武蔵新田の赤線とは
今回の主役である東京都大田区武蔵新田は、東急多摩川線が良い意味で都会のローカル線のようにのんびりした路線のせいもあってか、武蔵新田は東京都、それも23区内のはずなのに都会の喧騒から離れた下町です。下町だけに、庶民的で人間のにおいがムンムンと立ちこめ、人気ゼロの大自然より人間臭い町中が好きな私はホッとする場所でもあります。
昭和20年代、そんな下町に赤線が存在していました。こんなとこに赤線があったのかと、この地域の現在を知っている人ほどいぶかしんでしまいそうですが、本当にあったのです。
武蔵新田の前身は、羽田空港近くにあった穴守の遊里でした。
その穴守も、ルーツをたどってみると深川にあった洲崎遊郭。洲崎は昭和18年(1943)、海軍の命令で妓楼が軍需工場の工員の寮に転用され解散、一部の業者が穴守に移転し新遊里を形成しました。が、そこも羽田飛行場の拡張で立ち退き命令を食らい、その代わりにと昭和20年7月に移動したのが武蔵新田という数奇な歴史を歩みました。
ここは、軍需工場で働く工員の「慰安」のために作られ、最初は元々そこにあったアパート1棟、女性30人程度でスタート。仕事帰りの工員で毎日満員御礼だったと伝えられており、拡張計画もあったそうですがそのまま終戦。
戦争中は食糧も乏しく、食うのが精いっぱいで女を抱くなんて二の次三の次だと思っていたのですが、三大原始欲求、「食欲」「睡眠欲」「性欲」は不滅ですというやつか。いや、先が見えない、明日の命すら読めない時ほど女の肌が恋しくなるのは、男のはかない性なのでしょう。
そして終戦へ。
昭和20年(1945)の終戦1ヶ月後、東京都が進駐軍用慰安施設候補として提出した一覧表によると、武蔵新田の業者数は9,働く女性は27人とあります1
その後、RAAという米軍相手の慰安所を経てそのまま「特殊飲食店街」、つまり赤線となり昭和33年の売春防止法で廃止になるまで続きました。
この武蔵新田は、同じ東京にあった「東京パレス」と同じような「アパート式赤線」の先駆けのよなものでした。昭和25年(1950)の雑誌にも「第一、第二、第三クラブなどの名称家屋の同一屋根の下に二十七軒が独立営業をなし、個人独立家屋営業は5軒だけ」と書かれております。
「アパート式赤線」といってもピンとこないかもしれませんが、現代に例えるとマンション1棟の1室ごとが独立した売春宿のようなもの。日本ではありませんが、かつて中国の深センにそんな売春窟があったので、私は容易にイメージが頭に浮かびます。
そのアパート、昭和30年になると取り壊され、「独立家屋70軒と新しくなり、女性の数も170名ほどに飛躍を示した」(『全国女性街ガイド』)とあるように、区域は広がってないながら「バージョンアップ」したようです。「新装開店」というやつか!?
また、武蔵新田は老舗の遊郭とは全く歴史が違う、というか歴史自体が非常に浅かったこともあったか陰湿な因習などはなかったようです。「伝統もないから至って自由」(『全国女性街ガイド』)と自由時間に客と結婚して足を洗う女性も多かったとか。
そのせいか、女性の出入りも激しかったようで、放浪性の高い彼女達のことだから今日居ても明日居ない不同性に富んでいる実際と、昭和25年の雑誌にも記述されています。
また、女給はおしなべて明朗な楽天型が多く、美人競演といふよりは少々オカメでも情が深いとも書かれており、”新田女は親切者よ ほどのよささについ惚れる”と、ここの赤線の女性を唄った俗歌も紹介されていました。リアルタイムな時代の雑誌の記述なので、やけにリアリティがあって興味深い。「情が深い」って今の風俗を考えてみても想像できないよな…なんて思ったりもしました。
『玉の井 色街の社会と暮らし』という玉の井の研究書には、武蔵新田交番の巡査だった警察官の回想が書かれています。それによると、カフェーの経営者はごく普通の人たちでヤクザまがいとかそういう人たちではなく、真面目で堅実な経営者でした。
終戦間もない頃は、生きるために食うのが精いっぱい、そのためには、少々いかがわしい商売にも手を出さなければならぬ時代でした。そのため、いわゆる「遊女屋」に手を出し身銭を稼ぐ経営者、そして身体を売って家族を養う女性(戦争未亡人など)も大勢おり、彼らは持ちつ持たれつの関係だったのです。
武蔵新田カフェー街最初の頃は、終戦直後の混乱で治安が悪くかったそうですが、警察署が武蔵新田近くに新設され、人員も増やしたことから治安も回復し、昭和24年(1949)には月に1回酔っ払いが騒ぐ程度になり、平和そのものだったそうです。
巡査が武蔵新田に勤務していた昭和23~27年の間も、凶悪事件は記憶になく、1回だけ殺人事件の犯人を捕まえたことがあったものの、それは別の場所で殺人を犯した犯人が武蔵新田に逃げ込んだだけとのこと。
武蔵新田の祖
武蔵新田について調べてみると、「武蔵新田カフェー街開業の祖」とも言うべき人物にぶちあたりました。その名は長谷川康。
wikipediaに載っているような有名人ではありませんが、長谷川氏が武蔵新田にあった某社の社員寮を買い取り、内部をリフォームして大きい「アパート式赤線」を作り上げたそうです。
場所は現在のマルエツの敷地で、マルエツの敷地がそのまま長谷川氏経営のカフェーアパートで隣には自宅があったそうな。それだけでもかなり大きかったことがわかります。
長谷川氏は東京の赤線界の中ではかなりの有力者で、武蔵新田の組合長はもちろん、「東京都カフェー料理喫茶組合連合会」の幹事長も兼ねていたことが、昭和32年(1957)の年賀状に残っています。長谷川氏は、カフェー街の創設からずっと武蔵新田に君臨し続けたボスだったのでしょう。

赤線廃止跡の地図を見ると、マルエツの位置に「長谷川会館」という謎の施設の名前が出てきます。赤線現役時代、おそらくはここもカフェーだったのでしょうが、ある書物にこんな記述があります。
「カフェー街の角地には組合事務所の「新田会館」があり、定期的な性病の検診も行われていた。
引用:『花街・色街・艶な街』
働いている女性は女工からの転身組が多く、20代の若い女性が揃っていた。客は沿線の工場労働者が多かった。
営業用の建物は大きなアパート3棟が使われ、それぞれ第一、第二、第三クラブと称し、外観にタイルをはめ込んだ壁が特徴だった。全体で10軒ほどが集中していた」
「長谷川新田会館」というのが、引用元いわくの「新田会館」だったのでしょう。
池上特飲街事件
東京の赤線・青線数あれど、どっちかというとこじんまりとした特飲街だった武蔵新田が一躍(?)有名になる、とある事件が起きました。
昭和25年(1950)、武蔵新田と同じく大田区の池上本門寺の前(池上4丁目)に、11軒のカフェーが建設され始めました。カフェーとはもちろん特殊喫茶店のこと。武蔵新田の業者が、指定区域が手狭なのでという理由で、突然特飲街を作り出したのです。
これには住民はおろか、東京都すら聞いてねーよと抗議。しかし業者は

もう作っちゃったからね~
と既成事実化しようと一歩も譲らず。
地元住民も教員やPTAを中心に反対運動を行い、東京都議会どころか国会にまで取り上げられる問題に。参議院も住民の声を聞き証人喚問を行い、関係者が事情を聴取されることとなりました。
結果、11月に都と業者間で話し合いがもたれ、建物を都が買い取ることで解決。特飲街は幻となりました。カフェーの建物は、都の教員寮として使われることとなったと『大田区史』には書かれています。
終戦から5年経って秩序にも落ち着きを見せつつあった時とは言え、業者が勝手に特飲街を作る行為はかなり大胆不敵。おそらく、赤線の店ってそれだけ儲かったのでしょう…。
戦前の公娼時代なら警察権力ですぐに潰されるところでしたが、当時の社会の混乱ぶり、無法ぶりがうかがえる事件でもありました。
そういうすったもんだもありましたが、武蔵新田は昭和33年の売春防止法全面施行に伴いその姿を消し、そのまま歴史に埋もれました。約20年前に遊郭史の研究家に突っ込まれるまで、大田区の教育委員会が全く知らなかったというほど、完全に忘れられていたのです。
武蔵新田の赤線跡を歩く


武蔵新田の赤線(特飲街)は、今のスーパーマルエツの裏側、赤いとこで塗りつぶした区域にあったとされています。
武蔵新田のもう一つの特徴は、範囲がやたら狭いこと。地図見ても狭いですが、実際に行ってみるともっと狭い。インスタントラーメン作る時間で一回りできるくらいの大きさです。もうちょっと大きいやろ…と深読みし地図とリアルタイムの資料を照合させてもやはり違う。
こんな狭いところに、最盛期には33軒の店があり、121人の接待婦が働いていたというのだから、人口密度はかなり高かったことでしょう。
のコピー.jpg)
昭和47年(1972)、そのマルエツの屋上から撮った武蔵新田の抜け殻の跡。この狭い路地に、赤線の女たちが立っていたのでしょう。

過去のGoogle mapストリートビューを見てみると、2008年には角の建物が1棟のみ残っていたようですが、私が訪問した2010年には見当たらなかった記憶があります。
私の見逃しの可能性もあるので、国土地理院の航空写真で確認しました。
当該の建物、2007年、2009年の写真では存在が確認できましたが、2010年12月の写真では消えていたので、私の訪問がワンタッチで遅かったようです。


2010年訪問時にはこれは怪しいとピンときたものの、赤線廃止後の地図を見るとふつうの住宅。確かに一軒の家に玄関が合計3ヶ所あるのは明らかにクロ…いや赤の特徴なのですが、個人的にはこれ以上の物証がないので断定は控えます。

赤線の建物があったのは、この家の一つ裏手の路地。赤線廃止数年後の地図を見ても、飲み屋に旅館に、番号がついた謎の寮…赤い灯は消えたのに地図にその残滓が残っています。

赤線があった頃は、このように狭い道の両側に女性がお客を引き寄せていたのでしょう。
昭和26年(1951)当時の「ショート」の料金は3〜400円、「お泊まり」は700〜1000円が相場だったようですが、女給との交渉次第で安くもなると当時の雑誌は記しています。

ここは、家の姿も外壁の色も10年前と全く変わっていませんでした。

一見ふつうの家ですが、サイドから見てみると裏口のところに石で装飾された外壁が。かつては何らかの店だったのでしょう。
そしてこの家、さりげなく「3階建て」ですが、3階部分はたぶん後年建て増したのだろうと思います。
もう一つの「特殊喫茶店」
赤線と一言でいっても、都道府県や場所によって営業形態は様々なことは、「遊郭・赤線跡をゆく」でも何度か述べてきました。東京都の赤線は「カフェー」としての営業許可を受け、そのエリアを正式名称で「特殊飲食店街」、略して「特飲街」と表現します。
武蔵新田の「特飲街」は、前述したエリアが「すべて」だというのが定説です。実際にそこに固まっていたのですが、私を含めて皆見逃していた箇所がありました。

ちょっぴり特殊な地図の武蔵新田駅周辺なのですが、赤矢印の店に○の中にキと書かれています。これはこの地図の記号の一種で、意味は「特殊喫茶店」…つまり赤線の店。
駅前に堂々とそんな店を構えるとは、なかなか見据えた根性ですが、よく周辺の人も反対しなかったなと。

現在は「松のや」などが入っているビルの場所には、「山口屋」がありました。地図でも駅の目の前ですが、実際に行ってみると本当に駅前。改札出たらすぐに特飲店。やはり、こんなところに作っていいのかとこちらが焦ってしまいます。

ここには「㐂久家」がありました。見てのとおり、かつてここにあったというだけで、当時の建物はおろかその残骸すら確認できません。
もともと小規模な特飲街だけあって、探索といってもほんの数分で済むような場所な上に、当時をしのばせる建物もほとんどありません。ただの東京の下町と化しています。光陰矢の如しと言いますが、ここに赤線があった時期はまさに光陰。あっという間に現れ、消えていった特飲街は昭和という64年の時代の中でも、一瞬だけ光った赤い灯でした。

東京の他の赤線(特飲街)の記事はこちらもどうぞ!


・『全国女性街ガイド』
・『東京特飲街めぐり』
・『赤線漫談・赤線涼談』
・『大田区史 下巻』
・『火災保険特殊地図 大田区 昭和28年』
・『東京都全住宅案内図帳 大田区』

コメント
ふとしたはずみで武蔵新田の歴史に迷い込んだ者です。小生2024-2月で80歳。
現在東北の某市に在住、小生新田に住み着いたのは、昭和37年4月、電車を降りて踏切渡ったすぐ右に虎と言う看板の町中華がありました,その裏側に下宿を致しました、矢口側になります。新田側にも話は聞いていたので色々歩いて見ました。今は知りませんが,線路沿や他にも駅周辺には多くの小料理屋,居酒屋などかなりあった気がします,おかみさんやお姉さんなどは若くはないけれど,かなり際どい唄などドンドンと出して景気付けしてくれました.客を飽きさせる事など無かったように思います。勝手な想像ですが売春防止法施行後にそちらに行かれたのかななどと思ってしまいました.何にせよ遥か昔を思い出してしまいました。