吉田茂の海外遊郭報告

吉田茂天津総領事歴史エッセイ

国立公文書館

「近代史」を調べるのに必ずお世話になるサイトはいくつもあるのですが、国立公文書館のアジア歴史資料センター もその一つ。近代史にまつわる史料をPDF化したものを検索・閲覧できるようになっており、あいまいなキーワードで検索しようものなら、途方にくれるくらいの件数がヒットし、調べる方が途方に暮れてしまうほどです。
しかし、逆に言えばここは宝の山。暇な時間ができれば、何かないかなーと適当に検索して資料をあさるのですが、そんな宝の山を丹念に探索していると、少し興味深いものが見つかりました。

第一次世界大戦後に出来た国際連盟が、大正13年(1924)に世界中に調査をお願いしたことがあります。それが、世界中の売春婦の実態。
それをベースとして、外務省が全世界の領事に

というわけで、調べてね

と命令し、世界中の領事からの回答が当時の外務大臣幣原喜重郎宛に届きました。それが100年近く経った21世紀の今、ネットで公開されています。

それは、「機密」のハンコが押された外交機密文書扱い。一般市民はおろか外務省内でも関係者以外は目にすることができなかった、ちょっといかつい秘密の史料でもあります。
サクっと流しで見てみたら、中国各地からの遊郭・私娼(街)などの実態が報告されているのですが、「おや?」と目についた都市が一つありました。それは、中国の天津からの報告。


中国の天津…中国に詳しくない人には「天津甘栗」くらいしかイメージがないと思われます。が、地図を見てもわかるように、北京の外港としての役目もあり、中国の中ではかなり重要な都市であります。

中国の近代史を語るキーワードに「租界」があります。「租界」と言ったら上海を思い浮かべる人が大多数だと思いますが、租界は中国各地に存在していました。

租界と紛らわしいものに、「租借地」があります。
租借地とは、外国政府が中国政府と条約を結び、土地をレンタルすることで、英語ではConcessionと言います。しかし、「レンタル」と言っても期限は基本99年。99とは中国では「半永久」という意味で、事実上の割譲でもありました。
「租借地」の代表は、イギリスがアヘン戦争で分捕った香港や、日本が日露戦争で権利を得た大連・旅順(大旅)です。
大連は、第二次大戦で自動的かつ自然に「租借契約」はチャラになったものの、香港は99年の期限があったので引き続き英国が「無料レンタル」。その99年の契約が切れたのが1997年、つまり中国に返還された年という流れです。というか、上述の通り「99年」とは半永久的という意味なので、まさか英国も

おい、99年経ったから返せ!!

と言われるとは思わなかったはずです(笑)

それに対し、「租界」は個人地主に土地代を払い、賃貸契約にのっとって土地を借りることで、租借地と違い国が直接かかわることはありません。また、土地の主権も、契約上は借方にありません。
しかしながら、租界も中国にありながら中国の警察権力が及ばなくなった経緯があり、そうなると「租借地」とほぼ同じ。事実上形を変えた植民地と解釈してもいいと思います。
租界は英語でもConcessionですが、やり方はSettlementで「法に基づいた不動産契約」みたいなニュアンスです。
なお、横浜や神戸の「外国人居留地」も租界に近かった性格がありますが、また違うという意見もあり、見方は定まっていません。

天津にも租界が存在していました。
上海の租界は「共同租界(米英を中心に他数か国が管理)」と「仏租界(フランスが管理)」の二つとシンプルだったのですが、天津の租界は8ヶ国分。「日本租界」の他に「イギリス租界」「フランス租界」「ロシア租界」「オーストリア=ハンガリー租界」「ベルギー租界」「イタリア租界」「ドイツ租界」が混在していました。まさに租界のモザイク状態。

天津租界

天津の日本租界は、日清戦争の下関条約によって設立されました。各租界と連携しながら都市計画に基づいて整備され、昭和17年(1943)の大東亜戦争中に日本軍がイギリス・フランス租界を接収、日本租界と合わせて中国に返還して消滅しました。
中国も経済発展で昔の建物が急速に消えていっていますが、日本租界の遺物は、天津の租界を研究した論文によると、「他の都市と比べて保存状態が良い」とされています。
その理由は、天津市が日本租界に残った建物が市重点建造物、日本風に言うと「市の重要文化財」に指定された建築物が多いからだそうです。

天津日本租界
天津日本租界

天津の博物館にあった当時の日本租界の写真です。

天津日本租界

Google mapから日本租界だけ赤く塗ると、こんな地理関係になります。
昭和15年(1940)当時の天津日本租界の復元地図を見てみると、小学校あり、お寺あり、ローカル新聞社(もち日本語の)あり、大衆食堂ありと、租界の中は「プチ日本」そのものでした。

その日本租界のど真ん中に日本総領事館があったのですが、ここにある歴史上の人物が総領事だった時期がありました。

吉田茂

それが吉田茂でした。
吉田茂って…あの吉田茂?と調べてみると、やはりその吉田茂らしい。吉田茂はさすがに説明不要だと思うので、詳細は省略します。
経歴を調べてみると、確かに大正11年(1922)年3月から14年の9月まで、天津の総領事に就任していました。
私が見つけた史料は、その総領事就任中に吉田が外務大臣に提出した「売春婦事情@天津」。
他の人は10ページも20ページも割いて詳しく書いているのに、吉田はたった6ページ、紙にして3枚分。吉田茂の性格なのか、それとも単にやる気がなかったのか(笑
しかし、たった3枚分ながら肝腎なポイントはきちんと押さえているところが、さすがは後の首相。

その吉田茂の報告によると、大正13年(1924)当時の天津日本租界の売春事情は、日本の遊郭のように公娼ではなかったものの、私娼が酌婦として営業許可を得た「准公娼」として黙認されており、その数は、日本人:17名、朝鮮人:42名、中国人:17名、合計76名とのこと。
なんや、国際都市の割にはえらい少ないな…と思ったかもしれません。当時の吉原の娼妓数約2500人、大阪松島の3000人に比べれば、76人は中規模妓楼2〜3棟分でしょう。

行ったことがある人はわかると思いますが、天津の市街地はそれほど大きいものではありません。その中に各国の租界がひしめく過密空間でもあります。
昭和12年(1937)当時の日本租界のデータは、

■面積:1.39平方キロメートル
■人口:約36,000人(中国人:外国人=7:3)
■人口密度:26.3人/平方キロメートル

日本の行政区(市町村&政令指定都市の区)の中でいちばん小さい、大阪市浪速区の面積が4.37平方キロで69,766人(2015年国勢調査)。その約3分の1の面積に人が約半分という感じです。
その中で事実上の「遊郭」となると、数は少なくても仕方ない。

それはさておき、彼女らはいちおう「私娼」と言っても、毎週土曜日に性病検査を行なっているとされていました。日本人私娼は日本人の嘱託医師が行ない、数がもともと少ないので性病も少なかったとありますが、朝鮮人&中国人は「日本人と衛生概念が全然違う」「下層社会を相手にしている」せいか、「多クハ有毒者ト云フテモ過言ニ非ズ」とぶった斬っています。

また、芸妓についても書かれています。

日本人が107名、中国人が4〜500名となっていますが、中国人芸妓は「芸妓ト称スルモ殆ド娼妓ト同一ノ稼業ヲ為ス」とほぼ私娼と同じ扱い。しかし、定期健診は「諸事情」によりほとんど行われておらず、「公衆衛生上頗ル危険ナ状態ニ在リ」としています。

各国の租界の事情も、それぞれの領事によって簡単に報告されていますが、
吉田茂の総括は、「各国租界亦大同小異ニシテ到ル処ニ『魔窟』アリ売笑婦跋扈シ」という状態でした。

当時の天津の売春婦の国別統計もあります。

第1位 中国人:5,947人

第2位 ロシア人:692人

第3位 日本人:59人 (朝鮮人含む)

第4位 アメリカ人:25人

第5位 イギリス人:20人

第6位 フランス人:1人

(天津市の全地域の統計)

中国人はさておき、次に多いのはロシア人。これはなぜかというと、1917年にロシア革命が始まり、吉田茂の報告によると、ハルピン→瀋陽を経て天津まで流れてきた亡命ロシア人とのこと。
着のみ着のままで逃げてきたロシア人たちは、とりあえず食うために身体を売るという事情があったようで、これは戦後すぐの日本の事情とも重なります。
敗戦後の日本も、特に大陸から引き揚げてきた人たちは、真っ先に食うために引揚者が集まって一つの組織売春を行なった形跡があります。東京新宿が戦後すぐ、売春街天国と化していましたが、それは大陸からなどの引揚者が作った青線という売春窟を作ったから。
これも、悲しいけどこれって戦争なのよね、ではなく歴史なのよね。

吉田茂の手抜き報告(?)のせいか、今回の収穫はこれだけですが、これだけでも大きな歴史の中の1ページを垣間見れたと思います。こうして書いてみると、海外の遊郭跡も訪ねてみたくなってきた気分。

しかし、それにしても…

吉田茂って字が汚いというかクセがあるというか、たった6ページやのに解読するのにめちゃ時間かかったやないかい(笑

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