東京都葛飾区にあった赤線 立石特飲街|その成立と赤線跡を歩く

東京都葛飾区立石のカフェー建築が残る赤線カフェー街。 遊郭・赤線跡をゆく

戦後の混乱がやっと落ち着きつつあった昭和20年後半、東京には15~6ヶ所の赤線が存在していたといいます。
青線や街娼のたまり場などを入れると「東京中が赤線だった」と当時の新聞記者が嘆いたように、掃いて捨てるほど存在していたのでしょう。

本記事では、そんな東京の赤線の一つ、東京都の葛飾区にあった赤線地帯、立石の紹介を。

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立石特殊飲食店街(赤線)の場所

立石の赤線地帯は、京成電鉄押上線「京成立石駅」のほぼ目の前にありました。

東京都葛飾区立石にあった赤線の場所

立石の旧赤線のはだいたいこの区域です。
立石駅の北口の北部、商店街の道筋にある「立石駅前交番」の裏近辺が赤線地域と昔の資料にあります。

立石赤線の歴史|その設立の経緯

立石の赤線は、3月10日の東京大空襲で焼け出された亀戸私娼窟の業者が、新天地を求めて立石に集まり、焼け残った家を改造してそこで商売を始めた。そしてRAAを通して赤線になった。

これが定説になっています。

『赤線跡を歩く』にも、この説支持の前提で立石の歴史を記述し、『全国女性街ガイド』の原型とも言える『赤線涼談』という雑誌記事(著者は同じ)の注釈にも、「終戦の年の6月に」という記述があります。
というわけで、昭和20年6月設立は間違いない…。

ところが、こんな資料もあったりします。

東京都接待業組合連合会というのは、戦時中新しくできた慰安施設の業者の集まりであった。

東京近郊の軍需工場にかり集められた若い徴用工の性欲のためにと、軍部の命で、警視庁が立川、蒲田、亀有、立石、新小岩の工場地帯に新設させた慰安所である。

当局はこれを産業戦士慰安所と呼んだ。

『国策慰安婦をめぐる占領下秘史―敗者の贈り物

いつの時期かの記述はないですが、「戦争中」に立石に「慰安所」が出来ていたのか?
とは言っても、戦争中の「立石慰安所」と赤線につながるデータは存在しません。よってこれはイコールとは一概に言えないわけで、「慰安所」とやらが立石のどこにあったかということが一番の課題になります。
まあ、「慰安所」が「昭和20年6月に出来て」なら話の辻褄は合います。
せやけど、上述の『赤線涼談』は「軍人のための慰安施設」と書かれており、「東京近郊の軍需工場にかり集められた若い徴用工」のための「産業戦士慰安所」と矛盾が生まれます。
ちなみに、戦前からここに住んでいるという古老によると、立石の赤線はやはり「終戦直前」にできたらしく、それまではそんなもんはなかったと。そこは「謎」としておきましょう。

そして終戦、そのすぐに立石に闇市ができたそうで、それにつれて人も立石に集まってきます。人の集まるところ歓楽街あり、そして赤線あり。
立石の赤線はRAA、つまりアメリカの兵隊用の慰安施設となったのですが、とは言っても「バラックに毛が生えた程度」。
RAAがオフ・リミッツ、つまり「使用禁止」になってそのまま赤線へという流れは他の赤線と同じですが、立石は『モダン日本』によると「新興気分溢れる」雰囲気があったと書かれてます。戦後型の赤線のまだ作られて間もない、出来てすぐの新築マンションのような気分を味わえたようです。
また、「新地の案内灯が立って案内してくれる」という記述があり、駅前に「赤線はこちら♪」って案内があったのでしょう。果たして案内灯の色は何色だったのか、そこが気になります(笑

そして、『全国女性街ガイド』の記述に符号するように、「サービス自慢」と書かれています。
立石は新興の赤線、近くには鳩の街や玉の井など、知名度にかけては東京でもトップクラスの有名どころが君臨していました。新参者は老舗とは違った色、つまり差別化をアピールしなければ客が寄ってきません。古参と同じことしても、いくら需要があってもお互いの潰し合いのみ。赤線を経営学的に見るとそれは火を見るよりも明らか。
そこで、立石は細やかなサービスを持ち味にして、渡辺節でいう「捨て難い味」を武器にしたのかもしれません。

『全国女性街ガイド』は立石をこう表現しています。

「あそこは公衆便所だよ」

と痛撃する男がいるかと思えば、

「俺、意見されたヨ。工場を休んじゃいけないヨ、お弁当ならあたしがお握りつくるからさ。早く支度して出掛けなヨ…てんだ。曲がり角でふりかえると、手を振ってやがんだ。けっ、たまらねえや」

という男もいる。早い話が、銀座人種には嫌われ、浅草民族にはぴったりくるのがこのシマの持ち味。
60軒、約300名のこじんまりとしたところ。美人よりサービスを期待して捨て難い味がある。

(以下略)

『全国女性街ガイド』

巧みな表現で立石の魅力を紹介しています。

特に、

おれ、意見されたヨ。工場を休んじゃいけないヨ、お弁当ならあたしがお握りつくるからさ。早く支度して出掛けなヨ…てんだ。曲がり角でふりかえると、手を振ってやがんだ。
けっ、たまらねえや。

『全国女性街ガイド』

の記述は、渡辺氏の創作の可能性が大なものの、私ならおねーさんさんにそう諭されたら、「おにぎり作って♪」って甘えて、尻尾振りながら工場に向かいそうなほのぼのとした光景をアニメ化したいほど。
かつて、赤線経験者の半藤一利が、
「(現代のコンビニ化した風俗産業に比べ)赤線には『雅』があった」
と述べていましたが、この記述だけでもそれがわかります。
遊郭を含めた赤線も、性産業と切り捨てるのは簡単。しかし、赤線も男と女の間に血の通った、風俗や売春という言葉では片付けられない、人間と人間の温かい交流があったのだろうと。

小林亜星氏の著書にも、立石はこのように記述されています。

入口には『立石カフェー街』と書かれた、ベニヤを貼り合わせたような柱が立って居り、門構え、庭付きの、一見、山の手風の新築アパートか、ウエスタン酒場風の店が多かった。

『軒行灯の女たち』

やはり新興勢力らしい、初々しいというか新しい感を前面に出した赤線だったのでしょうか。

数字で見る立石赤線街

『全国女性街ガイド』だけではソースが貧弱なので、様々な方面の資料をあさってみた立石の女性の数の推移を見てみましょう。
こういう時、東京の赤線は便利です。残っている統計が他地方よりはるかに多い。

▲昭和21年(1946)10月:75人
※昭和23年(1948):104人(業者数41軒)
☆昭和25年(1950):110人(業者数49軒)
●昭和26年(1951)5月:130人(業者数53軒)
▲昭和27年(1952)12月:131人(業者数51軒)
▲昭和31年(1956)12月:140人(業者数54軒)
◎同年:138人(業者数53軒)
▲昭和32年(1957)12月:121人(業者数49軒)
昭和30年(1960)約300人 業者数60軒 (『全国女性街ガイド』)

●:文化毎日新聞調査の数字
☆『モダン日本 臨時増刊 艶笑版』東都歓楽地一覧早見表から抜粋
▲警視庁調査より
◎『あざみ白書』(小林亜星氏の記憶より)
※ソース不明(調査ノートに走り書きしてたのですが、ソース元を書いていませんでした…)

立石の赤線区域に変化なしとしたら、立石の女のキャパはせいぜい130人前後だと思われます。昭和27年や昭和31年のデータ、そして流しのバンドマン時代に全国の赤線を渡り歩いた小林亜星氏の記憶と比べると、『全国女性街ガイド』の数字はいささかオーバーか、ただの誤植でしょう。「300人」は「130人」の誤植ではないかと推定してみます。

立石赤線跡を歩く

今の立石駅北口の商店街です。

立石駅前商店街。赤線地帯はこの近くにあった。

今は下町の香りの濃度が濃い商店街になっていますが、この裏にかつて赤線がありました。
しかし、ドトールとサンマルクが真ん前どうしにらめっこするように建てられてお互いケンカせーへんのかいな?と思うのは、何事も競争な大阪人ならではか!?
交番の裏にある道を進んでみると、

東京葛飾区にある立石の赤線、特殊飲食店街。カフェー建築。

さっそく第一村人…ではなく第一建物発見!
当時の住宅地図などがないので、確証は持てませんが(後で裏を取ります)、建物の見た目築年数や建て方などから間違いはないと思います。

この建物の前の道を、とりあえずまっすぐそのまま、別の道に当たるまで歩いてみると。

東京葛飾区にある立石の赤線、特殊飲食店街。カフェー建築。

別の道に歩く前に、こんな建物を見つけました。
リフォームはされているものの、「元の形」を留めながら改築されている感があります。

東京葛飾区にある立石の赤線、特殊飲食店街。カフェー建築。

交差点にこんな建物も残っていました。これは『赤線跡を歩く』にも掲載されており、間違いないかと思われます。『赤線跡を歩く』とは違う角度で撮影してみると、「いかにも」という感じか!?

道を引き返した途中のT字路には、赤線時代の宝物庫のように当時の建物が残っていました。

東京葛飾区にある立石の赤線、特殊飲食店街。カフェー建築。

玄関横の小窓がアルミサッシに変わり、少し味気がなくなったものの、赤線当時の面影がよく残っています。
正面右側の窓のところが一段低くなっており、この小窓から「ちょいとお兄さん♪」と女が声を掛けていたのだろうか。

東京葛飾区にある立石の赤線、特殊飲食店街。カフェー建築。

この建物は注目すべき点があります。自動販売機のジュースの値段が100円ってことって?ちゃう!そんなん珍しくも何ともない(笑

この既に閉店して久しいと思われる二軒のスナックは、写真を見たらわかるように元は「一軒」であったことがわかります。そして…

東京葛飾区にある立石の赤線、特殊飲食店街。カフェー建築。
東京葛飾区にある立石の赤線、特殊飲食店街。カフェー建築。

建物の隅の、アールデコ調の曲線美が素晴らしいハーモニーを醸し出しています。
赤線カフェー建築の典型とも言えるこの曲線美ですが、これで驚いくにはまだ早い。

東京都葛飾区立石にあった赤線、立石赤線カフェー建築のタイル。

この円柱、タイル貼りだったのです!
上塗りされて隠れとった当時のタイルが一部剥き出しになっており、これだけ見ても店全体が様々な色のタイルが貼られた、かなり派手な建物であったことがわかります。
もしかして、上塗りを全部剥がしたら、見る者(というか一部の変わり者?)を驚かせ、同時に感動を呼ぶようなきれいなタイルが姿を現すかもしれません。
今すぐでも上塗りの部分を削ってみたい衝動にかられました。ってそんなことをしたら器物破損罪で捕まりますわな。いや、捕まっても初犯やから執行猶予はつくから前科一犯で…ってそういう問題ではない(笑

この建物の横の、ほとんど家の裏側のような細い道を通り、いや潜り抜けてと表現した方が妥当な道を抜けると。

東京葛飾区にある立石の赤線、特殊飲食店街。カフェー建築。

ここが現在の立石の飲み屋街になっているようです。この狭い通りに並んだ店のゴチャゴチャ感がまた赤線跡らしいと言えばそれっぽい。
もちろん、赤線時代にはこの通りには店がたくさん軒を並んでいたことでしょう。

一見すると、もう赤線時代の建物は…と思うところに、ひっそりと当時の建物が残っていました。

東京葛飾区にある立石の赤線、特殊飲食店街。カフェー建築。

一つの建物に3つドアがあるという赤線独特のつくりであります。
なんで一つの家にドアが3つもあるか。そして3つも必要だったのか。それは客同士が玄関でばったり鉢合わせることがないように配慮されていたからなのです。おそらく入口専用、出口専用と片道のドアやったと思われます。

とにかく道が狭すぎて、角度的にどう写しても「2つ」しか写せなかったのですが、確かにこの建物、ドアが3つ、均等な間隔で設置されています。

私も数々の遊廓・赤線跡を歩きましたが、このような、”いかにも”赤線臭い建物に出くわしたのは久しぶりです。昔はところどころに、それこそ吐き捨てるようにあったのでしょうが、赤線が消えてもう60年以上経った21世紀の現在、現存する建物は非常に少なくなっています。都会化が現在進行形で進むメガロポリス東京の片隅で生き残る、最後とも言える生き証人です。

東京葛飾区にある立石の赤線、特殊飲食店街。カフェー建築。

ベランダの形も、自己主張は控えつつもやっぱし自己主張したい、というようなツンデレの女の子のような洋式です。

立石の赤線跡、東京の下町に残る男と女の交渉の跡。今でもその面影は、ほとんど忘れ去られつつあるものの、確実に点々と残っていました。そして、あまり期待してなかった分、意外に建物が残っとってまだまだここは「健在」ということがわかりました。

が、現実はかくも厳しい。この立石にも「死の宣告」がやって参りました。

立石旧特飲街、消滅へのカウントダウン

赤線当時の建物が未だ残る立石ですが、どうやら「ご臨終」の日々が近づいている模様です。

立石再開発葛飾区

立石駅前が再開発されるという計画があり、再開発は「北口から手を付け」、つまり赤線があった地区から壊されていくようで、2021年より実行とのことです。
昨今のコロナ騒動で計画が凍結されている可能性もありますが、すでに一部が着手されているかもしれません。
既に葛飾区により「死の宣告」を受けている立石の赤線跡、見に行くなら今のうちかもしれな…いや、今のうちです。
開発をやめろとは到底言えません。しかも遊郭・赤線は黒歴史でもあるため、保存どころか積極的に消されていく運命にあります。我々にできることは、その最期の姿を写真や映像に残し、そこに「赤線があった」歴史を文字で残すこと。それさえ間に合えばOKではなかろうか。私の個人的な意見ではあります。

👉東京の他の遊廓・赤線の記事はこちらをどうぞ!

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