大島渚監督の映画『太陽の墓場』が上映されて、今年で60年となります。その記念ではないのですが(ただの偶然)、前回は映画内の映像として残る場所の60年後を訪ねる旅を行いました。
今回はその続きなのですが、鉄道編と銘打ったように内容が超マニアック、ここからは鉄分と大阪史濃度の濃い、マニアックな話となります。
マニアックな話に興味がない方は、ここでお引取りいただいても大丈夫です。でも、できれば読んでね(笑
『太陽の墓場』と 南海電車
愚連隊を抜けたいと悩む武(佐々木功)を花子(炎加世子)が見つけ、うちがボスの信(津川雅彦)に話つけたるわと、彼と道端で交渉しているシーンです。
信の後ろにコンクリートの壁があります。これは南海電鉄の高架線で、『太陽の墓場』は現在の新今宮駅周辺を含めた釜ヶ崎が舞台、南海電鉄とは太い縁があります。
アングルを変えると、電車が走っています。さて、南海電車のどの車両なのか。
次のシーンを見てみましょう。
これで形式を答えよ、となると鉄道イントロクイズになるのですが、他サイトの情報も加味すると、
高野線用の「ズームカー」(21000系)か、
本線で使われていた旧1000系(11001系)のどちらかになります。こちらは形式がややこしいため、「11001系」に統一します。
え?この二つ、何が違うの?全く同じやんか!
鉄道マニアでも何でもない人、いや、鉄道マニアでも車両に詳しくないと見分けがつきません。正直、私もわかりませんでした。
さてこういう時はどうするか。
このネット多様化時代、わからなければSNSに晒すべし。自分に知識・知恵がなければ人のを拝借すればいい、これが21世紀の賢い調べ方。
そこでTwitterで大募集をかけてみると、鉄道車両に詳しい「車両鉄」が食いついてくれました。
これは本線用の11001系です
その方はきっぱりと即答・断言しました。
なぜそこまで断言できるのか聞いてみたところ、さすがは専門オタクだと敬礼したくなるような答えが返ってきました。
まずは基本知識として、高野線用21000系の1両あたりの全長は17m。これは山奥に入る山岳用車両なので、車体長が他の車両より短いのです。
対して本線用11001系は20m。車体長に3mの差があります。
これが、側面の窓の数になってあらわれてきます。
ズームカー21000系の窓の数は13個。先頭から2-8-3という配置です。
対して11001系はどうなっているのか。
窓の数は16個。3-9-4の配置で高野線の電車より3つ多くなり、これが3mの差となります。要は窓一つ追加につき1m増加ってことね。
これを頭に入れつつ、映画内の電車の窓の数を数えてみます。
窓の数で11001系だということが判明しました。
私も広く浅くのライト鉄マニアとして、21000系の車長の知識は持っていました。しかしながら、窓の数まではさすがに把握できず。車両鉄の深き専門知識に脱帽であります。
現地で映像の場所を探索してみると、11001系であることが更に明確となります。
映画のシーンの高架は現在でも残っており、地図の位置であることは確定です。
映画のカメラは北を向いていたこととなり、電車が進んでいた方向は難波駅。つまり電車は難波行き。
それならいちばん左の線路は本線用。17mの高野線用車両が走っているわけがない。この理屈でも11001系なことが確定です。
映像のいちばん右端あたりは、現在新今宮駅難波方面ホームとなっています。映画のシーンを意識して似たような角度で撮影した2018年の姿が上の写真です。60年前、旧(初代)1000系が通った線路を、60年後に二代目1000系が走る。時代の流れを感じます。
ちなみに、後で詳しく書きますが、南海の新今宮駅は映画の当時は存在していません。
謎の高架線
こちらは映画のオープニング、戦争を煽る謎のルンペン(煽動屋)が花子に絡み、おもろいやっちゃと花子が仲間に引き入れるシーンがあります。
このシーンで、建設中の鉄道の高架線が映っています。まだ架線が敷かれていない架線柱が見えるので、鉄道で間違いありません。
次のシーンでは、奥に駅が見えます。さて、ここは一体どこなのだろうか。
これを指摘しているほぼずべてのサイト・ブログ・SNSでは、当時建設中だった大阪環状線西九条~天王寺間と結論づけています。
今は大阪市内をグルリと回っている大阪環状線ですが、
戦前は
「西成線」:大阪~西九条(終点は桜島)
「臨港線」:今宮駅から大阪築港(大阪港)。貨物専用
の3つに分かれていました。
見ての通り線路がつながっていないので、現在のような環状運転は不可能です。しかし、これら3つの線路をくっつけ「環状線」にしようという話は、戦前からありました。
(昭和10年(1935)1月11日『大阪毎日』より)
計画自体は戦前からあったものの、戦争と敗戦、そして戦後復興の中おそらく後回しにされ、戦後に余裕が出てきた昭和30年代に実現したと考えるのが自然でしょう。
そういうわけで、西九条-弁天町-大正-天王寺間が開業したのは、映画上映翌年の昭和36年。映画製作中は工事中と言われると、ああなるほどなと。
しかし、この高架線の曲がり具合が、釜ヶ崎周辺、具体的に言うと現在の新今宮駅周辺には見当たらない。
しかし、ここでもさすがSNS。画像を晒してみると出るわ出るわフォロワーさんの名推理が。
後ろに見える駅は、弁天町駅でほぼ確定。この角度からして…
赤丸あたりと推測しました。
撮影場所は当時環状線の建設工事中なのはもちろん、港区が度重なる水害による壊滅的なダメージを受け、全体を数メートルかさ上げする大阪市百年の計の真っ最中。弁天町駅どころか、周囲の建物も「工事中」につき何もなかったのです。実際の映画を見ても、がれきの山で何もありません。ここが弁天町駅近辺と言っても、にわかに信じがたいと思うほどに。
逆に言えば、映画の撮影にはもってこいだったのでしょうね。
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