神戸の盛り場ー新開地
神戸駅から真正面、徒歩5分ほど歩いたところに「新開地」という地区があります。
近代になって発展した神戸の繁華街は、大きく分けて3つに分かれていました。
一つは三宮。といっても大正時代までは今ほど発展はしておらず、駅前の大通り(フラワーロード)は生田川という川でした。それを付け替えてつつ、昭和初期頃に阪神や阪急などの私鉄のターミナルとしてポツポツと発展し出した新入りです。
二つ目の繁華街は元町。
元町は「神戸の元の市街地」という意味で、ここ周辺が開港前の「神戸村」だった元祖神戸。元町より西は「兵庫」という別の町でした。
元町は旧居留地の中心地でもあり、大丸や三越百貨店などの大型店がここに移り賑わっていました。「銀ブラ」ならぬ「元ブラ」という言葉も生まれたほどでした。我々が漠然と持つ「おしゃれ神戸」は、元町が築いたものと言って良いでしょう。
そして三つ目が、今回の主役新開地。
新開地は明治38年(1905)、周辺を流れていた湊川を埋め立てた跡地に、自然発生的に生まれた娯楽街です。ウナギの寝床のように細長く伸びている新開地の商店街が、かつての湊川の跡です。
「新開地」は「新しく開発された土地」のこと。明治になって新しく開発された神戸の新天地でした。
ここは娯楽の街。劇場や映画館が立ち並び、「西の浅草」または「東の浅草 西の新開地」とまで呼ばれた一大歓楽街となりました。昭和10年前後の神戸市発行の観光パンフレットにも、「神戸の中心地」という前置きで「愉楽地」「殷賑雑踏を極めた一大歓楽境」と表現されています。
新開地の歴史
神戸の興行施設(劇場などの娯楽場)は元々湊川神社周辺、神戸駅前周辺にありました。それが新開地の開発で施設が移っていきました。
新開地の公式サイトでは「自然発生的に集まった」としていますが、神社付近の「相生座」という大きな小屋の移転を皮切りに、次々と小屋が移転していっています。
『新開地空間形成と歓楽街成立の契機』という論文から抜粋した、興行施設の変遷です。●が当時の劇場や見せ物小屋などの施設の位置で、時代が進むと共に娯楽施設が新開地に集約されていく様子がわかります。
この変遷を「自然発生的」と片付けるのは簡単ですが、新開地は市民の憩いの場としての公園(湊川公園)と、大工場(川崎重工業)を結ぶメインロードとして計画的に作られたもの。おそらく行政の指導が少なからずあったのではないかと思います。
明治末から大正前期には、既に神戸市の歓楽街としての地位を固めていた新開地。その新開地を我が庭の如く闊歩していた、一人の少年がいました。
のちに映画評論家となる淀川長治氏です。
淀川は神戸生まれで、新開地で当時は「活動写真」と言われていた映画三昧、映画を栄養にして育った新開地の申し子ですが、彼はのちにここを「神戸文化の泉」と表現していました。大正モダンの中で育った淀川少年には、昔の新開地の活気は「文化の噴水」に映ったのでしょう。
新開地を支えた三本の柱
当時の新開地には、「3つの色の流れ」があったと言われていました。
その流れとは、隣にあった遊郭で働く女性たちの「赤き流」、新開地の通りの終点にあった川崎重工業の職工(従業員)たちの「青き流」、最後の「黒き流」は不良少年や香具師などの怪しい連中。
・女目当ての二つ目の柱(福原遊郭への客)
・酒目当ての三つ目の柱(川崎重工業の職工)
の3本の柱が新開地の経済を支えていたのでしょう。
そしてこの3本の柱が崩れた時、新開地はバランスを失い、後年迷走することとなります。
聚楽館
新開地最盛期と言える昭和10年前後には、映画館だけで9軒。他にも劇場や寄席、スケート場や遊園地、遊技場付き温泉(今のスーパー銭湯のようなものか)まであった一大歓楽街でした。
昭和9年(1934)~昭和15年(1940)の間の、夜の新開地の貴重な写真です。
説明がないと、50年前の三ノ宮と錯覚してしまうような風景です。
神戸の不夜城のように、煌々とネオンが輝いていた様子が伺えます。
その中の代表と言えるのが、「聚楽館」という演劇ステーションでした。
東京の帝国劇場(帝劇)を模して大正2年(1913)に建てられた聚楽館は、最盛期には「西の帝劇」と言われていました。昭和初期には常設の映画館を開設、昭和9年(1934)にはスケートリンクも開設され、神戸最大の娯楽ターミナルとなりました。写真の建物は、スケートリンクが出来た時に改装された時のものです。
この建物、豊臣秀吉が京で作った「聚楽第」にちなんで名付けられたので、正式名称は「じゅらくかん」です。が、神戸市民は「しゅうらくかん」と呼んでおり、次第に「しゅうらくかん」が正式名称をしのぐ知名度となりました。
聚楽館は戦争の空襲にも焼け残ったのですが、それがこの建物の運命を狂わせることとなりました。
聚楽館は戦後に米軍に接収されダンスホールとなりました。昭和30年前後に返還されるのですが、それからすぐに大衆娯楽の変化による映画などの衰退の波をまともに受けてしまいます。
新開地が歓楽街として衰退すると共に聚楽館も衰退し、昭和53年(1978)に閉鎖・解体となりました。跡地には現在、ボーリング場が建っています。
新開地の発展と共に生まれ、衰退と共に役割を終えた聚楽館。
良くも悪くも新開地を象徴する建物として、神戸史の1ページに名を残しています。
不思議なことですが、Google日本語入力で「しゅうらくかん」と入力すると、「聚楽館」が一発で出てきます。
本体は30年以上前になくなっているものの、Google入力に残っているほど神戸の歴史として記憶に残っているのでしょうか。
湊川公園
新開地の北に、湊川公園という広い公園があります。
ふつうの公園に見えるのですが、この公園、天井川を埋め立てた跡に作られたため、「地面」より高い位置に作られた「空中公園」「天井公園」という形になっています。
実際に見てみると、位置が非常に「おかしい」のです。作られた経緯がわからないと、神戸の七不思議のような奇妙なを感じます。
その公園の地下に、もっと「奇妙」なものが作られました。
昭和3年(1928)に開通した、当時は神戸有馬電気鉄道という名前であった神戸電鉄の湊川駅です。
今の湊川駅は、戦後に路線が新開地まで延長されたと同時に地下化され、ホームは地下にあります。しかし、開通当初の湊川駅は公園の真下にありました。
現在の湊川駅は、地表というか地下というか、なんとも言えない絶妙な高さにホームがあったのです。駅舎自体は開業当初の面影を残しており、少し古ぼけた駅舎に昔のターミナル駅の威厳を少しながら残しています。
駅の中に入ると、店舗が入っている空間があらわれますが、ここがかつての駅のホームでした。
神戸タワー
湊川公園には、「神戸タワー」と呼ばれた塔が建っていました。
大正時代に建てられた展望塔で、「湊川タワー」「新開地タワー」とも呼ばれていたそうです。ちなみに今の神戸タワーとは全く関係ありません。
高さは100mと当時東洋一の高さで、大阪の初代通天閣が75mだったのと比べると、かなり高かったことがわかります。
鉄筋をふんだんに使いデザインにも凝った通天閣に比べると、神戸タワーはのっぺりとしていて、お世辞にも印象深いとは言い難い。
しかし時代が進み、神戸タワーに「派手さ」が加わります。
塔にネオン広告が加わり、広告塔としての役目も担うことになったのです。
正確な年代は不明ですが、ネオン広告が始まった昭和初期には「ハープ洗濯石鹸・ベルベット石鹸」でした。
昭和9年(1934)には阪神電車の広告となりました。
このネオンサイン、設置料(工事費)が2万円、ネオンに使う電気代が¥1200/月1。どれだけ電気代かかってんねんとツッコミを入れたいですが、それだけ阪神は気合が入っていたということがネオンサイン一つにもあらわれています。
何故阪神が莫大な広告費をかけてまで宣伝しようとしたのか。湊川って阪神と関係ないんじゃないか!?
実は、阪神の偉大なる野望が秘められていたのです。
阪神電車は、最初は三宮までの開業でしたが、すぐに元町まで延伸されました。
しかし、元町もあくまで「途中駅」。阪神の本当の目的は新開地・湊川延伸でした。
今の山陽電鉄も、郊外にあったターミナル駅から湊川まで路線を伸ばし、阪神・山陽・神戸電鉄の3社で湊川で合流する計画でした。
阪神は湊川までの延伸の許可までもらっていたのですが、資金面で頓挫してしまい計画は夢と終わります。
しかし戦後になりこの計画が再浮上。昭和43年(1968)に神戸高速鉄道という形で実現しました。
合流地点が湊川から新開地に変更になり、阪急も加わったくらいで、それ以外は戦前にあった青写真だったわけです。
神戸タワーは老朽化と新開地の衰退、昭和38年(1968)に今の神戸タワーが建てられたことにより昭和43年(1968)に撤去されました。上の写真は、解体工事が始まるまさにその時を写した、貴重なもの。
跡地には小さな時計塔が建っています。
湊川にあった水族館
湊川公園にはもう一つ、短命のため歴史にほとんど残されていない施設がありました。
神戸は「日本の水族館発祥の地」と言われています。
明治28年(1895)に、今の和田岬に「和田岬水族放養場」なるものが開設されました。
これが日本初の水族館と言われているのですが、当時としてはなかなか充実していたようで、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も訪れ文章に残しています。
それが閉館ししばらく神戸に水族館はなかったのですが、昭和5年(1930)に神戸開港博覧会が開催された際、神戸水産会という団体により湊川公園に水族館がオープンします。
「湊川水族館」と名称でオープンしたのですが、昭和18年(1943)に閉館という記録だけが残っています。戦争の激化で水族館どころではなくなったのでしょう。
13年の短命だった上に建物も空襲で焼けてしまい人々の記憶に残っていないのか、Wikipedia先生にも全く記述がありません。
「湊川水族館」は戦争が終わっても復活することはなかったのですが、代わりに須磨に市営の水族館がオープンし、現在に至っています。
福原遊郭
新開地にはもう一つの顔がありました。
福原遊廓です。
今でも「福原町」として現役の風俗街ですが、新開地はそういう意味では「総合娯楽街」といえます。
この福原遊郭も、神戸開港と共に歩んできた神戸史の生き字引です。
神戸開港が1867年なら福原遊郭が出来たのは1868年、ほんの1年の差しかありません。
遊郭ということで何かと黒歴史扱いされ、注目されることは少ないですが、こうして歴史のスポットライトを浴びせると、非常に古い沿革を誇ったりしているのです。
福原遊郭は、東京の新吉原、京都の島原遊郭と並び、「日本の三ハラ」と呼ばれるほどの全国的に有名な遊郭となりました。
福原遊郭の簡単な歴史などは、こちらで解説しています。
新開地は娯楽の中心地だけではなく、行政の中心地でもありました。
今は三ノ宮にある神戸市役所が新開地に建てられ、新聞社や映画会社などの企業の神戸支店も、新開地に数多く集まるオフィス街となりました。
今の三ノ宮の賑わいが、かつては新開地にあったということでしょう。
歓楽街でもあり、行政センターでもあり、ビジネス街でもあった新開地。これで人が集まらないという方がおかしい。
神戸駅開業は新開地が繁華街となる前なので、神戸駅が新開地に合わせた立地条件で設置されたわけではありません。しかし、結果論的に神戸駅は神戸の歓楽街新開地への最寄り駅となり、絶妙な立地条件に位置することとなりました。
現駅舎も新開地への入り口として立派なものが作られたのかもしれません。
新開地と戦争
戦前には大いに栄えた新開地。しかし神戸市の繁華街ゆえに先の戦争の空襲のターゲットとされます。
神戸駅から新開地にかけては、昭和20年(1945)3月17日の空襲で完膚なきまでに焼き尽くされている模様です。
ちなみに、アニメの『火垂るの墓』の空襲は6月の空襲であり、同じ「神戸空襲」でも新開地のものとは関係ありません。
神戸市が公開している空襲の写真ですが、焼けた当時の官庁街だそうです。
写真左側に裁判所などがあったそうですが、焼き尽くされて全く残っていません。
矢印の森が湊川神社なので、
おそらくこのアングルから撮ったものだと思います。
こちらも空襲直後の新開地ですが、瓦礫の山となり戦争前の歓楽街の面影はほとんどありません。焼失というより「消失」です。焼け残った神戸タワーがポツンと残り、むなしささえ感じます。
跡形もなく焼けてしまった新開地ですが…
(『グラフィックカラー昭和史(9)より)
昭和21年(1946)の新開地商店街のカラー写真ですが、それなりに復興はしている姿が見えます。また神戸市の資料によると、昭和28年には興行施設も戦前に匹敵する数が新開地に開業し、いったんは歓楽街として復活を遂げたことがわかります。
しかし、同じ繁華街だった三ノ宮や元町が復興したのに比べ、新開地は急速に衰退していきました。
それは何故か。
新開地が衰退した理由
三ノ宮や元町と違い、新開地が繁華街としての復活に失敗しコケてしまった理由は、いくつかの理由が考えられます。
私が資料や本を見て考察した推定ではありますが、以下の理由かなと。
市役所などの行政機構の三ノ宮への移転
戦前の神戸市役所は新開地の横、神戸駅から徒歩数分の距離にありました。
上の地図は大正8年(1918)発行、ちょうど子どもだった淀川長治氏が新開地で映画三昧だった頃のものです。
神戸駅周辺の役所街とそこに隣接した新開地は、運命共同体のように戦前の周辺の繁栄を支えていたビッグ2でした。
が、戦争が終わった昭和32年(1957)に市役所は三ノ宮へ移転。これは新開地が神戸市に「見限られた」という印象を与えることとなり、衰退を印象づけることに。
娯楽(特に映画産業)の衰退と分散化
新開地は娯楽と共に生まれ、娯楽と共に発展した歓楽街です。
戦後もそれをテコに復活しつつあったのですが、おそらく娯楽の多様化で映画産業が衰退。
さらに戦前は新開地に集約されていた娯楽場所が、戦後は三ノ宮などに移ってしまい、わざわざ新開地まで行く用事がなくなることに。
三ノ宮と元町のヒュージョン化
どういうこっちゃねん!?と思うでしょうが、今の三ノ宮から元町を歩けばわかります。
今や三ノ宮と元町は繁華街としてすでに一体化。ドラゴンボールで言えば、トランクスと孫悟天がヒュージョンして「ゴテンクス」になったようなもの。
私も先日歩いてみましたが、「三ノ宮」を歩いているつもりがいつの間にか元町に着いており、境界線が全くわかりませんでした。
戦前はお互いのエリアが狭かったこともあり、三ノ宮は三ノ宮、元町は元町と明確な境界線がありました。
戦後はおそらく三ノ宮が急速に拡大したのでしょう、繁華街が広がり元町と一体化。
それによって客足も「一粒で2つおいしい」方に向かうのも、客が来る方に店が集まるのも必然。
私の勝手な推定ですが、急速に膨張する三ノ宮に対し元町も生き残りを図りお互いWin-Winの関係に。一人取り残された新開地は衰退してしまった・・・と。
神戸高速鉄道の開通
神戸高速鉄道の開通で私鉄各社の乗り入れ・乗り換えが非常に便利になった反面、
観光は須磨など、買い物は三ノ宮・元町と、新開地は「ただの途中駅・乗り換え駅」としてスルーされる「新開地パッシング」が起こってしまったと言います。新開地駅が出来たのは元々新開地へ人の流れを再び作ろうという思惑もあったはずですが、それが裏目になることに。
工場の移転や縮小
戦前の新開地は、川崎重工業の従業員たちも重要な消費者であり、新開地を支える重要な柱でした。しかし、彼らが昭和50年あたりから規模縮小や設備の移転などで激減し、新開地の衰退にとどめを刺される形となりました。
新開地暗黒の時代
そこからの新開地は、「怖い、きたない、暗い」の「3Kエリア」として忌み嫌われ、
「神戸の西成」というありがたくない名前までいただく羽目に。
水族館や遊園地もあった湊川公園も昼間から酒を飲む浮浪者で溢れ、夜は治安が悪化し迂闊に近寄れないほどだったそうです。
新開地の黒歴史の時代です。
一昔前の神戸駅の妙な「寂れた感」と「ただの中間駅化」も、新開地の急速な衰退が一因だったのかもしれません。
今の新開地はイメージアップを図ってかなり小綺麗にはなっています。しかし、重箱の隅を突くというのもなんですが、街の端々にブラック新開地時代の残骸が残っています。
そんな新開地黒歴史時代の一コマが、あるゲームに表現されています。
今でも語り継がれる名作、『ポートピア連続殺人事件』に、こんな一コマがあります。
「シンゲキシルバー」とは実在したストリップ劇場だった『新劇ゴールド』のこと。
このシーンも、かつての映画館がストリップ劇場となり、生き残った映画館も成人映画専用となった新開地衰退の一コマだったのです。
新開地の「成人化」も生き残りのためとは言え、人の足を遠ざける逆効果となっていきました。
新開地の復活への道
時は平成に入り、ここまま衰退するばかりでは見てられないと地元住民が立ち上がります。
どうにか昔の栄華を取り戻せないか、住民たちは知恵を絞ります。
神戸市からの援護射撃も受けようやく「新開地の新装開店」に抜けて出港しようとした時、あの阪神・淡路大震災が起こります。
新開地は地震により戦争の空襲並の被害を受け、街はほぼ壊滅状態に。
しかし、災い転じて福となす。これをチャンスとして復旧ではなく、「NEW新開地」とうリニューアルを目指して一から作り直すこととなったのです。
震災からの復興には時間がかかりましたが、10年後には「B面の神戸」としての新開地をアピールすることが出来るほどになりました。
三ノ宮や元町が「A面」なら、新開地は「B面」。これはレコード世代でないと説明しづらいですね…。レコードのA面B面の時代が終わったら、次は「CD」になった…というのは桂文珍師匠の小咄です。
「B面の神戸」をわかりやすく言えば、おしゃれなお店が立ち並ぶ三ノ宮・元町が「表神戸」なら、下町臭くソフトなDEEPさも兼ね備える新開地は「裏神戸」ということです。
その「裏神戸」に徹した方向転換は、いちおうは成功を収めました。
実際に新開地・湊川周辺を歩くとわかるのですが、おしゃれな三ノ宮などに対して新開地は庶民的なお店が立ち並び、昔はどこにでもあった下町人情の町そのもの。
大阪西成と違った怖くない程度のDEEPさもある。神戸にもこういう庶民的なエリアがあったのかと、良い意味でハードルが低い町というのが感想でした。
「神戸はこんなところもあったのか!」
と部外者が目からウロコになるには十分なインパクトです。
私は個人的におしゃれなところは似合わない、神戸に住むなら新開地やなと感じた探索でした。
神戸の歴史はこちらもどうぞ!