吉原遊郭の遊女は関東大震災で死んだ!?その真相は!?

関東大震災の時、吉原の遊女は本当に死んだのか。久保田万太郎などが語るその真相とはおいらんだ国酔夢譚
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吉原遊郭の観音ー吉原の遊女は本当に「溺死」したのか!?

吉原弁財天の観音像

吉原遊郭にはかつて大きな池がありました。その池の跡には、大きな観音様があります。
大正12年(1923)の関東大震災で吉原も灰燼に帰しました。火焔と煙で人々は池に飛び込み、約600人が溺死したと言われています。
この観音様は、ここで死んだ人たちの慰霊塔です。

その時の情景を、ある書物はこう書き記しています。長いので折りたたんでおきます。読みたい方はどうぞ。

関東大震災と吉原

時は正午、折柄一日の事とて、昨夜来いつづけの客は、今し「お直し」になって、向かひ酒にポッと頬を染めつつ、恋ざめの気持を味わいひつつあるの時、異様凄惨の音響と共に揺れ出した大振動!さながら家は波がしらに漂ふ木片の如く激動また激動!
寝巻きのままで飛び出す客、伊達巻一つ素足の娼妓、ゆもじ一つの女!
スワ火事よと、大門さして逃げ来ればこは如何に、大門には既に多数の避難民が雪崩を打って押寄せ、蟻の這ひいづる隙もあらばこそ!
三方にある非常口から逃げ出そうとしたが、ここはとても、はや避難民でいっぱいで一杯。ただ一道の血路は、吉原病院裏から千束町への道であるが、その時早く千束町方面に起った火は、折からの烈風に煽り煽られて、黒煙渦巻く中に、メラメラと紅連の炎を吐きつつ、刻々に、蔽いかぶさってくるので、その血路は今は如何ともする事ができない。
ここに哀れなるは、逃げおくれたるもの、負傷のために身体の自由を失ったものの一群である。彼等は吉原病院から逃げ出した患者や千束一丁目方面からここに逃げ込んだ避難民と共に、最後の避難所として弁天池の周囲に群がり集まった。降り来る火の(ママ)に衣服を脱いで逃げまどへば、火はまたしてもゆもじに燃え移る!今ははや、如何ともなし難く、丸裸体になって、右往左往、池の周囲を狂乱の如く逃げ廻ったが、ヂリヂリヂリヂリと顔は焼ける、毛髪は焦げる。堪らなくなったか、一人二人意を決したのかザンブとばかり身を躍らせて弁天池に飛び込めば、今はこれまでなりと、周囲にあった男女一千名、我も我もと池中に飛び込んだ。
併し記憶せよ!この弁天池は、実に猫額大の池に過ぎぬのである!
そこへ一千人の人である。池面は忽ち隠れてただ見る一面の人の顔、而も泥深きこと一丈余なのであるから、岸辺にあるものは、骨も砕けよとばかり、岸辺の何物かを握りしめ、その後ろにいるものはその人の肩に手をかけ、そのまた後は岸辺に近き人の胴を力の限りだきかかへ、中央部に浮つ沈みつあるものは前の人の髪をつかんで離さない!
南妙法蓮華経、南無阿弥陀仏…ありとあらゆる神仏を声高く念ずる叫び!
かくて、水中にあること七八時間、火も漸(ようや)く去り、夜はしらしらと明けはなれて、幸ひに助かったもの二百人、溺死その他の死実に六百余!
『大正大震災大火災 吉原弁天池の惨』(大日本雄弁会講談社)より

阿鼻叫喚の地獄絵図 廓にひびくうめき声
池に沈んだ吉原の 遊女の霊や安らかに
吉原の遊女たちも、この池で数百人が亡くなったとされています。

ところが!ここでちょっとおかしいことが。
新吉原三業組合が公に公表している、本震災での娼妓の死者は147名です1。うち上記の池で亡くなった娼妓は88人。この数字も正しいという根拠はないですが、少なくても世間一般で伝わっている「何百人」「何千人」とはかけ離れています。

では、なぜそんな話が伝わっているのか。
震災から数か月経った『婦人公論』2に、数人の婦人運動家の座談会が掲載され、そこで大勢の吉原の遊女が死亡したことに触れています。
全文を載せるとキリがないですが、内容は非常に面白い。なぜなら、自分の主観やただの噂話を、あたかも事実のように認識して述べているから。

彼女らは、遊女たちが死んだのは

大門が閉められていた・・・・・・・・・・から娼妓が廓内に閉じ込められて…」

としており、逃げたくても閉じ込められて逃げられずおかわいそうに…ということになっています。

吉原を愛する久保田万太郎の「喝」

久保田万太郎と吉原遊郭

そんな座談会に対し、作家・俳人の久保田万太郎(1889-1963)が翌年の『文藝春秋』3で反駁を加えています4

久保田
久保田

そもそもこいつら、「大門」に本当に門があると思ってるのかよwww
存在しない「門」をどうやって「開け閉め」できるんだwww

反論1:「大門」に「門」なんかあると思ってるのかよ!

吉原大門絵はがき

吉原の大門あるのはゲート、つまり門という象徴だけで扉はなかったのです。

江戸時代に流行したという駄洒落「吉原七不思議」には、こんな言葉もあります。

「大門あれど玄関なし」

大正時代どころか、江戸時代から「門」なんてなかったのです。

吉原遊郭の地図と非常門

ただ、吉原には大門以外にも、非常門(赤矢印)と呼ばれた門番のいる小さな門が周囲にあり、そこにはちゃんと「門」が存在していました。門番もいたといいます。
非常門は普段は閉まっているものの5、非常事態にはすぐに開放することが決められていました。だから非常門なんですけどね。

また、門の他にもお歯黒どぶには、「はねばし(跳ね橋)」という外界とつなぐ橋があり、非常門と同じく緊急時には開放されます。だから逃げようと思えばどの方向からも逃げられる。跳ね橋なら樋口一葉『たけくらべ』にも書かれてるじゃねーかよ、てめーら『女性に光を!』なんてほざいてる癖にその「光」である一葉も読んでねーのかよと久保田先生フルボッコです。

反論2:裏ががら空きじゃねーか!

さらに大正時代後期に、吉原に大きな変化が訪れます。

吉原の地図大正時代から昭和にかけて

震災の2年前の大正10年(1921)、吉原近くまで市電が開通しました。遊郭の裏に「千束町」電停が開設され、客の流れが大門と「真逆」になりました。
これ以降、「裏吉原」だった京町1〜2丁目が吉原の一等地となり、本来の一等地だった大門前の江戸町1〜2丁目は衰退していきます。
大門が「表門」とすれば電停病院前は「裏門」。裏門には遊女専門病院としての吉原病院(現台東区立台東病院)がありましたが、そこには玄関どころか門すらありません。

つまり、裏側はノーガードのがら空き。

こちらも、「存在するわけもない門」をどうやって閉じることができるのでしょうかね?

反論3:吉原には遊女しか住んでないと思ってるのかよ!

久保田の批判の手は緩みません。

久保田
久保田

こいつら、吉原には遊女しか住んでいないとでも思ってるのかよwww

遊廓にあるのは貸座敷だけではありません。中〜大規模遊里なら雑貨屋から八百屋魚屋、食堂や飲み屋、銭湯に髪結い(今でいえば美容院)、個人医院などなど、廓内を出ずに生活できるほどのお店が並んでいました。当然、それに関わる商売人たちも住んでいます。

吉原ではありませんが、地方の遊郭では廓の境界線が曖昧なところが多く、遊郭とは何の関係もない一般人も住んでいることも多々ありました。

盛岡八幡町と言えば盛岡、いや北東北最大の遊郭(ただし、遊郭・花街混在型)があったところですが、総理大臣にもなった海軍提督、米内光政を輩出しています。
ただし、八幡町の全エリアが遊郭だったわけではなく、米内は遊郭と無関係でしたが、番地一つ離れると遊郭だったため、少なくても片目以上で色街というのを見ていました。

「廓」って一つの町。40代後半~団塊世代なら、敷地内にスーパーから役所の出張所まで、何から何までそろっていた郊外型公団住宅(団地)をイメージしていただけるとわかりやすい。

また、吉原は娼妓だけではなく、芸妓や幇間などもいます。吉原の芸妓や幇間は芸のレベルが高く、娼妓がそこにいるだけに、「不見転(みずてん)」と呼ばれた芸なし芸者、つまり隠れて客と寝る芸者が吉原にはいません。吉原芸者も、「花魁さんたちのおかげさまで自分たちは芸だけに集中できる」と感謝していたといいます。

吉原のルールとして、大見世に揚がるには「引手茶屋」で一遊びしないといけません。
今風に例えると推しアイドルのライブに行くノリで吉原に来て、引手茶屋で推し芸妓や幇間の芸や唄だけを楽しんで貸座敷に上がらない、粋な人もけっこういました。久保田もその一人で、戦前・戦後を通して引手茶屋・料亭「松葉屋」の常連でした。

よって、彼(女)らや茶屋・置屋・貸座敷のオーナーや家族も廓内に住んでいます。吉原ではなく大阪の貝塚遊郭舞鶴ですが、貸座敷の楼主の娘さんが家(妓楼)から学校に通っていたり、遊郭とは全く関係ない赤の他一般人という証言を直接聞いたことがあります。

ご婦人方の言うとおり、(あるはずもない)扉がありそれが閉まっていたら、「遊女以外」もみんな閉じ込められます。そこが抜けてるよね、つまり吉原のこと何も知らないんだってことだと久保田先生、呆れています。

最後に、久保田はこう締めくくっています。

わたしは、ただ、ほんとうに「大門」という門があると思っている諸君の浅はかさを(わら)えばいいのだ。(中略)婦人運動もいい、廃娼運動もいい。だが、その前に、見当違いの、調子外れのわるく僻んだ料簡をきれいに棄てることだ。独りよがりの半端な、下司な根性(ママ)すっぱり縁を切ることだ。

引用:「大門」

ご婦人方の「吉原の遊女はみんな廓内で死んだ」という「夢想」を、久保田万太郎が「無双」でぶった切る構図。
浅草に生まれ、生涯江戸文化と吉原芸妓と幇間の芸を愛した活けるお江戸Wikipedia、久保田先生の手にかかったら、小娘どもが嘘出鱈目並べやがってとお仕置き。
アンチ野球の女が「野球は女性差別だ」と妄想メジャーリーグをツイッターで吹聴してたら、それ全部あなたの妄想だよねとダルビッシュ氏が引用RTでマジレスしてきたくらい相手になりません。

この座談会のもう一つ興味深いのは、参加者の一人に「平塚明(子)」がいること。

平塚らいてう

平塚明子とは、学校の教科書にも出てくる、「元始、女性は実に太陽であった」の言葉で有名な婦人運動家、平塚らいてう(1886-1971)のこと。フェミニストとして廃娼運動にもかかわっていましたが、行動力のある女性だったらしく、廃娼運動なんて遊廓の事情をこの目で見てからやれなどと親類に煽られたのでしょう、連れと貸座敷、上述した吉原きっての大見世大文字楼にあがりました。「吉原登楼事件」として女性史の中では有名な話。

彼女が登楼した大文字楼の跡継ぎとして生まれた劇作家、波木井皓三6が、女子座談会と久保田の反論を見てこう述べています。

この平塚女史はその後の「吉原」をどのように実態調査を進められていたのであろうか。平塚女史はかつて大門をくぐられたはずなのに。

引用:『大正・吉原私記』

波木井は貸座敷の跡取りとして生まれながら、廃娼の立場に立って吉原一の大妓楼の継承権を捨てた人物ですが、それでも平塚に対して「吉原に登楼したと自慢されてますが…吉原のどこを見てきたんだ!」と批判を加えています。

彼女らの登楼はただの自分を「すごい人」に見せたいがための箔作り、要は自己顕示欲を満たすだけのためだったというのを、彼は見抜いたのでしょう。

結論:フェミの妄想乙

こういう運動家には、

大門が閉まり閉じ込められ死んだ遊女たちかわいそう!

という、自分たちの感情を満たす物語が前提にあります。そこに、ただの主観や都合の良い話だけを信じて夢想妄想話を吹聴してしまう。いや、遊郭には芸妓や幇間もおりまして…震災時娼妓はほとんど避難してまして…なんて都合の悪い事実(反証)はあー見えない聞こえない。

これを心理学で「確証バイアス」といいますが、久保田はその偏った思考(心理学で「認知のゆがみ」と言います)と、その裏にある偽善や自己顕示を見抜き、「下司の根性」という表現で痛烈に批判しています。久保田センセ相当怒ってるな…と実際の文章を読んで感じました。

そもそも、彼らが批判する遊郭がなくならない根本は、貧困問題。そこを無視し、

遊郭けしからん!

と遊郭だけを目の敵にしても、モグリの売春婦、つまり私娼が増えるだけ。売春自体がなくなるわけではないのです。

原因は廃娼運動だけではないですが、大正時代以降、遊郭はオワコン化し衰退します。そういう意味では、運動家の効果は出ています。
が、その分玉の井のような私娼窟が大繁盛。全国に私娼窟が増えていきます。また、大阪の今里新地や港新地、和歌山の天王新地のような

筆者
筆者

いやそれ事実上の遊郭やろww

とツッコミを入れてしまうような「仮面花街」「関西式羊頭狗肉型花街」(←私の造語です)もできることに。

まるで、「害獣を駆逐しろ!」と稲を食うスズメを駆逐したら、天敵がいなくなって大増殖した害虫のイナゴによって農作物が食い荒らされ、何百万人ともいわれる餓死者が出た1960年代の中国のようです。

要は、遊郭さえ失くせばなんとかなると思った方が、「浅はか」で「見当違いの、調子外れの料簡」だったというわけで。
福島県出版の『福島県女性史』はその浅はかさを認める記述がありますが、フェミニストとかいう運動家はそれが「宗教的信念」なので、認めもしなければ勉強もしない。だから知識が全くアップデートされない。波木田皓三はそこを非難しています。
なんだか100年前も現在も、全然変わってませんな。

ただ厄介なのは、この「大門閉じられて遊女が逃げられなくてみんな死んだ」を、無知、あるいは宗教のように信じている人は今もけっこう多いこと。

そんな…100年近くも経っている上に、ネット社会だから資料もすぐ手に入れられるから、そんなことはないって?
とんでもございません!こんな記事をどうぞ。

東京新聞の嘘

遊女ら供養 振り返る20年 吉原弁財天で来月9日 家田荘子さん法話 東京新聞2019年10月24日付)

2019年の東京新聞の記事ですが、100年前にコテンパンに論破されていることを、100年後のマスコミ様が吹聴してらっしゃいます。
この記事を書いた東京新聞さんには、「存在するはずもない」門をどうやって閉じたのか、是非ともこの記事を引用してご説明いただきたいと思います。ただし…

や れ る も の な ら ね(笑

遊女かわいそう…という感情論もわかりますが、事実は事実。ちゃんと叩けば埃くらいは出ます。その「叩く」という行為をしないから、こんな「嘘出鱈目」がまかり通り、それを信じる人が絶えないのです。

筆者
筆者

吉原の歴史や東京にあった他遊郭の話は、こちらもどうぞ!

  1. 『新吉原遊廓略史』
  2. 大正12年11月・12月合併号
  3. 大正13年3月1日発行
  4. 『新吉原遊廓略史』に収録
  5. 大正時代は昼間も閉まっていたと久保田は述べているが、『吉原はこんなところでございました』によると昭和に入ると深夜以外は常開だった。
  6. 本名は光太郎。
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