宇都宮の遊里跡を歩く
実は本来、宇都宮の遊里を調べるつもりは微塵のかけらもありませんでした。
本来の予定がドタキャン(臨時休館)になってしまい、
しゃーない、餃子でも食いに行くか…
と宇都宮へ来る羽目に。
さて餃子は食った。しかし、まだ時間が余る。仕方ない、遊郭赤線のこと調べるか…と県立図書館へ。
それでも、時間的に資料だけ集めて今回はさいならやろな…のはずが、今回は県立図書館のおねーさんが大当たり。嫁…ではなく秘書として雇用契約を結びたいほどの有能っぷりでした。
おねーさんの働きによって、本来は小数時間かかろうかという資料探しが、約1時間半(コピー時間含む)で終了。次回でええやろと思っていた探索の時間が産出されてしまい、今回に至ったわけであります。
中河原町&剣宮町
まずは、上の地図の①へ。
宇都宮の赤線(特飲街)は、この道の奥を入ったところにありました。住宅地図片手に歩いていると、赤線のエリアが手に取るようにわかります。
予習がてらに他の方のブログを見ていると、けっこう残っているかなと期待大だったのですが、旧赤線区域を歩いていてもこれという建物はありません。取り壊されてしまったのかしらん。
しかし、なかったというわけではありません。
一つの家に扉が二つ…そして2階のバルコニーの形…テンプレ通りの赤線カフェー建築です。こちらは「安積屋」という屋号の店だったようです。
そしてその対面には…
「台中軒」と書かれた中華・台湾料理のお店です。いかにも中華を主張するよう極彩色に塗られた円柱の濃い赤が特徴の建物です。
最近、中国人による「偽台湾料理」、つまり「台湾料理」と看板に書かれているのに中身は台湾人ではなく中国人スタッフの、ごくふつうの中華料理屋-看板に偽りあり-が地方を中心に出回っています。
今回は本題から外れるので詳細は書きませんが、ここもその一つか!?…と構えたものの、住宅地図を見てみると赤線現役時から存在した老舗。もしかして、日本一古い「偽台湾料理店」か!?(笑
このときは、ただ古い中華料理屋やなと写真を撮っただけでした。探索を終え、宇都宮からの新幹線の中で資料内の「特殊喫茶」を順に見ていたところ…
なななな、なんですとぉぉぉぉぉぉ!!!
あの台中軒が「特殊喫茶」だったという2021年始まって以来の衝撃。場所を当時の地図で確認しても間違いない。目からうろこどころか、新幹線の中で目自体を落っことしてしまいました。
経営者は朱某とあります。看板に「台湾料理」とありますが、台湾史家(いちおうこれでも主専攻は台湾史なので…)から見ると、台湾に朱姓は、まあいないこともないけれども…というくらいレア。台湾では陳・林・黄などの姓が多く、朱姓は中国の上海や江蘇省、浙江省に多い姓です。
ただの推定ですが、おそらく朱某は中国人、あるいは国共内戦で中国→台湾へ逃げた、台湾史の歴史用語でいう「外省人」と推定できます。
おっと、これ以上語ってしまうと本題から外れるので、台湾や香港などの姓については以下のブログをどうぞ。
何にしても、外国人経営の赤線業者は初見です。
あまりに意外すぎて呆然としてしまうことを、「狐につままれる」と言いますが、台中軒はまさに狐に化かされているような、いやいやこれは夢だ、夢に違いないという感覚です。
宇都宮の遊郭赤線記事は、ググっただけでも何軒もあります。それだけこの「台中軒」を目にした人は多いはず。しかし、ここは全員ノーマーク。そりゃ見た目は、どこをどっからどう見ても「ただの中華料理屋」だから仕方ない。
それを知ってみると、この風貌は…円柱がどことなく赤線カフェー建築に見えてきた…人間の脳とはかくも勝手なものなのです(笑
旧中河原町の赤線跡のある区画には、なにやら怪しい建物が密集している区域があります。こちらは一杯飲み屋くらいしか使い道がなさそうな狭い区画に2階部分…昭和29年(1954)の地図によると、こちらは特殊喫茶。しかも屋号は「さゆり」。
別の資料でも住所と場所と屋号が一致。ビンゴですな。
街角にあった古びたメニュー表。壁に掲げられた建物は大衆食堂だったのでしょう。そばが¥230〜¥300、カレーや親子丼が¥450。いつの時代のだろうか。
こちらも、玄関がいくつもある意味深な作り…遊郭赤線跡探偵の場数をこなすと、玄関がいくつもある、しかも道路の角に「も」ある…ほぼクロでしょう。
しかし、昭和29年(1954)の地図によると、ここは民家になっています。つまりシロ…。しかし、地図掲載前にはすでに転業した店という可能性もあり、ジャッジはもう少し精査が必要なようです。
同じ理由でこちらもそう。宇都宮の遊郭・赤線関係のネット情報には必ず出てくる建物で、玄関が二つ…状況証拠は真っ黒黒助なのですが、こちらも地図ではシロ。私の経験上、これは絶対にクロなんですけどね…なかなか悩ましい。
つぎは、中河原町の隣、旧剣宮町を巡ります。
こんな細い路地にも、かつては店が何軒も立ち並んでいたそうですが、現在はこのように見る影もありません。が、その奥に「宝石」が眠っていました。
現在も当時のまま残っていると思われる建物(旅館 千歳)です。玄関と窓の数から、「特殊喫茶」の中ではかなり大きい部類だったと思われます。
当時の住宅地図にも、同じ場所に「千とせ(千歳)」と記載されています。ここは売春防止法完全施行後、旅館に転業したのでしょう。
なお、実際い泊まった人のレポートによると、記憶は曖昧ながら四畳半の部屋が5部屋、そして六畳が2部屋とのこと。以前突入した貝塚遊郭跡にあるカフェー建築の2階(元接待婦の仕事部屋)も4~6畳の部屋がそれくらいの数だったので、「テンプレ通り」といったところ。
今度日光に行く時、ダメ元でここで泊まってみようかと思います。そろそろただのホテルにゃ泊まり飽きた(笑
本丸花の街(旭町1丁目)
住所別で見れば宇都宮、いや北関東最大規模の赤線だった旭町。中河原町でダウトも含めていくつか残っていたので、こちらもかなり期待大。
戦後の一時期、この道の両脇には「特殊喫茶」が何軒も軒を連ね、夜になると赤にピンクのネオンが輝き、男と女の駆け引きが行われていたのでしょう。
しかし、現在その残滓は全くありません。時間の都合でチョー斜め読みで他の方のブログを拝見すると、いくつか残っていそうだったのですが…結論から申し上げて旭町には往年の建物は残っていませんでした。静かな住宅街になっており、聞こえるのは接待婦の嬌声ではなく子供の遊ぶ声でした。
しかし、後日改めて訪れてみると、明らかに見逃していたものがいくつか…。
『赤線跡を歩く』(木村聡著)にも掲載されていたこれ、実は前回は見つからず、
ああ、壊されてもうないんやな…
と脳内で勝手に自己解決していました。それが間違いだったことに気づき、改めて探偵をやり直すとあっけなく発見。こんなのを見逃すとは、前回は疲れてたんや、そうに違いない、うん。
赤線現役当時の地図を見ると、ここは「梅月」という屋号の店で、昭和28年(1953)の商工名鑑の「特殊喫茶」一覧にも記載されています。表札を見てみると、名鑑の家主と表札の主まで一致。間違いありません。
写真でなく現物を見てみると、同じ家に玄関が二つある典型的な赤線カフェー建築なのはもちろん、その威容に圧倒されます。残念ながら既に主はいなくなったのか、明らかに家には手入れの跡はなく、荒れるに任されているようです。
そしてもう一つ。
住宅街に孤島のように存在する旅館。実はここにもかつては赤線の店があり、現存はしていないものの、ここの両隣も昔は赤線の店でした。屋号も「新」を抜けば当時のままです。
建物自体は違うと思いますが、当時の屋号が残るここも、ある種の残滓と言えそうです。
「本丸花の街」が宇都宮城の裏地にあたる場所にあったことは上述しましたが、城趾に向かう道は上りの道になっています。赤い灯華やかな頃には、向かって左手にも店がずらりと並んでいました。
そして歩いているうちに、ある直感が頭をよぎりました。
「あの写真」の場所?
「あの写真」とは、この写真です。
なにせ70年前の新聞の写真なので、解像度は絶望的ではあります。が、道がなんとなく下り坂に感じませんか?
しかも、「本丸花の街」という看板が掲げられているということは、写真の場所は赤線の入口という可能性が高い。赤線地帯の真ん中にこんな看板作っても、
んなもんわかっとるわい(笑
と突っ込まれるだけですからね。
この写真の先は宇都宮城…ここの道筋にも店が並んでいたので、赤線の入口としてはここもおそらくその一つだったでしょう。
こうして比べてみると、なんとなく似てません?
少なくても私の直感は、ここが新聞の写真の位置だと教えてくれていました。本当にそこかは不明ではありますが。
コメント
宇都宮では、「幸楽」の横にあるこの建物、について。
見ていただきたいのが、宇都宮近辺の大谷石文化を紹介する以下のサイトです。
https://oya-official.jp/bunka/culturalassets/watanabeke/
特にURLで表示される渡邊家住宅の蔵ですが、よく似ていると思います。特に破風の形状が共通しており、その建物が住宅や商店ではなく蔵として建設されたものであることを示しております。大谷石サイトを見ていただければ、あちらに掲載されているその他の蔵の装飾も、亀廓にある建物と共通するところが見て取れると思います。宇都宮近辺の大谷石製の蔵では、特に富豪が建てさせたものは装飾が派手であるようで、それらを遊郭・カフェーに由来する建物を示す記号とみることは出来ないように思われます。
また、サイトにお示しいただいている航空写真を見ると、この建物は西に隣接する建物と接続されており、さらにこの区画にある瓦葺きの建物はすべて接続されているように見えます。消失したという蔵の北(前)にある赤い屋根の建物はひとまず置いておいて、西に何があるかといえば、幸楽貸席となり、この建物はそれと接続されていることになります。同時に、このページに掲載なさっている古地図を見ると、幸楽貸席の北に隣接する施設は幸楽質店となっております。航空写真を見る限り、幸楽質店と幸楽貸席の間に区切りはなく、おそらく幸楽グループ系列店として一体で運用されている建物群であったと思われます。現状の外観から、ある時期から「この建物」は住宅として使用されていたのは明らかですが、本来は蔵であり、幸楽質店単独で質草を保管する用途で使用されていたか、それに加えて貸席の売上金も保管する用途で使用されていたと推定されます。カジノの中に貸金業があるのはよく知られた事実でありますが、遊郭の中に質屋があるという話は寡聞にして聞いたことがなく、なるほどニーズはあると思われますので、むしろ非常に興味深い事例ではないかと思われます。問題は遊郭時代に福和楼のあったところにあるカフェー建築風建物ですが、昭和22年の航空写真では切り妻屋根になっているため、その後に建て替えられて現状の建物になったと思われます。同時に、南に位置する現存の幸楽貸席までの間に顧客用の立派なしつらえの入口が見当たらないないため、この建物が貸席の入口であったのかもしれません。そうであれば、蔵の前にあった失われた赤い屋根の建物には、質店の接客部門が置かれていたのではないでしょうか。この区画に限っても、瓦葺きの建物と赤い屋根の建物がどう違うのか、興味がわいてきました。
[…] 宇都宮亀廓&中河原の赤線|おいらんだ国酔夢譚 栃木県宇都宮散歩・・・「宝湯」と赤線跡「中河原と新地(亀遊郭)」 栃木県・宇都宮市『餃子の街に眠る龍宮城』 宇都宮の遊郭跡・赤線跡・花街跡を歩く 亀郭 -栃木県- | KURUWA.PHOTO|遊郭・遊廓・赤線・カフェー 【栃木県】宇都宮市「江野町花街」「中河原カフェー街」「新地遊廓」201505 宇都宮の遊郭跡を散歩|宇都宮の遊郭跡をぶらり散歩 宇都宮の遊郭史を紐解くため「中河原・亀遊郭跡」を練り歩いた! […]