あなたの知らない京都大学の「狂大」な世界

京都大学狂徒大学ブログエッセイ
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東大と京大

京都大学京大

京都大学こと京大は、くどくどと説明が不要なほどの日本の大学の双璧、そして永遠のライバル(?)として、東大とよく比較されます。
しかし、同じ国立大学ながら校風が全く違うことも、よく知られています。漠然としたイメージでは、お硬い東大にイカれた京大、とこんな感じかもしれません。
「秀才養成所東大。変人養成所京大」
戦前の帝国大学時代から言われてきたという言葉です。口の悪い人は、「狂徒大学」という人もいます。

私が感じた東大と京大の大きな違いは、15〜6年前に「観光」で京大へ行った時のこと。
広い大学、特に伝統のある大学のキャンパスめぐりは、ちょっとした観光です。敷地が大きな大学になると、キャンパス案内の地図が必要なことがある上に、建物の歴史などが書かれたガイドブックがあると、「観光客」としては嬉しい限り。
京大は、公式HPにそれがあります。PDFになっているのですが、それはつまり印刷して是非見に来てね~というアピール。ウェルカム感満載、いや不気味なほどの下から目線でした。
そして、正門横だったか生協だったか、「案内所」まである始末。地図の印刷を忘れてもここでGETできました。

対して東大は…

やかましいわい。

東大生と京大生の違いがわかる、ある小咄があります。

題1:「おふくろの味」と書かれた小料理屋に入ったものの、中で料理を作っているのはオヤジだった。
東大生「これは詐欺じゃないのか!」
京大生「別にええやんか~。あんまし細かいこと言うたら窮屈になるで。そんなことより、一杯飲みやww」

題2:「回らない寿司が食べたい」と思った時
東大生「よし、いいとこに就職して出世して高級寿司店に行くぞ!」
京大生「そうや!寿司と一緒の速度で自分も動いたら、実質回らんのとちゃう?」

なお、題2は
慶大生「よし、パパにつれて行ってもらおうっと」
というバージョンもあるらしいです…。

自由すぎる大学

また、京大はこうも呼ばれます。
「自由すぎる大学」

東大、戦前は東京帝国大学、は良くも悪くも、将来の日本を動かす人材育成のために作られました。私のような口の悪い人間は、「東大なんて所詮『国立官僚養成専門学校やんか』」という人もいますが、創立の主旨がそうなのだから仕方ない。
それはいわゆる校風にもあらわれ、どちらかというとやはりお硬い感じ。本当はそうじゃないかもしれないけれど、イメージというものは容易に拭えるものではありません。

対して京都帝国大学は、「国立東京官僚養成学校」に対するアンチテーゼとして作られました。純粋に学問を究める人材育成のための大学です。
京都出身のお公家さん、当時文部大臣だった西園寺公望の職権乱用と公私混同によって京都に作られたこの大学は、「京都帝国大学」と名付けられ、初代総長の木下広次、事務局長の中川小十郎のコンビで創立当初から「学問の自由」を掲げました。これが現在まで息づいているとされています。
ちなみに、中川小十郎はこれでも飽き足らず、自分の理想を掲げた私立学校をのちに設立します。それが現在の立命館大学です。

「自由すぎる」京大の校風は、京都帝国大学だけではありません。
今は総合人間科学部として使われているキャンバスは、戦前は『第三高等学校』(いわゆる「三高」)という旧制高校でした。
三高は長年、第一高等学校(一高。今の東大駒場キャンパス)のライバルとして、明治・大正・昭和と京都に君臨したのですが、ここも校風は「自由」。
今の京大は、京都帝国大学と第三高等学校が合併(ヒュージョン)したものですが、「自由学園」に「自由学園」がくっつくと自由x2とはならず、自由の二乗。その結果、髪の毛が金色になる(スーパー)自由学園」となりました。

京大の自由とはどんなものか。ある教授はこう述べています。

京大に入っておそろしいほどの自由を前にしてびっくりした。それまでの自分の『自由』と思っていたものが、なんてちっぽけだったか思い知った。
これまでは高速道路に乗らず、下道を走ろうとしていただけ。向かうべき方向は決まっていた。しかし、京大は原っぱだった。完全に放り出された。行くべき先なんて誰も教えてくれなかった京大に入った時、理学部の事務の人がガイダンスで、
『3分の1の確率で、行方不明になります』
と説明していてびっくりした。事務の人がそれを言うのがすごい。そこからなんとかして方向を見つけ出して、選んで、専門に入っていく。
(中略)僕の思う京大っぽさとは、自由の中で、まさに自分の角度を作り上げている。暴力的なまでの自由さだ。
変な奴が変なまま、全力で尖っていける場。それが自由の学風だと思っている」

引用:世界が滅んでも生き残るため、京大生よ変人たれ。酒井教授が語る、カオスに立ち向かうための「京大の役割」

これを見て、あるゲームを思い出しました。

Might and Magicというゲームをご存知でしょうか。知っていたらかなり熟練のRPGファンです。

RPGとくれば、ドラクエやファイナルファンタジーを思い浮かべますが、これらは「和風」。何が和風か。何もしなくても、強制的にストーリーが勝手に進んでいくことです。ベルトコンベア式RPGとでも言いましょうか。
しかし、Might and Magicはアメリカのゲーム。あまりに自由すぎて難易度は激高。
どれくらい自由かというと、スタートした途端、プレイヤーは金もなく持ち物はこん棒のみ。パンツ一丁の素寒貧のまま、名前すらわからない町の真ん中にボン!と放り出されます。
ストーリーも全く不明、どうすればいいかって?そんなの自分で考えろ、以上。

ドラクエ・FF風味に慣れている日本人ゲーマーには、このゲームのあまりにフリーダムな展開に、「何すればいいの?」とまず呆然とし、次に「全然ストーリーが進まないじゃないか!」と怒りが湧き、最後は「なんやねんこのクソゲー!」と投げ出すと思います。

これって、上に書いた京大そのままだと思いませんか。
京大が「大学界のMight and Magic」なのか、Might and Magicが「ゲーム界の京大」なのかわかりませんが、フリーダムの大盤振る舞いさは似ています。

京大の自由とは既成品ではなく、各人の考えに任されたオーダーメイドの自由。
自分の居心地のよいサイズに切り取るのは至って自由だが、それはなにか、どのように切り取るのか、誰も教えてくれません。
それを、4年間猶予をやるから自分で考えろ。4年で見つからなければ8年間在籍期間をやるから、心残りなく留年しろ。退学したければ勝手に辞めろ。これが京大の基本教育です。
まるで旧制高校そのまま。システムとしての旧制高校が残っているのは東大(の教養学部)ですが、歴史の遺物となった旧制高校のDNAを引き継いでいるのは、もしかして京大なのかもしれません。

ある総長は、ノーベル賞の講演会でこう述べました。

「湯川先生、朝永先生に京都大学がしたことは、たったひとつです。何もしないで放っておいたということです。」

自由すぎるということは、つまり変人を生み育てる土壌となります。その蓄積が肥料となり、変人を育てるのでしょう。最近はそんな変人がめっきり減ったそうですが、それでも一定数の変人が、確実に生息しているようです。
オツムのネジが数本抜けたような変人なら、東大や他の大学にもいます。しかし、京大はその割合が高く、しかもぶっ飛びぶりがずば抜けていることが多いといいます。

そんな彼らが残したという京大伝説が多数ありますが、その中でも有名かつネタになるものを。

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