鶴岡の遊郭跡を歩く
遊里跡探偵は、鶴岡駅からスタートとなります。
いつもなら、駅から遊里跡まで歩くことがほとんどです。その昔、遊客はどのような経路で行っていたのか、彼らの眼にはどのような風景が移っていたのだろう…遊客視点で歩いてみるとあら不思議、「遊郭・赤線跡をゆく」がブラタモリに変化するのです。
しかし!
今回は間髪入れず駅前でレンタサイクルを借りることにしました。鶴岡は無料なので遠慮なく。 その理由は、駅から遊里跡の距離を見れば明らか。
めちゃくちゃ遠いのです(笑
地図を見ても行く気が失せるような距離なのに、実際に行ってみると脳内シミュレーションよりはるかに遠い。今までいろんな遊里跡に行きましたが、これは最大級の遠さ。
鳥取県の米子花園町もたいがい遠かったですが、感覚的な遠さは鶴岡の方が全然上でした。 自転車で途方にくれたほどなので、昔の遊客はどうやって行ってたんだろうか。
『全国遊廓案内』には交通手段も書かれていることが多いのですが、鶴岡に関しては記載なし。筆者が現地に行ってないか、ガチで交通手段がなかったかのどちらかでしょうね…。
漕ぐこと数十分、やっと双葉町に到着。バス停があるのでバスもありますが、本数が少ないのでアテにはできません。
ところで、双葉町ができた時もあまりに郊外すぎて道がほとんどなく、七日町と双葉町を結ぶ道路、通称「遊廓道路」を作ろうということになりました。
県が貸座敷業者を言いくるめ、業者が費用を負担するということで話がついたものの、その道筋で鶴岡市会が揉めに揉めます。
遊郭は「性欲の排泄場」として蔑まされつつも、大量の税金を納める金の卵でした。女性の人権ガーというフィルタを外すと、行政としてはこんな”優良納税者”を手放すわけにはいかない。 さらに、遊里には人が集まります。廓の周囲はもちろん、そこに至る道にも「おこぼれ」がもらえるチャンス。遊郭移転は絶好の「町おこし」でもあったのです。
そんな事情もあり、たかが道一本で議会が荒れに荒れてしまいました。結果的には出来たのですが、なんだか消化不良的な結果になったようです。 その「遊郭道路」ですが、現在も残っています。
旧廓だった七日町から新遊郭へほぼまっすぐ伸びる一本の道…今はすっかり住宅地になって周囲に道が出来ていますが、「遊郭道路」の不自然なほどのまっすぐ感はいまだ健在です。
「遊郭道路」は「三浦屋」の前から始まり
双葉町に向けてまっすぐ南へ伸びていきます。思ったより狭いですが、実際に通ってみると本当に「ほぼまっすぐ」。道の突き当たりには遊郭が…という地理になっています。
遊郭・赤線が現役の頃は、遊里へ伸びる唯一の小路を、オスどもが1円札をわしづかみにし、鼻息を荒くして南行していた風景が浮かびます。
現在の双葉町は他の遊里跡の例に漏れず、現在は静かな住宅街になっています。古参の人以外は、ここがかつて不夜城と呼ばれ女の嬌声が飛び交った歓楽街だったことなど信じられないでしょう。 周囲と比較して不自然なほどの広い道が、当時の隆盛ぶりを偲ばせます。
そして、こうして新旧の地図を比較しても、遊郭はなくなっても道筋にその残滓を残していることがわかります。遊郭というのはこういう道筋から見つけることも多いのです。
双葉町には、昔の妓楼の跡が現在も残っています。本体もさることながら、塀にも昔の大楼ぶりがわかる建物です。
昭和23年(1948)の航空写真にも同じ場所に建物が写っており、建物の経年ぶりから見るに当時の建物がそのまま残っていると思われます。 赤線廃止後は旅館に転業したらしく、昭和30年代後半の住宅地図にも「旅館」として掲載されています。
なお、この建物の隣にも数年前まで旧妓楼が残っていたそうですが、現在は解体されています。
古い蔵が町内に残っています(逆光ですみません)。見るからにかなりの年数のものです。
すでに述べたとおり、双葉町は昭和初期に開発された新地、それまでは家一軒建っていなかった荒蕪地でした。よって「もっとも古い」建物でも昭和一ケタ築となります。
こちらも見た目は非常に古そうですが、昭和初期以降のものでこちらも戦後すぐの航空写真に写っています。
蔵の横に眼を移すと、なにやら意味深な石柱が一対、何か物言い気に立っています。ここに家が建っていたのは航空写真から明らかなので、蔵はその家の生き残りかもしれません。
遊郭跡の東南隅には、「宗吾神社」が鎮座しています。
遊郭にある神社とくればお稲荷さんですが、ここは「宗吾神社」という聞いたこともないもの。何か理由があるのかと思いましたが、これにはちょっとした物語が秘められていました。
『目で見る鶴岡百年中巻 昭和戦前編』という本によると、双葉町への移転を渋っていた貸座敷の中で、早々に移転を決めた一つに小松楼の楼主、金野小治がいました。
金野は三流妓楼の楼主でしたが、さっさと移転を決めたのを良いことに大楼を建てました。その姿は「軍艦のようだった」と言います。
彼は個人的に宗吾神社を自邸に祀っており、それを遊郭や町の守護神にしようと土地を寄付し、神社を建立しました。そして現在まで現地の氏神様として祀られています。
写真のとおり、私の訪問時には中に入れなかったのですが、中には寄進者の碑もあり、金野の他に「若喜楼」の名前もあります。大正11年当時の貸座敷リストに「若木楼」があり、双葉町に移った妓楼の一つということがわかります。
鶴岡の遊郭の話は、まだ昔の妓楼が残っていたことに安心したところでこれにて大団円。また次のお話まで。
山形県の遊郭記事はこちらもどうぞ!
・『鶴岡市史 下巻』
・『目で見る鶴岡百年中巻 昭和戦前篇』
・『鶴岡の今昔』
・『庄内新聞』昭和33年1~3月
・『山形県警察史 上巻 下巻』
・『図説 鶴岡のあゆみ』鶴岡市史編纂会/編
コメント
鶴岡市の著名人には、砂田鉄こと「鉄門海上人」もおります。少なからず鶴岡市の遊廓とも関わりがございます。詳しくは、Google検索されるか、コミック「鉄門海上人伝 愛朽つるとも」を参照。本年は、上人のお衣替えの年。12年ぶりに注連寺を訪問したいところですがコロナ終息はまだ先のようです。
[…] 双葉町遊郭(山形県鶴岡市)|おいらんだ国酔夢譚 鶴岡(七日町遊廓跡)遊廓街の面影を残した料亭の建物 鶴岡(七日町観音堂)お堂の壁に「七日町貸座敷華やかなりし頃の家並み」が貼ってあります 鶴岡遊廓跡と街並(鶴岡駅~七日町)、鶴岡ホテル、割烹三浦屋跡など 鶴岡遊廓跡と街並(双葉町)、宗吾神社など […]