映画『太陽の墓場』の舞台を歩く-鉄道編

大島渚太陽の墓場大阪鉄道史
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映画予告編に出た超レア車両

映画のラストシーンでは、武と花子がデキちゃった上に、花子と寝た武がうっかり愚連隊のアジトの場所を言ってしまいます。
愚連隊は人殺しもいとわないヤンキー集団だけれども、組織として固まっているヤクザは商売敵でもあり天敵でもあります。ヤクザが正式な軍隊ならば、愚連隊はゲリラ。人員も練度も豊富な「軍隊」に本気で襲撃されたら、愚連隊はひとたまりもありません。だから、見つからないようにアジトを変え、裏社会のゲリラ、いや安らぐ場所のない流浪人として生きて行かざるを得ない。

ヤクザとも一脈相通じている花子は、アジトの場所をヤクザに知らせヤクザが愚連隊を襲撃。信の手下は武を除いて全員殺されてしまいます。

花子がバラしたことを知った信は、当然彼女を殺しにかかります。

太陽の墓場ラストシーン
太陽の墓場ラストシーン2

これは、信に追いかけられた花子が国鉄の線路へ逃げているシーンです。

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彼女が上った場所は、赤で丸をした位置となります。

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花子が上った関西本線の土手は現在コンクリートで固められ、家や倉庫も建っているので近寄れません。

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が、映画に映った勾配標識は当時と同じ場所に立っています。まあ、表示が違うので当時のものではないはず。

信のカンで花子に教えたのが武だとわかると、殺意の矛先は武の方へ。
信は持っていたピストルを取り出し、武の心臓を貫きました。しかし、武は最後の力を振り絞り、信の足を離さないまま、二人は汽車に轢かれ…
愛してしまった男が目に前で轢死したのを見た花子は、茫然自失のまま近くの酒場へ転がり込みます。
自暴自棄になってしまった花子は、
「こんな時代、いつになったら終わるんや!」
と飲んでいた人に絡み、最後はケンカとなります。

二人を轢いた汽車は、本編では汽笛の音だけで本体は出てきません。
しかし、宣伝用の予告編にはその姿が残されていました。

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『予告篇』の映像を切り取ったものです。

時間にして2秒弱ほどのシーンですが、この1枚には貴重な歴史情報が詰まっています。

①関西本線(大和路線)が非電化
写真は現在の新今宮駅付近で、SLが走っている線路が現在の関西本線、それを高架で跨いでいるのが南海本線です。
今は電車が走っているところですが、映画のロケ時の昭和35年は非電化でした。よく見ると架線がないでしょ?

この区間が電化されたのは昭和48年(1973)、「大和路線」という愛称がついたのはJR化後です。

②大阪環状線がない
これについては上述したとおりです。
当時の新今宮駅付近は大和路線の線路しかないので、当然複線ですが、その跡が駅の真下に残っています。

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南霞町…じゃなかった、現在は新今宮駅前と名を変えた阪堺線の停留所ですが、JR線と交差するホーム奥に、昔のレンガ積みの土台の跡がくっきり残っています。
映画の頃を含めて昔は内側の線路2本分(複線)だったのが、大阪環状線開通後に外側2本が作られ、レンガの土台の上をコンクリートで固めた作りになっていることが一目瞭然です。

今は堤防のようなコンクリートの壁になっていて、到底線路上には登れません。しかし、昭和35年当時の線路の土手がレンガの角度なら、確かに花子のような女性でも登って行けるかも。

③新今宮駅がない
今しか見ていないと到底想像もできないですが、SLが走っている場所、今の新今宮駅です。①や②以前に、そもそも新今宮駅がないのです。
新今宮駅は、映画が上映された4年後の昭和39年(1964)に作られた、意外に新しい駅だったりします。南海の方の開業は、そのさらに数年後となります。
なので、昭和35年には新今宮駅なんて影も形もありゃしません。

新今宮駅がないときの関西本線と大阪環状線と南海電鉄
(『定点観測 釜ヶ崎』より)

新今宮駅がない頃の国鉄・南海交差点の写真は、上の写真のように何枚か残っているのもあるのですが、映像として残っているのは『太陽の墓場 予告篇』くらいじゃないかと。

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『太陽の墓場』予告編より

この映像切り取り部分の汽車は湊町、現在のJR難波駅方向を走っていますが、現在位置は、大和路線JR難波方面行きホームということです。

ただし、新今宮駅の地点に駅を作ろうという計画も、戦前からありました。

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(昭和12年7月4日『大阪毎日』より)

南海が昭和初期に国鉄をまたぐ形で高架になった時も、国鉄と交差するところに駅を作れるような構造にしろという条件で許可されました。

以上のことで食いついてくるかな~と予想しつつ、Twitterにアップしました。「新今宮駅があらへんやん」ということだけでも、文明が破壊されない限り二度と再現できないシーン。歴史を知らない人には十分ネタになるかなと。

しかし、さすがはDEEPな鉄道マニア。食いつき方が私の予想のはるか斜め上でした。

彼らが指摘したのは、下の写真赤矢印の車両。

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別にどうということはない、ただの客車やんかと。

私も最初はそう思いました。なんでそんなとこに集団で騒いでんねんと。
ところが、これが鉄道史の常識をひっくり返すようなレア車両だったらしいのです。

戦災復旧車

先の戦争で被害(戦災)を受けた国鉄の車両は、

蒸気機関車852両(全両数の14.8%)
電気機関車39両(13.4%)
電車563両(25.1%)
客車2,228両(19.1%)
貨車9,557(7.5%)
合計:13,239両

と相当の数にのぼりました。

戦災を受けた電車は、

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戦災車両終戦直後
(『終戦直後 大阪の電車』より)
こんなザマでした。これは無残とかそういう生やさしい言葉では形容できないほど「ひどい」。

当然、無傷の車両もあったのですが、それらはすべて進駐軍に接収され。

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(『終戦直後 大阪の電車』より。石橋駅に止まる阪急宝塚線の専用車)

白帯を巻いた「連合国専用列車」として利用されました。
「連合国専用列車」というと、イコール進駐軍、イコールアメリカ軍専用、つまりガイジンしか乗っていないというイメージがあります。
が、あくまで「連合国」なので中国人や、「中国人」となった台湾人も乗車可能でした。李登輝や邱永漢などの臺灣人の伝記にも専用列車の記述が出てきます。

さらに戦争が終わり移動の制限がすべてなくなったのはいいけれど、車両が戦災を受けまともな車両が少なく、少ない列車に人が押し込められるような修羅場でした。

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(『思い出の省線電車』より)

これが一例ですが、インドの通勤電車顔負けの光景が70年前の日本に存在していました。

そんな状態に鉄道会社はじっと見ているだけではなく、戦災での車両不足と急激な需要に応えるべく急ごしらえの車両を大量増産することとなりました。
それが「戦災復旧車」と呼ばれている車両グループで、戦災で死亡した客車の台車だけ流用したり、逆に車体を急ごしらえで改造したり…フランケンシュタインの鉄道車両版というべきものでした。

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国鉄版「戦災復旧車」は、「70系客車」と呼ばれている一群でした。
全国にあった戦災被害を受けた車両のうち、17mのものや20mの車体のものを急ごしらえで改造し投入したもので、全国で260両ほど存在していたものです。
車両鉄によると、映画に映っていたのは「オハ70」という系列で、17m客車をフランケンシュタインしたものだそう。扉を見ると2つしかないのが「オハ70」の特徴だそうです。

しかし、しょせん70系客車は応急処置的なつなぎ役。輸送も車両のやりくりも落ち着いた昭和30年までには、荷物車などに転用され淘汰されました。
「オハ70」も、旅客用としては昭和29年には全車引退、荷物車としても昭和30年代前半にはお役御免、車庫で放置プレイのまま朽ち果て…のはずだったのですが、昭和35年でもその戦災復旧車が現役で走っていた動かぬ証拠が映画の中にあるとくれば、鉄道好きの大きなお友達が食いつかないわけがない。
(映画から)数年前に絶滅したはずの魚がまだ生きていた!と、彼らはワクワクドキドキです。
当然、私はそんなつもりでアップしたわけではないのですが、これが超レアお宝映像だったのです。

おわりに

映画は、俳優たちの演技やストーリー、映像美などエンターテイメントとして見るのがふつうです。
ところが、視点を一つ変えて見てみるととんだ歴史学のネタになることが、『太陽の墓場』で証明されました。これはこの映画に限ったことではなく、昔の映画を歴史学の視点で見返すと、予想だにし得なかったお宝が見つかるかもしれません。

大島渚監督はすでに故人ですが、映画を通してこんな映像の大阪史を遺してくれていたとは、「死せる大島、生ける米澤光司を走らす」か。

なお、『太陽の墓場』前編はYoutubeで有料閲覧が可能です。
60年前の大阪をカラーで味わえるだけでも、見る価値はあると思います。
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