焼津の赤線(静岡県焼津市)ー嗚呼、銀水楼|おいらんだ国酔夢譚|

静岡県焼津の赤線・遊郭跡名古屋・東海地方の遊郭・赤線跡

焼津とくれば、真っ先に思いつくのが遠洋漁業の街というイメージ。焼津という漢字を見ると「焼」という文字の存在感がなくなってしまうほど、潮の香りを感じる街であります。実際、焼津市のイメージソング名は「今、潮騒のまちへ…」であり、やはり海辺の漁業の町というイメージを前面に出しています。

焼津の港

マグロとカツオの漁獲高は日本一であり、ここに住むと毎日マグロが食えそうな魚好きにとってはこの世の極楽。魚介類大好きな私も、老後は魚市場がある海辺の街に移住して毎日魚を食って死にたいなと思うことがあります。

漁業の町焼津には、そのイメージに反するようなものが存在します。それは天然温泉。

焼津駅前の温泉の足湯

駅前には足湯があり、

焼津の天然温泉

街中には格安天然温泉まであります。焼津に温泉のイメージなんて全くなかったので、駅前に足湯があるのにはおっかなびっくりでした。

温泉は地下1,500m以上から湧き出たもので、港町らしく塩分多めなのが特徴です。富士山ビューを備えたホテルもあり、富士山を眺めながら温泉に浸る贅沢も堪能できます。
我が故郷大阪では、海水を沸かした「潮湯」なるものが太古の昔からあり、戦前には専用の潮湯スパがあったほど。私が幼いころ(昭和50年代)には近所に潮湯がいくつかあり、汗疹あせもくらいなら潮湯入って来いと薬代ならぬ銭湯代を渡されたものでした。しかも、子供の汗疹くらいなら実際に潮湯に浸かったら治ったり。
潮湯は海岸の埋め立てや銭湯の閉業などで数が少なくなり、現在は堺の湊潮湯のみとなっています。

塩化物たっぷりの焼津の温泉の効能に「皮膚病」が入っていないのが不思議ですが、おそらく潮湯と似たような効果があると思います。

で、こんなところに遊郭・赤線があるのか?
と考えてしまいますが、以前石巻編でも述べたとおり、「こんなところ」だからこそあるのです。「こんなところ」とは漁業の町ということ。漁師を多く抱える漁港だからこその事情が、遊郭・赤線がある伏線となっていたりします。

今回は、漁業の街にあった赤線のお話。

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焼津の赤線

焼津の遊里史を調べるために、手始めに戦前の遊郭を調べてみるかと『全国遊廓案内』を開いてみました。すると…

筆者
筆者

あれ?ない?

焼津に遊郭がない…これは予想外でした。山形県天童のように『全国遊廓案内』に記載されていない遊郭も実際にあるので、載っていないだけと思っていました。が、静岡県の遊郭・赤線を調べた書物にも、

「いかがわしい飲み屋などは何軒かあったが遊廓はなかった」

『静岡県の赤線を歩く』(八木富美夫氏著)

と記載されているので、やはりなかったのでしょう。

しかし、私は納得いかない。ないというのは、漁業の町、漁師たちが抱える、陸の生き物にはわからない特殊な事情を考えるとちょっとあり得ない。その理由は後述しますが、曖昧屋、つまり私娼窟はあったのではないかと。上述の書にも「いかがわしい飲み屋」はあったとあるし。

焼津の赤線は、地元の資料によると「特殊飲食店」。要は飲み屋や小料理屋の形態で営業していたと推定されます。赤線現役時の焼津市商工名鑑には、「海望荘、麗月、ハルナ、広月、三楽」など11件の特殊飲食店の名前がズラリ。
地元の古老の話によると、船が漁から帰ってきた日となると、漁師たちが目を血走らせ札束を握りしめながら、

お、女…

と駆け寄ってきたそうです。

いったん出港すると、途中で海外の港に寄港することもあるものの、基本は1~2ケ月くらい海の上となります。
我々にはわからない感覚ですが、何か月も海の上にいると土と共に「女」が非常に恋しくなり、気が狂いそうなくらいに欲するそうです。「オナ禁」というものがありますが、あれをやってみるとわかります、若い時は定期的に出さないと精神的にも参るものだと。
俗に「ダッチワイフ」と呼ばれるものがあります。元は熱帯のインドネシアでも涼しく寝られるように竹で編まれた抱き枕だそうですが、それがいつからか、性的な大人のおもちゃへ。そのきっかけは漁業の人たちの精神衛生のためだとまことしやかに言われているのは、そういう因果関係があるかもしれません。

それは漁師だけではなく、大日本帝国海軍も同じ。海上で数ケ月も続く演習の帰り、寄港地の陸地が見えると、

「三本足」で立ってたよwww

と述べていた海軍中佐がおりました。

それだけに、陸が見えると乗員の鼻息が荒くなる。そこでさっさと寄港させ部下を陸に揚げ、遊郭やカフェーで女と遊ばせる…これも艦長の腕次第。上陸よしの態勢になったのに上官の顔色を見て上陸を遅らせたり、操艦がへたくそでさっさと所定の位置に着艦できない艦長がいると、士気が著しく下がりました。

(先の戦争中は)そんなふねから沈んでいったわい

第二次大戦中、伝説の不沈艦として「神」と呼ばれた駆逐艦『雪風』を「神」たらしめた名艦長、寺内正道中佐の言葉です。
『雪風』も元来は練度が低い艦だったのですが、

歴史家
歴史家

練度上げた秘訣ってあったんですか?

艦長
艦長

みっちり訓練し、訓練が終わったらさっさと上陸させる。

と述べたのは、寺内の二代前の艦長飛田健二郎中佐の言。
そんな飛田艦長、陸が眼前に迫り目が血走っている『雪風』の乗員に対し、こんな号令をかけました。

飛田中佐
飛田中佐

総員、”要所要所”洗え!

艦長が発した命令はすべて文字化され、「公文書」として記録に残ります。それを見た上官の小沢治三郎司令1

小沢
小沢

なんだこりゃ!

こんな号令、海軍の規則に載っとらんぞwww

飛田
飛田

でも司令、洗っておかないと女に失礼じゃないですかwww

小沢
小沢

せやなwww

大日本帝国海軍は、「ユーモアを持て」と「新入社員心得」に書いた日本初の組織ですが、こちらは年代もののウイスキーの味がするような、円熟した大人にしかわからない海軍のユーモアのお話。

ちなみに、「3本足」など帝国海軍の話を元船員の知り合いにしたら、

それめっちゃわかるwww

ゲラゲラ笑って同意していました。わかるんかい!

閑話休題。

焼津の赤線地帯は、焼津駅から北東の方向、瀬戸川に沿った一角にありました。

1946年航空写真

昭和21年(1946)の航空写真では、赤線があった場所には家一軒存在しません。空襲で焼き尽くされたということではないはずなので、戦後に形成された特飲街だったのでしょう。

焼津の赤線は、そこに鎮座する弁天さん(宗像神社)から「弁天」と呼ばれていたそうです。焼津に来る海の男たちにとって、「焼津の弁天」は女の香りがする特別な場所だったことでしょう。

関西では、遊郭の遊女や現在の風俗のおねーさんをみやび「姫」ということがあります。国語辞典にも江戸時代から上方では遊女のことをそう呼んでいたとあり、江戸でいう「女郎」に相当します。私もそう呼ぶことがありますが、まさか関西独特の表現(ある意味関西弁)だったとは。
それはさておき、弁天様は女性、もしかしてここで働く娼婦たちも海の男たちから隠語で「弁天様」と呼ばれていたかもしれませんね。

お店の数23軒、そこで働く女も150名以上おり海の男たちで連日にぎわったという焼津の赤線は、昭和33年4月の売防法完全施行につきなくなったのは、他の赤線と同じです。
が、海の男のフラストレーションを解消させるのは「臭いものには蓋をしろ」では解決しません。

筆者
筆者

これ、闇に潜っただけやろな…

何の証拠もないですが、そう予測しました。そして、その予測は当たっていたようです。

売春防止法が日本法制史上とんでもないレベルのザル法だったというのは、いくつかのブログで述べていますが、その穴をくぐり抜け赤線廃止跡もしたたかに営業していた様子が、梶山季之の書物に描かれています。
その中に焼津のその後も含まれていました。23軒あった店は売防法完全施行で14軒が旅館に、2軒がカフェーに、残り7軒は「様子見」とのこと。旅館に転業した元業者も客数が激減して青息吐息の様子でした。最初は漁師などが

客

と、泊めさせてくれ…

血走った目をして飛び込んできたものの、女の子はもういませんと対応すると、元々気性が荒い海の男のこと、人によってはケンカになっていました。

しかし、そんな彼らも次第に元赤線に寄りつかなくなりました。漁師たちも観念して「我慢」した?いえ、人間の三大原始欲は売春窟廃止ごときでなくなるわけがありません。

いつのときからか、赤線がなくなった後なことは確かですが、港付近に「屋台」が出没、その数は多いときには4〜50軒ほどありました。
夜ともなると道はギッシリと屋台で埋まるのですが、この屋台、他のと比べてどこかおかしい。その屋台には、少なくても3名、多いところでは7〜8名の女がいるのです。

ある漁師が屋台でお酒を飲んで店の女の子とおしゃべりをしていました。明らかに男が女を口説いている様子。

女

もう、あたしは仕事中よ

と言いながらもまんざらでもない様子で、よく見ると人差し指を一本立てている。男はそれでOKとばかりに頷いている。
これで商談成立。

女

ネエさん、ちょっとお客さんと散歩してきま〜す♥

さっきの「お仕事中」はどこへやら、ネエさんと呼ばれた人にお金を渡し旅館へドボン。こういうシステムが成立していました。これ、屋台を喫茶店に変えたら大阪の釜ヶ崎の青線と全く同じですな。

しかし、旅館へドボンといっても、元赤線の転業旅館には向かわないようでした。なぜなら元赤線は廃止後も警察にマークされており、ヘタにお泊まりすると警察に尋問され「痛い腹を探られる」から。そのせいで転業旅館も大赤字、「アルバイト料亭」なんて上手いことやって継続してる大阪の元赤線に「視察」しましょうかしらん…という話で、梶山の筆は止まっていました。

NEXT:現在の赤線跡はどうなっているのか?

  1. 後に中将。空母機動艦隊の発案者としてアメリカでも戦略眼を持つ名将として名高い。
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