前回は、現在は「町家物語館」として一般公開されている旧川本楼の1階部分を紹介しました。
1階を紹介…というより、あまりに長くなりすぎて1階で終わってしまったというのが本音ですが、それほどこの川本楼、細かい部分に贅が尽くされ、見所が満載なのです。
本編は、2階と3階部分を一気に紹介していきたいと思います。
川本楼の2階は?
ガイドさんの誘導で2階へ向かいます。
2階と3階は実際に「営業」が行われていた「仕事場」でした。階段の奥に見える丸窓が、ムードを盛り上げてくれる演出になっています。
遊郭は大きく分けて遊女が妓楼に住み込んで営業する「居稼ぎ制」と、芸妓や娼妓が所属する基地である置屋から揚屋などに派遣される「送り込み制」があるのですが、ここ「旧川本邸」は前者の「居稼ぎ制」で遊女が実際に住み込んでいたようです。
2階の階段を上がり、丸窓を横目にしてすぐにある部屋が、通称「髪結い場」。本当に髪結いをしたかどうかはわからないそうですが、そう呼ばれていた部屋とのことです。
ここから見えるのが、
この「ハートマーク」。
「旧川本邸」のシンボルかつ全国の遊里史などの好事家の間でここを有名たらしめているのが、この「ハートマーク」。
くどいようですが、これはハートマークではありません。
私が見物していた時も、
「ハートマークハートマーク!」
とテンション上がり気味だった方や、
「でもなんでこんなところにハートマークなんやろ?」
という方もいましたが、全員間違い!横から
「これ、ハートちゃいまんねん」
とそれだけ口を挟みたかったか(笑
これは「猪目」と呼ばれるもので、一種の魔除けです。特に火気除けとして日本家屋ではちょくちょく見られるものです。
特に神社仏閣にはよく見られるもので、写真は明治神宮ですがこのように「ハートマーク」ならぬ猪目があります。
では、何故こんなところに猪目があるかというと…この真下が台所になっており、火の気が多い台所の火事除けと、私の推測ですが、換気のための通気口の役目もあったのではないかと思います。
ちなみに、2011年に訪れた時のは、ガイドさんも「ハートマーク」にこだわっていたようで、当時の私のメモによると「女性の桃尻をイラスト化したものではないか?」と説明しておったようです。確かに、「尻」にも見えないことはないのだけれども…。
ところで、ある意味二度と見られない秘蔵の写真があります。
こちらは修復前のもの。私がはじめて洞泉寺遊郭を訪問したときに撮影したものです。このときは、
「これが伝説の『ハートマーク』か」
と感動も胸が一杯でしたが、冷静になって見てみるとかなりボロボロ…このときは、大和郡山市が買い取ったものの、まだ使い道が決まらずどないしよ~!?と思案中だった時のものでした。
改めて現在の姿と見比べてみると、まるで「使用前」「使用後」のように綺麗にかつ忠実に修復されていることにも、一種の感動を覚えます。あんなボロボロだったのを、よくぞここまで修復してくれたと。
2階の廊下はこんな風になっています。幅は狭く、人がすれ違うこともできないほどです。
2階の間取り図ですが、二階には客間が6つあり、そこが妓楼時代の遊女の「仕事場」だったところです。部屋の間取りはだいたい3.5畳といったところで、妓楼としては標準的な広さです。
真ん中の「案内所」と「客座敷」は言わば宴会場。洞泉寺遊郭には芸妓もいたという記録もあるので、ここで芸者を上げてどんちゃん騒ぎをすることも可能でした。
現在はこのように修復が完了し、畳も入れ替えられきれいになっています。が…
9年前はこんな感じ。写真ではいまいちわかりにくいですが、修復開始という時でけっこうな部分にガタがきていた記憶があります。今年訪れた時も、えらいきれいになっちゃって!という感想が第一でした。
「旧川本邸」は赤線の廃止後、近くの郡山高校の学生向けの下宿に転業したのですが、その時に電気メーターを各部屋に設置したりと、多少の改造はされました。が、原則は当時のままで雰囲気も色濃く残っています。
3階へ!
旧川本楼の一般公開は、基本は1階と2階のみとなっています。木造3階建てなので3階も当然のごとく存在しているのですが、普段は非公開。
私が訪問した際も、このようにお雛様が3階へ続く階段をがっちりガードしており、こっそり…なんてとても入れた雰囲気ではありませんでした。
しかし、たまたま遊里史に興味がある物好きが3人も集まりあれこれ質問攻めしたりメモを取っていたりすれば、ガイドさんも上機嫌になります。
そして出ました。
「よかったら3階もどうですか?」
当然、Noと言うわけがありません。
実は私、過去に一度3階に上がっております。が、その時は全くの手つかず。2階ですらロクに手を付けていないのに、3階なんて手が回らないと。なので床が腐っている可能性もあり、生命の保証は致しかねますと。
それでも行きますか?と問われたので返事はYes。特別に見せてもらったのが、9年前の2011年でした。
9年ぶりの3階はきれいになっているのでしょうか。
階段を上ると目の前に現れるのは、便所です。右から書かれた「所便」がレトロ感を醸し出していますが、当時そのままのものなのである意味当たり前。
しかし、ここである謎が浮かび上がります。
水洗便所がふつうになり、高層階にもトイレがあるのが当たり前になった現代ですが、川本楼が建てられた当時はくみ取り式が当たり前。便所は1階に設置されていました。
しかし、ここには2階どころか3階にトイレがあるのです。どうやって用便を下に落としていたの?と。
市が買い取った時、ここはすでに便所の用を終え便器も撤去されていたようで、男子用トイレだったようだけれども、詳しいことはわからないとのことです。
しかし、男子用ならば管で1階まで落としてたのではないかと容易に想像できますが、そんなに簡単にはいかないのだろうか。そこらへんはわかりません。
わかっているのは、3階のここに「所便」があったということ。今後の研究が待たれます。
謎のガス灯
3階には、今となっては非常に貴重になった、ちょっと変わったものが残っています。
和の家にある洋灯。なんだかアンバランスな感もありますが、これはガス灯です。西洋式のガス灯は明治時代に広まったのですが、室内だと火事の危険があるのと、煙のにおいが気になる(要するに臭い)こともあり、室外を除けば電灯に取って変わられていったものです。
ここ川本楼が明治時代に建てられたものなら、これが残っていても不思議ではありません。が、前回書いたとおりここは大正末期の築であり、その頃には電灯が普及していました。それでなんでガス灯?と。
しかしながら、昔は電気の供給が不安定で、停電もたびたび起こっていました。このガス灯はその時の明かりだったのだろうとの説明でしたが、
2つとも階段の近くに設置されていたところを見ると、非常灯代わりの役目をしたのではないかと、私は推測しています。
三階に残る「廓」の残滓
3階の窓際には、2階にはないある跡が今に残っています。
木の格子の内側に、また何か格子があったような丸い穴が残っています。
これ、実はかつて鉄の格子が填められておりました。木の格子があるのにさらに鉄格子を加えた理由は、よくわかっていないそうですが、遊女の逃亡防止とも、客の逃亡防止とも推測されています。
私はこう推測します。
実際に川本楼を登楼した人は感じたかもしれませんが、2階はどこか暗くジメジメしていた感がありましたが、3階は光も多めに入り明るくスペースも少し余裕があると。
妓楼の部屋には、大きく分けて「大部屋」「廻し部屋」「本部屋」があり、この順で料金が高くなりました。川本楼は3畳半の「廻し部屋」が中心で2階も3階も間取りは同じです。
が、3階の方が上述の通り「明るい」。
この理由は、偶然・気のせいも含めて様々ですが、3階は常連や金持ちなどの「お得意さん」用になっており、3階に居座る遊女も、美女だったり稼ぎが良いなどの上玉用だったと。要は、2階が下っ端~ふつうの遊女用で客も一見などだが、3階は常連客や上位ランク遊女用だったと。
間接的な証拠に、2階から3階へあがる大階段がやけに広いということがあります。ここだけ幅が他の階段の3~4倍もあるのは、何らかの理由があったはずですが、上客のための「赤じゅうたん」のような演出効果があったと、私は推察しています。
当時はリフォームどころか全く手つかずだったので、畳が剥がされて床がむき出しの状態でした。
そして、2011年にも感じていました。2階と比べ、真昼間にもかかわらずやたら暗い…昼間から幽霊が出てきそうな、背筋に「何か冷たいもの」を感じたような気がしたと。
ただの軽い暗所恐怖症なだけだと思いますが(笑
洞泉寺遊郭、またの名を…
案内の方が、3階に転がっていたあるものを見せて下さいました。
「又春廓」と書かれた徳利ですが、これも川本楼に残っていた備品だそうです。この「又春廓」、実は洞泉寺遊郭の別名。ところが、赤線時代の関西の赤線一覧組合名簿には、洞泉寺の「ど」も掲載されておりません。その代わりにあるのが「又春廓」。つまり、別名どころか「又春廓」が洞泉寺遊郭の正式名称だったわけです。私の洞泉寺遊郭のブログ記事にも、申し訳程度に「又春廓」を付け足しておきました。
川本楼に残っているのは、おそらく何かの祝いで廓が特注した徳利ではないかとのことで、よくぞこんなのが残っていたと感激もひとしおでした。
おわりに
町家物語館は、遊郭だ妓楼だ抜きで、金をかけた感満々の「和の贅」が至る所にまぶされています。これを買収した大和郡山市の英断に、改めて拍手を送りたいと思います。
ただ…あくまで個人的な意見ではありますが、せっかくの元妓楼なのだから、「遊郭跡に残る貸座敷」という事をもっと全面に出せば良いのにと。幅広い人に来てもらいたいのだろうけど、「町家物語館」という何をアピールしたいのかさっぱりわからない名前では、せっかくの川本楼の切れ味が曖昧になり、なまくらになってしまっているのではないかと。
川本楼の近辺にある山中楼の時に案内の「おっちゃん」に言いました。
「建物はやむを得ないけれど、貴重な備品は残しといた方がええんちゃうのん?」
「おっちゃん」は真剣な顔で、
「市や教育委員会には何度も言うた。でも『要らん』の一点張りやったんや」
わかってない、歴史をわかっていない、市に教育委員会よ。
確かに、遊郭や遊里史というものは、人によっては触れられたくない黒歴史ではあります。遊里跡を回って、話はするけどブログには書くなと釘を刺されたことは何度もあるし、実際、貸座敷の楼主には子孫はいても、「2代目」「3代目」はほぼ存在しません。その理由は、考えるまでもないでしょう。
しかし、いくら隠そうとしても、消そうとしても、あったという事実は消えません。消えない以上、せっかく「現物」を税金で残しているのだから、資料や書籍を集め付属の専門図書館がある「遊里史の殿堂」をつくる。遊里史に興味がある人や研究者は、素人が思う以上に多いのです。
…ほぼ私の頭の中の構想ですが(宝くじ3億円当たるか、同額を寄付してくれたら実行します)、これで日本、いや世界でも唯一無二のオンリーワン博物館のできあがり。ニッチだけれども、いや、ニッチだからこそ価値がある。大和郡山の町の発展にも充分寄与できると思います。
さて、大和郡山市議員選挙に立候補して実現させますか(笑
おまけ
ファイルを整理していると、2011年に訪問した時の2階と3階の動画が見つかったので、ちょっと晒してみたいと思います。
9年前のものなので見づらいかと思いますが、実際に川本楼を見学した方は、今との状態と比較してみると面白いと思います。
コメント
遊郭 赤線 是非とも記録に、残して下さい。伊勢の最後の芸者幸太郎さんに、三味線を習っていたので
時々 話をきいた事ありますが
今は昔です。
大和郡山に行った事ありますが、その時は興味がなくて、わたしゃ、
アホかいな!と今になっておもいます。