和歌山にあった私娼窟
昭和初期の時点で、全国には法的に定められた遊廓が最大541ヶ所存在していました。内30ヶ所は、貸座敷の免許だけで実際は稼働していない「幽霊遊廓」なので、実質511ヶ所だったのですが、それでも500ヶ所以上存在していました。
一道府県あたり平均10ヶ所あったという計算になる遊廓の中でも、ちょっとした変わり者の県がありました。それが茨城県と和歌山県。
何が変わり者かというと、ここには県庁所在地かつ陸軍聯隊所在地に遊廓がなかったこと。
「陸軍聯隊あるところ遊里あり」は遊里史の鉄板です。それには兵隊が街娼・私娼に手を出してくれると困るという性病予防の意味があったのですが、その鉄板に当てはまらない例外が上の2県。
茨城県の事情は未調査につきわかりませんが、和歌山県の遊廓は新宮・紀伊大島・そして由良の3ヶ所のみ。和歌山市には遊廓が存在しなかったのです。
理由は、県が終始反対し続けていたから。詳しい経緯は『和歌山県史』や『和歌山県議会史』、そして『和歌山県警察史』などに書かれていますが、上記の3ヶ所も誘致派が議会工作を図って根回しを行い、やっと設立したもの。集客力のある和歌山市にも遊廓を!という話は何度か持ち上がったものの、和歌山市には遊郭を作らないという呪いが存在したかのように、最後まで作られることはありませんでした。
が、これはあくまで「公娼」の話。私娼、言ってしまえば「モグリ」の売春窟は和歌山市にいくつか存在していました。
その中でも有名なのが、現在でも現役の天王新地。
上記では、今まで謎だった天王新地の「誕生日」を明らかにしましたが、和歌山市にはもう一つ、天王新地と対になるような新地が存在していました。
そのもう一つの名は阪和新地。
阪和新地とは
阪和新地の「誕生日」も、前述の天王新地のように戦前の新聞記事をまさぐれば出てくるかもしれませんが、残念ながら現在はそんな暇もありません。
しかし、色んな資料をまさぐってみた結果、天王新地より2年後の昭和7年(1932)だということが判明しました1。阪和新地創設と共に阪和共立検番も設けられ、その創設に尽力した宇治田芳祐という人物の名前が残っています。
天王新地とほぼ同時期に誕生した阪和新地、遊廓なき和歌山市にあっては「第二の新地」として大いに賑わったと想像できます。
それは何故か。
まずは場所。東和歌山駅の目の前に位置する絶好のロケーションなのです。地図では少し離れた場所にありそうですが、何のことはない、駅前を南北に走る北大通りを渡ってすぐの場所にあり、現在でも徒歩3分ほど。
(和歌山市立博物館の資料より)
当時の和歌山駅前はこんな風になっており、私鉄だった阪和電鉄の駅舎は省線とは別にありました。左側の阪和電鉄の方が、鉄筋コンクリートと当時流行の曲線をふんだんに使っている分、右側の省線の駅舎より立派に見えます。
戦前の阪和新地の案内パンフにも、このとおり。これは文句なしの「駅前遊郭」…もとい、阪和新地は遊郭ではないので「駅前私娼街」か。
また、当時は「和歌山駅」の名前こそ別にありましたが、東和歌山駅は阪和電鉄の開通で大阪からダイレクトに人を運べるようになり、阪和間の輸送を独占していた和歌山市駅から人の流れが変わったと思われます。
なので、大阪からの客も多数流れ込んできたことは、容易に想像がつきます。間接的な証拠に、阪和新地は「和歌山の玉の井」と呼ばれ大阪からの客も少なくなかったそうです。
阪和新地の全店掲載
内務省衛生局の私娼窟リストにも、阪和新地は常連としてフル登場を果たしています。少なくても昭和8年には存在していたことが資料から覗えます。
■昭和9年:13軒 27人
■昭和13年:17軒 55人
■昭和14年:18軒 48人
(出典:『業態者集團地域二關スル調』内務省衛生局(のち厚生省予防局))
昭和14年の天王新地が40軒、85人なので規模は半分ほどでしたが、阪和新地は「駅前遊里」な分、敷地は猫の額ほどの広さしかなかったため、これはやむを得ないかもしれません。
私娼窟は公娼のようにおおっぴらに売春行為ができないので、名目上の店を繕っておかないといけません。有名な東京の玉の井は「銘酒屋」でしたが、阪和新地は料理屋。これが道府県、いや私娼窟によって違います。まずは、調べるべき場所が「何屋」で営業していたかを把握するのが、資料がほとんど存在しない私娼窟の調べ方。
昭和10年(1935)と思われる和歌山市電話帳の「料理屋」の欄には、あるはあるは阪和新地の文字が。住所も阪和新地だったのか、住所も阪和新地になっています。
数字的にはだいたい20軒前後の阪和新地ですが、具体的な店名になると謎が多く、少なくてもネットで挙げられたものはなし。というか阪和新地を取り上げたWebサイト自体が存在せず。
しかし、ようやく手に入れた阪和新地のパンフレット(『歓楽の栞』)に掲載の店と、当時新地にいたという「美妓」の皆さんも公開!
これは今まで誰も触れてない、宇宙初の公開となります(笑
こうして表を自分で作ってみると、「美妓」には芸者風の名前があるので芸妓もいたのかと思ったり、イチロー…もとい一郎がいたり、ひふみん…じゃなかった、一二三がいたり、男なのに太郎がいたり、はたまた綾や綾香のように、今いてもおかしくないような名前の女性もいます。
「美妓」の名前だけで連想すると、阪和新地は酌婦(≓売春婦)が中心ながら、芸妓も少数いたと分析できます。
阪和新地、謎の紋
「歓楽の栞」を丹念に見ていくと、あるマークが目に入りました。
「阪和新地」の左側に紋がありますが…あれ?あれれ?このマークにはものすごく既視感がある。はてどこで見たのやら…。うーん、どこやったっけな…。
のどに魚の小骨が突き刺さったようなもどかしい気分をスッキリすべく、Googleワールドへ長い旅へ出かけていると、見つかった、この引っかかりの原因が!
新地の紋、みんな大好き阪和電鉄の社章そっくりではないですか。いや、そっくりどころか…
あ~らびっくり!阪和電鉄の社章をひっくり返しただけやないかい(笑)
もしかして、阪和新地って…阪和電鉄が開発・経営していたのか?名前が名前だけにそれはアリエール…。
鉄道会社が新地を経営していた!?実は前例があります。
大阪市東成区にある今里新地。こちらは昭和3年(1928)に今里土地株式会社によって開発されたのですが、この会社の正体、実は大軌。大軌とは現在の近畿日本鉄道の母体だったりします。
今里新地は、芸妓の花街という隠れ蓑にした「偽装遊郭」…といったら言い過ぎか、「NEW TYPE遊郭」です2。関西の鉄道会社が沿線開発を行うのは阪急からの伝統なので珍しくないですが、それでも新地の経営などお門違いも良いところ。飛田遊郭を作る時でも、全国規模のすさまじい反対運動があった時の熱気がまだ冷めていない時期、「遊廓」ってバレたら世間の風当たりもハンパではない。一歩間違えたら大軌が吹っ飛んでしまう。よって別の不動産会社を作り、営業形態も「花街」とすることによってツークッション置いたというわけです。
こんな前例があるので、阪和電鉄が大軌に倣って新地経営に乗り出してもおかしくはない。なにせゴルフ場や射撃場の経営も行っていた会社なのだから。
で、いろいろ考えを巡らせた結果、少なくても直営ではなさそうという結論に至りました。なぜなら…
『歓楽の栞』に掲載の列車時刻表に南海も掲載されていたから。
阪和電鉄にとって南海は天敵以上、あんな奴Xねばいいのにという存在(それは南海も同様)。実際、沿線案内から南海はこの世から消去されていました。なんとアコギな…とお思いでしょうが、南海もやってたのでお互い様(笑
そんな目の上のなんとかの鉄道会社の時刻表など、阪和電鉄が直営なら、今まで阪和や南海を調べた経験から、絶対載せません。
客観的証拠がなにもないので、阪和電鉄や南海の歴史を調べた経験上の直観だけですが、新地を経営する阪和不動産(仮説による仮名)があり、そこに阪和電鉄のなんらかの息がかかっているものの、子会社や筆頭株主というわけではないと思います。
そんな阪和新地も、戦争による和歌山の空襲で影も形も…と思ったのですが。
昭和22年(1947)の航空写真を見てみると、東和歌山駅周辺は空襲の被害を受けていない模様です。阪和新地があった地域も戦災は免れているようで、天王新地同様、無傷で戦争を乗り越えたと言い切って良いかと思います。
『全国女性街ガイド』(昭和30年)には、残念ながら阪和新地単独の項はありませんが、天王新地とひっくるめて以下のように書かれています。
芸者より赤線が繁昌。阪和新地に三十軒、天王新地に65軒。女は合わせて四百名。(以下略
『全国女性街ガイド』より
『全国女性街ガイド』より
この数字を鵜呑みにする性善説に基づくと、阪和新地の30軒は戦前のほぼ倍、接待婦の数を業者の規模に分けて分配してみると、阪和新地は150人ほどとなり、戦前をしのぐ繁盛ぶりがこの数字から覗えます。しかし、立地条件では勝っているはずの阪和も、天王新地には叶わないのか、規模は概ね半分ほどか。
他の地方の赤線の例に漏れず、戦後の赤線時代のデータは、あまり残っていません。東京は逆に、これでもかという程残っているのですが、地方(というか東京以外)となると、それこそ図書館で、
赤線って何ですか?
といぶかしむ館員に、
ググれ〜探せ〜働け〜!
と尻を叩き、待ち時間の間に山のような新聞記事を1日1日丹念に見る…見つかれば大当たり、なければ時間の無駄、「このあたりだろうな~」というある程度の目星はつけているものの、山の中をさまよいながら金鉱を探し当てるようなギャンブルです。
が、赤線廃止前には赤い灯が消えるとネタになったせいか、たま~に新聞に詳細が出てきます。赤線廃止直前の昭和33年(1958)2月の業者数は23軒。天王新地の36軒よりは劣るものの、戦前の16~7軒より増え繁盛ぶりがうかがえます。
同時期の阪和新地界隈の住宅地図を見てみると、いかにも…という名前のオンパレード。「桃太楼」「あけぼの」「繁の家」など戦前からの生き残りも確認できます。
そして昭和33年の売春防止法完全施行で阪和新地は短い生涯を閉じることになりました。当時の新聞によると、和歌山県の全赤線は3月15日までに廃業と申し合わせており、阪和新地もそれに同調し、「その前に」廃業したと思われます。
それから約10年後の大衆雑誌の「旧赤線レポート」によると、昭和40年代前半には旧阪和新地は、駅前という立地条件の良さから「高級バー」街に変わったようで、いかがわしい営業はしていないとそのルポは述べています。
かと思えば、ほぼ同時期の雑誌には隠れて営業しているとの記述もあります。さて、真実はどうなんだろうか。
売春防止法はオリンピックが終わったらなくなって、赤線が復活するんやってね
とまことしやかに噂されていたこの時、関西では死んだはずの旧赤線が燎原の火のごとく復活したので、おそらくは隠れてやってたのかもしれません。何せ天王新地が今も「現役」ですから。
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