
JR阪和線の美章園駅の東側には、ある慰霊碑があります。

手前の献灯は最近寄付されたもので目新しいですが、奥の碑はかなり古い模様。

「遭難供養之碑」
と書かれた慰霊碑です。
慰霊碑は当時の駅員が山中渓駅あたりの和泉石を切り出し、運んで作成したもの。
国鉄の経費ではなく、彼らのポケットマネーで作ったものです。
これが作られたのは昭和26年(1951)。「美章園駅の悲劇」の記憶がまだはっきりしていた時のこと。駅員たちの気持ちが非常にこもっている
側面にも文字が書かれていましたが、文字が一部読み取りにくくなっているため、総務省の記述を頼りにすることにします。
【右側面】
昭和二六年八月二十四日建之
国鉄美章園駅国鉄職員一同
【左側面】
昭和二十年二月十四日午後八時頃空襲を受け
執務中の職員三名並に旅客衆十数名が
美章園駅構内にて遭難死亡す
茲に七週年を迎えて有志相謀り碑を建立し
犠牲者の靈を弔ふ
この碑には何の意味があるのでしょうか。
今から80年前の昭和20年2月14日、午後8時頃。
大阪を来襲したB29が投下した3発の爆弾のうち、1発が駅のホームを直撃しました。
運の悪いことに、和歌山行きの電車が駅を出発した直後でホームには人がまだ残っており、そこに爆弾が炸裂。そのため、死者24名(うち駅員3名)重傷者16名の人的被害の他、周囲の建物177戸が半壊しました。
B29が駅を狙って投下したのかは不明ですが、おそらく偶然だったと思われます。

爆弾が投下した翌日でしょう、復旧作業にかかる駅員や地元の人達の写真が残っています。
落とされた爆弾は、500kgとも1トンとも言われてます。
ネットでは1トン説が有力ですが、私はそれに異議を唱えたい。
投下直後の美章園駅の写真を見ると、線路は確かに変形して電車が走れたものではありません。
が、周りの建物は、ガラスくらいは割れているかもしれませんが、外観は原型をとどめています。
もし1トン爆弾が落下したのなら…

これくらいのクレーターができるはずです。もちろん、周囲の建物は跡形もありません。
実際、1トン爆弾だと深さ数メートル、直径10メートル以上の穴が開き、雨水が溜まって池になり、松島新地がある九条や本田には、いつ入ってきたのか魚まで泳いでいたと伝えられています1。
美章園駅に落ちた爆弾が1トン級なら、線路どころか周りの建物も木っ端微塵に吹き飛んで原型をとどめないくらい破壊されているはずなので、500kg、いやもっと小さい250kgくらいだろうと推測しています。
航空写真で見る美章園駅の変化

この爆弾投下後、美章園駅はしばらく使用不能になりましたが、昭和22年(1947)4月15日に新駅舎が完成。営業再開となりました。
美章園駅周辺の変化を、航空写真で見てみましょう。

まずは空襲前の昭和17年(1942)の航空写真より。
わかりにくいですが、向かって右側、東側の道が駅のホームと平行にまっすぐ走っています。

空襲後の昭和23年(1948)の航空写真で駅周辺を見てみると、赤矢印の駅東側が更地になっていることがわかります。爆弾投下地点は美章園駅直撃というより、その東側ではなかろうかと。
また、①の部分にある建物は前年に再開された駅舎でしょう。

昭和39年(1964)の航空写真を見ると、赤線の現在の道筋になっています。
本当は昭和26年(1951)、慰霊碑が建てられた年の航空写真もあるのですが、撮影高度が高すぎて参考にならずでした。

駅の東側、慰霊碑のちょうど上あたりのコンクリート壁には、「1958-2」と書かれたプレートがあります。
これは昭和33年(1958)2月に改修されたということで、この時に何かしらの改修が行われ、現在の姿になったのでしょう。
駅に爆弾が落ちて多数の死者が出た…というのは、終戦1日前に起こった京橋駅の空襲が有名ですが、ここ美章園も忘れてはなりません。
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