むーさんという方のブログで、
「!!!」
とアンテナが反応した写真がありました。本人様の許可を得たので、私のアンテナがビンビン反応した写真をアップします。


今から63年前、 昭和29年8月に天王寺駅で撮影されたという阪和線の写真ですが、アップされたご本人は、国鉄になっても現役で活躍する阪和電鉄の電車と、写真左に停車している電気機関車に視点を置かれていました。
前編に書いたとおり、阪和電鉄は昭和ヒトケタの水準としては化物のような電車を投入し、阪和間をスピード違反上等で暴走していました。
が、今でも伝説に残るほどの猛スピードを出せたのも、電車の性能だけではなくスピードを出せるほどのレールと地盤があったから。当時の常識では「新幹線もどき」と言っていいほどのもので、やたら直線が多い上に駅間が短く、各駅停車などが特急などの優等列車を退避できる駅が多いのも、私鉄時代の残滓です。
私鉄が国鉄に買収された場合、国鉄型より性能面で劣っている旧私鉄の車両はふつう廃車となります。しかし、阪和線がただの私鉄ではなかった話はこれから。
阪和電鉄の電車はガンダムに例えるなら、国鉄型がザクなら阪和の電車はジョニー・ライデン少佐専用高機動型ゲルググ。性能差がありすぎて国鉄の運転手には手に負えません。
「南海山手線」だった阪和線が、昭和19年に国家権力でボッシュートされた時、南海電鉄は運転手はおろか、鳳車庫にあった電車の部品もすべて、「ネジ一本残さず」(by当時の社員)南海に引き揚げてしまいました。
残ったのは車両という抜け殻だけ、こんな化け物動かせるものなら動かしてみろバカヤローというわけです。

戦後、国鉄は自車両と部品を共有するため、性能をザク並みにダウンさせたものの(性能は下がったけれど、代わりに故障が激減した)、「阪和線専用ザク」として戦後も阪和線の主として君臨し続け、昭和43年(1968)まで走り続けました。
戦後10年経った昭和30年当時でも、阪和線を走る国鉄型電車が21両に対し、旧阪和電鉄の車両は68両。ふふふ、圧倒的じゃないか我が軍は、という声がどこからか聞こえてきそうです。
それはさておき、旧私鉄の車両を国鉄が何十年も使い続けるなんて、日本鉄道史空前にして絶後のケース。それだけ阪和電鉄の電車が鉄道史に残る化物だったということです。
話を元に戻します。
阪和線ホームは、実はこの写真の半年後の昭和30年(1955)3月から、大改造工事が始まってしまいます。
完成したのは昭和37年(1962)だそうなので足掛け7年の大工事、事実上の天王寺駅の作り直しです。
戦前の面影を残すホームはこの昭和29年が最後となるのですが、それを意図して撮影したわけではないとは言え、歴史的にも貴重な写真なのです。
ところで、この写真が本当に昭和29年のものなのか。ご本人の記憶や証言以外にも、客観的な証拠が写真に残っています。


黄色の矢印で示したものは信号機です。2枚目はかなりブレているのでわかりにくいですが、信号機が3つあるということくらいはわかります。
これを証明する資料が存在します。

昭和29年(1954)の、天王寺駅がおそらく内部向けに発行した第一次資料です。
29年の何月かは不明ですが、調査時期はむーたんさんが写真を撮ったほぼ同時期だと思われます。
年代一致はただの偶然ですが、こんな偶然は山のような資料の中でも滅多になく、これを見つけた時ある種の運命を感じました。
上に書いた通り、昭和30年から、阪和線天王寺駅のホーム改良工事が始まります。
今の7~8番線(時期を少し置いて9番線も)もこの時に建設されたそうです。この工事で現在の天王寺駅の原型が出来ると同時に、阪和電鉄時代のホームの面影はほぼなくなります。
この図は、阪和電鉄時代のホーム配置図を示す最後かつ非常に貴重な資料です。よくぞこんなどうでもいいものが現代でも残っていたと、発掘した時は感激しました。
これを元に信号機の位置を照合すると…

写真の信号機の位置と、配置図の信号機の配置が完全一致しました。
これで写真が少なくても昭和29年以前ということがこれでわかるわけですが、これだけピタリと合うと、ジグソーパズルのピースがスイスイ埋まっていくようである種の快感を覚えます。
この写真を撮した位置を配置図に落としてみると、

こうなります。「当時の6番線」に電車が進入、あるいは発車したことがわかります。
当時のホームや線路から、改良工事を経てどう変わったのか。半分推測が入っていますが、上の資料の上に落とし込んでみました。

上の電車が止まろうとしていた、または発車しようとしていた当時の6番線は、大手術によるホーム拡張で埋もれてしまったのです。
今の5番線と6番線ホームの間隔が、屋根柱を中心にすると左側に拡がっているのは、線路1本分を埋めて作られたからなのです。
結論をまとめると、

阪和電鉄開業当初~昭和30年は、私の仮説のとおり黄色で塗った幅だった。

昭和30~37年の阪和線ホーム改良工事で、赤で塗った部分までホーム幅が拡張
(昭和29年の写真にあった旧6番線は、ホームの下に埋没)
よって、現5~6番線ホームの柱が右に偏っている。
ということです。

まだまだ終わらない、天王寺駅の謎!
地下道の出口の現在は?資料から明らかにするその位置
図書館で、あるマニアックな資料を発掘しました。

『天王寺鉄道管理局三十年写真史』という本です。
JRが国鉄だった時代、全国に「鉄道管理局」が置かれ列車の運行管理を行っていました。
天王寺管理局はその中の一つで、阪和線はもちろん、大阪環状線や関西本線(大和路線)、果ては天王寺とは何の関係もなさそうな、三重県の参宮線や紀勢本線全線も管理範囲でした。参宮線なんか今やJR東海でっせ。
2010年にJR西日本の統括本部に吸収され、天王寺鉄道管理局の看板は下ろし消滅しましたが、それでも運行管理上でのターミナルとしての機能は残っています。
この写真集には、今まで見たこともないような非常に貴重な写真の数々がおさめられているのですが、その中に、私の目と意識を釘付けにさせた一枚の写真があります。

昭和36年(1961)頃、ステーションビル建設のために取り壊し中の旧阪和電鉄駅舎です。
奥に見える高い建物は近鉄南大阪線あべの橋駅と近鉄百貨店、今のあべのハルカスです。
今の駅を見ても信じられないほどのカオスっぷりを見ると、かなりの大手術だったことが伺えます。

解体中の写真で注目すべきは、黄丸で囲った部分。
広告塔の下の地下道の出口にあたりますが、どうも下が空洞になっているっぽい。地下道があった証拠写真とも言えます。
この写真を見て、はっと我に返りました。天王寺駅の地下道の出口の認識、間違っているんじゃないかと。
幸い、周囲の道筋は変わっていないので、旧駅舎が残っている当時の航空写真と現代のGoogle Mapを照らし合わせた結果、こうなりました。

出口がステーションビルのコンコース内に入っていたのです。

上手い具合に(?)、私が推定した出口の場所に、地下への階段があります。
後に説明しますが、この階段は最近できたわけではなく、駅舎である「天王寺ステーションビル」が作られた昭和37年(1962)から存在していたものです。
あくまで推定ですが、阪和電鉄の地下出口を再利用した可能性はゼロではない。
ミオチカは戦前の地下道の再利用?
これはあくまで仮説のため、間接的にでも根拠が必要ですが、やはり探せばあるもので、こんな資料が見つかりました。

天王寺駅となっているステーションビルは現存しますが、写真は昭和37年(1962)に完成した時の写真です。

写っているのが電車ではなく、ディーゼルカーであることに注目。昭和37年当時関西本線(大和路線)は電化されておらず、ディーゼルカーだったのです1
ちなみに、写真のディーゼルカーには、「湊町-柏原」と書かれていました。
しかし、この資料で珍しいのはこれではありません。
「探せばあるものだ」と書いたのは、天王寺ステーションビルの完成案内、それも業務用のもの。業務用ということは、外部にはあまり公表しないことも書いているということ。

天王寺ステーションビルが出来た当時の地下1階の図です。図の赤で塗った部分が現在「ミオチカ」になっています。
当時は「あべちか」はなく(出来たのは昭和43年)、番号5と6の間の道が、現在「あべちか」と地下鉄谷町線の駅につながっています。番号1と8の場所は現在スーパーなどになっていますが、当時の店舗もスーパーだったようです。
数字の2~3あたりは業務用スペースで、我々利用客には普段見えない部分です。3は「運搬用スロープ」と書いておりますが、

天王寺駅北側、阪和線ホームの端にこんな地下道への入口があることはご存知ですか?
「ミオチカ」への貨物の仕入れ口なのですが、おそらくここと番号3の部分がつながっているかと思います。

これが現在の「ミオチカ」の図です。上のステーションビルの地下1階の図と比べても、基本的には変わっていないことがわかると思います。
赤で囲んだ階段・エスカレーターの図、向かって左側、黄色で囲んだ部分が、おそらく阪和電鉄時代の地下道を再利用した部分だと推定できます。
何故そう言い切れるかというと、地図左上の階段を登ると、そこは…

この連絡口へとたどり着くから。この真下には、今も阪和電鉄時代の地下道が、関係者以外には知られることもなく眠っているはずです。
私なりの結論は、

写真の阪和天王寺駅前や地下道からの出口周辺は、

天王寺ステーションビル(現天王寺Mioプラザ館)のエレベーター付近で、

地下道の出口と階段は、ここあたりにあったと推定されます。地下へ通じる階段通路も、地下道出口を流用したものと思われます。
もう一つの地下道
下の私のヘタクソな地下道図を見て、おや!?と気づいた人はいるでしょうか。

②④ホームの階段付近に、赤の点線の道が書かれています。天王寺駅の地下道にはもう一つ、未確認の地下道があったのです。
資料によると、板塀で封印され先へは進めないものの、点線の地下道があることは確かなようです。情報をいただいた方からも、同じ場所に地下道らしきものがあると指摘がありました。
一見すると出口と全く関係ない方向へ続いてそうな、ミステリアスな地下道。この目的は?何のために作られたのか?
この謎を解くためには、阪和線天王寺駅の原点of原点に戻らなければなりません。

大正時代、計画当初のの阪和天王寺駅の予定図です。
黄色で囲んだ部分に、降車ホームの階段とつながった地下道が見えます。その地下道は実際の地下道とは全く別の方向へ伸びています。
当初の目的は、この図の通りに地下道を作り、出口も全く違う場所に作るはずでした。
が、道を作ってはみたものの、用地買収の遅れなどで当初の予定から狂いに狂ってしまい、予定通りに地下道を作ったものの途中で設計変更になり放置されたと思われます。
あるいは、予定通り出口として使われたものの、諸事情で短命に終わった と推定できます。

Google Map上で地下道を示すと、こんなふうになります。赤線が現時点では幻の地下道です。この地下道の謎も、少し気になりませんか?
天王寺駅 最後の(?)謎
そして、最後の謎として残った…

この線路の曲がり具合の謎は何なのか。ここで、昭和29年の資料に再登場していただきます。

これを見ると、あの曲がり具合、私鉄時代のホーム端から本線に入ろうとするためカーブしていた名残のようです。上図赤の矢印がカーブの部分と思われます。
阪和線天王寺駅は、戦後2回に渡って大規模改修工事が行われました。すでに述べた昭和30年と昭和56年ですが、おそらくどちらかの工事の時、ホームが延長されて線路のルートも変わり、クネっとS字のようになったのでしょう。
調べてみると、実にあっけない…。でも答えがわかってスッキリした自分がいます。
おまけ-地下道の残骸?謎のもう一つの地下道
いったん天王寺駅の外に出てみます。阪和電鉄の遺構は何も駅の中だけにあるものではありません。

地図上の星マークの場所に、

コンクリートの壁があります。
何の変哲もない壁ですが、正方形の型がある壁は色が塗られているものの、阪和電鉄開業当時から残る壁の遺構です。
たかがコンクリート壁なのですが、80年の風雪を黙って耐えてきた阪和電鉄最後の生き残りだと思うと、頑張れと声をかけたくなります。たかがコンクリートの壁なのに。

で、その壁のすぐ近くに阪和線ホームの下をくぐる地下道が存在しています。

画像でもなんとなくわかるかもしれませんが、真上に阪和線ホームがあるせいか、天井が非常に低い。公式には高さ2.1mだそうですが、身長160cm台後半の私でも相当の圧迫感があります。

上記の「阪和電鉄時代の壁」から地下道を抜けると、この古ぼけた…もとい古めかしい出口に当たります。
阪和線ホームの地下道の存在を中途半端に知っている人は、阪和線のホームを跨ぐこの地下道の構造から、これも阪和電鉄時代の遺構に違いないと早合点する人がネット上にちらほらと。
しかし、そういう方はここを見逃しています。

地下道の横に、ちゃんと1954-12(1954年12月)という刻印があります。
しかし、これは阪和電鉄の遺構に違いないといったん思い込むと、刻印を見ても見ぬフリをし、最後は自分は間違ってない、刻印の方が間違っているという思考になります。
私も人のことは言えませんが、思い込みとはかくも怖いものなのです。
で、後で裏付けを取ってみるとこの地下道の正式名称は「悲田院町地下道」と言い、計画自体は阪和天王寺駅開業からあり工事も進められました。

『鉄道史料』の資料内にあった、地下道の設計図です。
しかし、途中で工事が中断したのか実際に開通したのは1954年、つまり昭和29年。また昭和29年が出てきましたが、この記事は「昭和29年」と何かと縁があります。
しかし開通したのは北半分だけ。現在の南の出口が出来たのは昭和59年(1984)と案外新しかったりします。

この道はもともと、四天王寺を起点とする庚申街道(こうしんかいどう)と呼ばれた旧街道でした。
阪和天王寺駅開業で道自体が分断されてしまったものの、昭和29年に地下道を作って街道を復活させたということです。
おわりに
天王寺というと、今やほぼイコールな阿倍野橋地区。
そこに「あべのハルカス」という、日本一の高さのビルが最近できたのは数年前のこと。あべのハルカスのような21世紀の現代ものもいいけれど、そこの足元に埋もれた「近代遺跡」に思いを馳せてみてもいいのではないかと思える、今回の「発掘」でした。
私の中では大満足です。おそらく、もう掘れるものは掘った。ここまで掘ったら新しい発見はもうないと思います。そう心から言い切れるほど、私の中では掘り尽くした感があります。
もうないやろ、さすがにもうないやろ…何かあったら持って来い。ここまで来たら毒を食らわば皿まで、とことんまで付き合うたるわ。
そう胸を張って言い切りつつ、「天王寺駅の怪」はおしまいとさせて頂きます。
しかし!まだ書き残していたことがありました。
お次は、番外編的なある謎の建造物を。

・『鉄道史料』鉄道史資料保存会(※阪和電鉄に関係ある号 第129号、第136号など)
・『鉄道史料 第108号 南海山手線の考察』竹田辰男著
・『天王寺鉄道管理局三十年写真史』日本国有鉄道天王寺鉄道管理局/編
・『日本国有鉄道百年史』日本国有鉄道編
・『天王寺ステーションビルディング』天王寺ステーションビルディング編
・『天王寺駅旅客流動状態一覧』1948年
・『駅勢要覧 天王寺駅』1954年
・『関西の鉄道18 JR阪和線・紀勢線特集』関西鉄道研究会/編(1988年)
・『阪和線 激動の軌跡』すばる社編
・昭和17年大阪史航空写真-大阪史公文書館蔵
・ブログ多数
・阪和電鉄パンフレット多数





