
大阪府堺市のベイエリアには、大浜公園という比較的大きな公園があります。
もともとここはお台場、砲台が置かれた軍用地でした。東京にも「お台場」がありますが、それと同じだったのです。
それが明治にお役御免になり、公園として整備されました。
.jpg)
水族館、サル山などの小さな動物園、学生相撲発祥の地としての相撲場があり、関西屈指の湾岸リゾートとして夏には多くの人で賑わっていました。

ここの最大の見ものは遠浅の海水浴場。
現在は海岸が埋め立てられ、それを偲ぶものは何一つ残っていませんが、南の浜寺公園と並んで「堺海浜リゾート」の一角を占めていました。「北の大浜、南の浜寺」という感じでしょうか。
(その間の諏訪ノ森などにも、地元向け海水浴場がありました)
その大浜の中でも、目玉施設となっていたのが「潮湯」でした。今回は、数ある施設の中でも潮湯をメインに取り上げます。
大浜公園にあった堺最大の潮湯
潮湯の造り主は、意外にも南海ではなく阪堺の方。明治45年(1912)、阪堺電気軌道、のちに南海鉄道に合併されます。
が自社線への乗客誘致策として、大浜公園地に堺市(大浜)公会堂を建設し、大正2年(1913)1月2日にコテージ風の大浜潮湯が開業しました。

両施設は、明治建築界の重鎮、辰野金吾の主宰する事務所の設計によるもの。辰野は浜寺公園駅はもちろんのこと、浜寺俘虜収容所建設の際も視察に来たというから、大阪どころか堺と何か細からぬパイプがあったと思われ。
潮湯という大阪界隈の古くからの習慣を近代に応用した、温泉スパの元祖のようなもの。
大正時代、関西を中心に温泉を目玉にしたレジャーランドが各地に作られ、新世界にも噴泉浴場というラジウム温泉を目玉にした、「100年前のスパワールド」が存在していました。
また、大阪市には北港潮湯や築港潮湯のような「潮湯リゾート」も存在し、宝塚や甲陽園には天然温泉も建設された「関西のスーパー銭湯ブーム」が起こっていました。
宝塚歌劇団も、もともとは近代温泉、つまり「大正スーパー銭湯」の客寄せのために組織されたものなので、「大正スーパー銭湯ブーム」の一部となります。

「チンチン電車」こと南海阪堺線の大浜支線が戦前の堺の中心街だった宿院から西へ伸び、潮湯前に停留所を設け徒歩0分のダイレクトで客を運んでいました。
おそらくは、大阪市内の恵美須町や天王寺などからの直行電車もあったことでしょう。
また、南海電車も最寄りの龍神駅に特急を停車させ、駅で大浜支線と接続することで大阪市内からの乗客の利便性をはかっていました。

潮湯の先、海岸には海に突き出した納涼台が設置されていました。
エアコンどころか電気扇風機もブルジョアしか手が出せない器具だった当時、涼を取るには日陰で風に当たるしかありません。
海風は夏の風物詩でもあったのです。

昭和3年(1928)の航空写真でも、納涼台が確認できます。
この写真と周囲の建物の大きさを比較すると、この納涼台、相当大きいなと。
潮湯に咲いた花 少女歌劇団

大浜潮湯最大の呼び物は、少女歌劇。
大正時代は宝塚歌劇団や松竹歌劇団の成功により、全国各地に大小様々な歌劇団が誕生しました。成立して数年で消えたものも多く、歌劇団史の専門家ですら実際にいくつあったのかわからないほどでした。大和郡山にすら歌劇団があったくらいですからね。
大浜の潮湯歌劇団もその一つ。何匹目かのドジョウを狙ったのでしょう。

大正12年(1923)に設立された大浜潮湯歌劇団は意外に好評だったようで、1928(昭和3)年7月には専用劇場もオープンしました。上の絵はがきの左端に見える洋風の建物が、歌劇団の劇場でした。
、大阪の「大浜少女歌劇団」-831x1024.jpg)

宝塚や松竹顔負けのレビューも行われていたようで、シーズン中の利用客は1日中数万人にも上ったといいます。
好調の大浜潮湯と歌劇団、このまま隆盛が続くのかと誰もが思っていました。
そう、ヤツが大阪に来るまでは…。
室戸台風と大浜潮湯
昭和9年(1934)、大阪の歴史では避けることができないヤツが大阪にやってきます。
もう上に書いていますが、室戸台風の襲来です。

室戸台風は日本を襲う台風の中でも最凶のうちの一つで、四国や岡山県、滋賀県まで多大な被害を与えました。特に直撃を受けた大阪の被害はすさまじく、海沿いは軒並み全滅の憂き目に遭いました。
スペック自体は、2019年に東日本を襲った台風とほぼ同じです。が、この台風のいちばんの「凶」なるは、当時の計器では計測不可能だったほどの強風でした。風の強さは、上記台風より1.5~2段階増しという感じです。
-1024x659.jpg)
そんな台風は、ベイエリアレジャーランドだった大浜潮湯も直撃しました。
潮湯は倒壊、公園施設もかなりの被害を受け軒並み全滅。劇場が全壊した少女歌劇は解散となり、短いその歴史の幕を閉じました。
-1024x683.jpg)
ところで、潮湯の別館的存在である「堺大浜潮湯拡張建物」という建物が、本館の隣に存在していました。
上の絵葉書の向かって右側、洋風の本館の横にある建物です。
こちらも辰野金吾が手掛けた純和風建築で、東京駅のような洋風建築を得意としていた辰野にしては珍しい作品でした。
こちらも、全壊か半壊か規模は不明ながら、室戸台風で壊れてしまいました。
が、その後に大阪の奥座敷天見温泉に移築され現在に至る…というのが伝説として残っていました。
私もこの話は昔、郷土史として聞いた記憶があるのですが、所詮は伝承、ホンマかいな程度で証拠はありませんでした。
ところが、事態は急展開を見せます。
2002年、南海の資料庫の奥から、移築を行った資料と図面が見つかったのです。これで伝説は本当だと証明されることに。

建物は温泉旅館「南天苑」の本館として現存し、この世に唯一残る大浜潮湯の遺構となっています。
大浜潮湯の復活と消滅
室戸台風で全壊してしまい復帰は不可能かと言われた大浜潮湯ですが、どうやらその後に復活したようです。
大浜潮湯-1024x768.jpg)
浴場は台風などにも耐えられるよう鉄筋コンクリートになり、写真を見る限り、直角と曲線を使ったモダンな建築でかなり現代的です。
同時期に建てられた大阪商科大学(元大阪公立大学杉本キャンパス)の校舎群に似ています。

潮湯の中にあった喫茶室のマッチ箱広告にも、建物の外観がデザインされています。

中に入るとホールが待っており、かなり広々として当時の流行である丸窓が良いアクセントとなっています。

男子浴場も丸窓を使ったモダンでおしゃれなインテリアですね。
台風にもめげず復活した大浜潮湯ですが、戦争によりレジャーの自粛が相次ぎ、昭和18年(1943)には国の命令で観光旅館が閉鎖。
潮湯も翌年の昭和19年(1944)2月に閉館となりました。
戦争が終わり、大浜の海水浴場の賑わいは早々に復帰しましたが、潮湯がその後復活することはありませんでした。

それどころか、潮湯があった場所は更地に…。
建物が撤去された跡はくっきり残っているので、空襲の被害でも受けたのか、それともその前に不要不急の建物として撤去されたのか。
その理由はわかりません。
それ以来、大浜の潮湯は伝説となり、人々の記憶にうっすら残るのみとなりました。

現在の大浜公園、潮湯の跡はどうなっているのか!
次ページへ続く!
コメント