
滋賀県をのんびり走るローカル鉄道、近江鉄道。その中に豊郷という駅があります。
何の変哲もない無人駅ですが、この駅は全国からオタクが訪れる「聖地」への最寄り駅として、ある一定の分野では非常に有名になっています。

彼らの目的地はここ。旧豊郷小学校。
ここはアニメ「けいおん」の舞台、つまり「聖地」となっていて、大勢の「巡礼者」がここを目指して豊郷に殺到します。
実際、彦根から電車に乗って豊郷駅に降りた乗客は、みんな

ああ、なるほど…
と頷かざるを得ない風貌の人達ばかりでした(笑
しかし、巡礼者は何も日本人だけじゃありません。「聖地巡礼」という文化は外国への漫画アニメの伝播と共に伝わり、外国人もここを訪れるのです。
そしてここ豊郷小学校は、その「聖地」の中でも元祖的な存在として、今やワールドワイドな知名度なのです。

それだけに、駅名標もこのとおり。かわいいお嬢さんがお迎えしてくれます。


ちなみにこの豊郷小学校、聖地とか以前に近代建築の傑作なので近代建築好きな人も必見です。
言っちゃあ悪いが、こんな田舎の小学校に、なんで地方大学より立派な校舎を建てたんだ!
と驚きを隠せません。
その理由は、一言で言えば「西武グループ」と「伊藤忠・丸紅」の生みの親の故郷だから。
ただの近江の片田舎で、日本有数の企業グループを作り上げた二人の経済英傑を生んだ土壌の結晶が、この校舎なのです。
ちなみに、伊藤忠の創業者伊藤忠兵衛は豊郷駅の誘致・駅舎の建設の寄付も行っており、豊郷駅の生みの親の一人でもあります。
しかし!
だからこそ巡礼者の皆さんが見逃しているある「歴史的遺物」が、豊郷駅にあるのです…。
豊郷駅にある謎の石柱
豊郷駅の駅舎があるホーム側に、ある石柱があるのに気づいた方はいるでしょうか。

ホームの端にあるので、気づかぬまま「聖地」へ向かってしまう人も多いのではないでしょうか。
石柱には、なにやら文字が書かれています。

一 降リ

二 乗リ
(ちょっと柱が欠けてるので見にくいですが)

三 押スナ
豊郷駅の乗降者でこの石柱に目が向く人は、あまりいません。
実際、私が豊郷駅に降り立った目的は「聖地」ではなくこれだったのですが(「聖地」は滋賀県在住の頃に自転車で行ったことがあるのでパス)、古ぼけた石碑を凝視してはパシャパシャ撮影する姿に、聖地からご帰還の電車待ちの諸君は、

こいつ何やってんだ?
と不思議な顔をしていました。わからんかったら聞けばいいのに(笑
この石柱のいわれとは何か。
石柱の理由

昭和6年(1931)9月18日に起こった柳条湖列車爆破事件から発した満洲事変の延長として、翌年上海で戦闘が始まりました。上海事変です。
昭和7年(1932)2月3日、豊郷村の在郷軍人の予備兵18人に、突如として動員令が下りました。
それにプラス現役兵4名を含めた22名が上海へ鹿島立つことになりました。

石柱にも、「為上海事変…」の文字が見えます。
石柱はこの出征の時に作られたものだということが、これでわかります。
彼らは2月4日、赤襷の勇ましい姿で出征していったのですが、駅は見送りの人々の万歳万歳の声々で押すな押すなの大混乱。
その時の混乱で死者が出てしまいました。

実は、その時に亡くなった人物も石柱に刻まれています。
駅の裏まで回り込まないといけない上に、肉眼ではなかなか識別しにくい。
写真を撮りコントラストをかけたりして画像処理して、ようやく「浅尾嘉一郎君」の名前が読み取れました。
彼の名前は『豊郷村史』にも記載があり、事の顛末が記されています。
三ツ池に住んでいた浅尾氏は出征の見送りの人々に押されホームから落下、亡くなってしまったとのこと。

当時のホームは地面までそんなに高くはないので、押されたあまり受身も取れずレールに頭をぶつけたなど、「打ちどころが悪かった」のかもしれません。
この「一降り二乗り三押すな」は乗客マナーを呼びかける鉄道会社の警句というより、浅尾氏の供養塔とともに、二度と同じことは繰り返さないという村人たちの鎮魂の碑だったのです。
ちなみに…

出征した22名は、同年5月から6月にかけて復員。一人も欠けることなく全員帰ってきたそうです。
それだけに、亡くなった浅尾嘉一郎氏がなんだか浮かばれないなと。
豊郷駅を利用する聖地巡礼者の諸君、アニメもいいけどこういう歴史にも目を向けてみよう。
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