洲崎遊郭(東京都江東区)|おいらんだ国酔夢譚|

東京の洲崎遊郭東京・関東地方の遊郭赤線跡

東京都江東区東陽。この地名にピンと来なくても、「洲崎」と聞いたらピンとくる人もいることでしょう。現在、その地名は消えてしまったのですが、その洲崎には、規模はかの吉原に負けず劣らずな遊廓があったことは、今や昔。
本編は、そんな「永遠のナンバー2」の宿命を背負わされた遊郭、洲崎のお話。

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洲崎遊郭の母ー根津遊郭

洲崎の遊郭としての歴史は、江戸時代までさかのぼることができます。
近世の江戸において、「遊郭」というのは吉原の代名詞でした。他にも江戸のあちこちに遊里は存在していたのですが、他は近代以降の概念で言えば私娼窟にあたる「岡場所」と呼ばれ、吉原や他の公許の遊里とは明確に区別されていました。

その岡場所の一つに、根津がありました。現在の東京大学農学部の隣にある根津神社周辺にあった遊里で、明治以降は貸座敷指定地に定められ、吉原に次ぐ規模でした。

乙女稲荷神社

根津神社には、お参りすると女子力がアップするという「乙女稲荷神社」が末社として鎮座しています。場所と名前だけに遊郭と関係あるのかなと思ったのですが、かつてここに遊里があった頃、遊女たちが絶えず参拝していたことに由来するようです。

その根津遊郭時代、坪内雄蔵という東大の学生がいました。前述のとおり根津遊郭は東大に近く、遊郭に入り浸ってしまう学生も出てしまう始末。坪内もその一人で、大八幡楼の娼妓「花紫」と意気投合、数年間も通い詰めました。坪内家はさほど裕福ではなかったはずですが、登楼代はどう工面したのでしょうかね。花紫が代金を建て替えた(これを「身揚げ」といいます)可能性もあるけれども、それだと彼女の借金は減らない。洲崎の元遊女いわく「男に惚れて(身揚げ)やっちまったら一生廓から出られない」という地獄のスパイラル。
結局、坪内は花紫と結婚することができたのですが1雄蔵学生はのちの文学者坪内逍遥、花紫は彼の妻センとして歴史に名を残しています。
しかし、彼女の身請けの金はどこから工面したのか…半分の300円は逍遙が金策したと逍遙の伝記にありますが、そこは坪内逍遥研究者の方、よろしくお願いします。

また、大松葉楼という妓楼には「地獄大夫」という娼妓がいました。その名は好んで髑髏を描いた(しかけ)(仕掛)を用いていたことからそう呼ばれたもので、当時の娼妓界ではBBAもとい熟女扱いだった25歳を過ぎても、彼女に魅了された男は数知れずだったそうです。
そんな彼女も、明治11年に廃業し弁護士の妻に収まり、その後の行方は知れないとのこと。

根津から洲崎への移転

根津遊郭は、一時娼妓1,000人近くを抱える大遊郭となったのですが、やはり最高学府の近くに遊里はけしからんという理由で、明治17年(1884)に3年間の猶予をもって営業禁止令が出ます。その間に洲崎が埋め立てられ、根津遊郭は明治20年(1887)6月末で営業終了、7月より洲崎での営業に切り替わりました2
根津から洲崎に移転した貸座敷は97件、引手茶屋は40件、娼妓974人3。他に遊郭とおんぶにだっこの飲食店や酒場、雑貨店なども一緒に移転したため、一つの町が丸ごと移動したような感があります。

移転当時を見たという古老によれば、坪内逍遥夫人がいた本八幡楼は、

鱗の模様揃各自に丸八(○の中に八)を染めた日傘をさし娼妓は黒塗の高さ一尺位の下駄を穿き娼妓と新造と二人にて二人乗に乗り車夫は娼妓の妓名を染めた伴天を着し其の他芸妓、幇間此れに附し車百七十八台と云ふ」

『洲崎の栞』より

とド派手に「移転祭り」を行ったようです。
しかし、いちばん派手だったのは「地獄大夫」がいた大松葉と伝えられています。ただ、具体的にどう派手だったのかは伝わっていません。その大松葉は洲崎に五階建ての大妓楼を建てたのですが、その後まもなく営業不振で廃業したと伝えられています。

明治時代の洲崎遊郭の地図

今でこそ「陸地」にあるのですが、元々ここは明治19年(1886)に開拓された埋立地。良く言えば海辺にある風光明媚なシーサイド遊郭、悪く言えば長崎の出島のような隔離状態。出入口は一つしかないですが、近隣の漁師は船を岸につけ、海から入って来たそうです。

明治時代の洲崎遊郭の地図

「品川遊廓移転地」「根岸遊廓移転地」との記述がある地図も見受けられます。品川遊廓からの移転組も一部いたようですが、それとも元々品川もここに集約させる予定だったのか。
また、「根岸」は「根津」の書き間違いでしょう。

洲崎の大妓楼ー本八幡楼

洲崎の本八幡楼

洲崎の名物妓楼は、やはり本八幡楼。根津時代からの大妓楼で大きさもさることながら上の絵のような時計台もありました。この時計台はあまりに大きく目立つため、東京湾で働く漁師たちの時刻を知る目印にもなっていたそうです。

東京名所洲崎遊郭之遠望

明治35年(1902)に描かれた「東京名所州崎遊郭之遠望」にも、本八幡楼の時計台が描かれており、洲崎のシンボルとして君臨していました。

洲崎の本八幡楼の場所

本八幡楼の住所は洲崎弁天町1丁目17番地。現在の場所に当てはめると赤塗りの位置となります。ここが丸ごと妓楼とは、これはかなり大きい。

千と千尋の神隠し

宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』に、こんなシーンがあります。『千と千尋』は遊郭を題材にした説がありますが、私がこのシーンを見た時、真っ先に連想したのが洲崎遊郭でした。明治時代の東京湾から見た夜の洲崎遊郭って、こんな感じだったのだろうなと。
そんな本八幡楼も、大正5年(1916)2月、クビにした風呂番の男の逆恨みにより放火され、その姿を消しました。その跡には、大小合わせて30以上の妓楼が建ったといいますが、昭和12年(1937)当時の妓楼配置図で洲崎弁天町1丁目17番地の妓楼を実際に数えてみると29軒、空き家や駐車場などを入れると40近く。伝説は本当だった。

洲崎の「大津波」

ところで、吉原遊郭の写真や絵葉書は、それこそごまんと存在しています。ヤフオクで参考用にいくつか落札しましたが、とにかくありすぎてどれを選んで良いか迷ったほどでした。
洲崎遊郭の規模も日本屈指なので、絵葉書の10枚や20枚くらいヤフオクに転がっているだろう…そう高を括っていたのですが、予想以上にないことに気づきました。

明治40年7月洲崎大津波

あるのは「津波」の絵葉書ばかり…「まとも」と言えば失礼ですが、これ以外にないものかと探してみたものの、ほとんど見つかりませんでした。

ここにある明治44年7月26日の「津波」とは何ぞや。
津波とはご存じのとおり、地震によって発生する波のことですが、この日に地震の記録はありません。よって津波ではなく高潮のこと。
洲崎は歴史上、たびたび高波の被害に苛まれています。シーサイド遊郭の宿命でしょう。明治44年はその「津波」の当たり年で、6月から8月にかけて3回も襲われています。
その最大のものが絵葉書の7月26日のもので、暴風雨により高さ8尺(約2.5m)の高潮が発生、洲崎の堤防が決壊しました。
運の悪いことに、高潮が洲崎を襲ったのが深夜2時~3時、遊郭用語でいう「大引け」という完全消灯時間にあたったこともあり、暗闇の中「水の壁」が襲ってきたことになります。これはかなりの恐怖です。
この高波で、楼主・娼妓・遊客など合わせて50名ほどが亡くなったと記録にあります。また、海側にあった某楼では建物が全壊し、楼主夫妻と子供、遊客3人、娼妓16名が下敷きとなり死亡しました。

洲崎遊郭の堤防

今は周辺の埋め立てが進み、洲崎がシーサイドだったということは想像し難いとは思います。が、現在でも旧洲崎地区の端々には、ここが海のそばだったことを物語る、高さ4mほどの堤防がくっきりと残っています。

ちなみに、同じ明治44年の4月にかの有名な「吉原炎上」(吉原大火)が起きています。東京第一の遊里が火事で、第二が水害で被害を受けるとは、東京遊里史にとってこの年は厄年としか言いようがありません。

昭和の洲崎

洲崎の規模は、何度か水害や火事などで被害を受けるも順調に発展し、大正10年(1921)には、業者277軒、従業婦2,123という数字を見ても、かなり大規模な遊郭だったことがわかります。
昭和初期に発刊された『全国花街めぐり』には、洲崎をこう表現しています。

「品川は宿場の気分で海の寂寥(せきりょう)が気にならないが、洲崎は非常にそれが気になる。
要するに寂しみの勝った遊廓で、夏の遊廓、昼遊びが出来ないところ。若し昼の最中に大きな妓楼の大広間に陣取り、芸者幇間に座を持たせてゐたところで、何となく古寺の本堂で無理に騒いでゐるやうな心持ばかりして来る」

『全国花街めぐり』より

また、昭和14年(1939)に洲崎を訪れたという画家の木村荘八は、こう表現しています。

「何しろこの遊廓の印象は何処も彼もヘンに森閑として薄暗く陰気でゐて、そのくせぬるい湯が沸くやうに、町のシンは沸々と色めいている。―ちょっと東京市内では他に似た感じの求め難いものである。
ぼくの乏しい連想でこれに似た感じのところは、京都の島原。それから強いていへば阿波の徳島の遊廓、三浦三崎の遊廓。さういふものに似てゐる。
市街地からエロティシズムだけ隔離して場末の箱に入れた感じだ。色気が八方ふさがりの一画に封じ込まれた為め、町が内訌してゐる塩梅だろう」

木村荘八『洲崎の印象』より

この2つの引用に共通なのは、「やけにシーンとしている、どこかもの寂しい感じがする」という部分。吉原みたいに四六時中ワイワイ騒がしい所でもなく、昼間は人気のない森にでも来たような静けさがある所という感じでしょうか。木村は、洲崎を「東京の中の一つの田舎」と評しています。
なお、後述する映画『洲崎パラダイス赤信号』の川島雄三監督も、「場末の埋立地で、吉原のようなはなやかさはなかったのだろう」と著書に書いています4

興味深いのは、木村荘八の「ぬるい湯が沸くやうに、町のシンは沸々と色めいている」「市街地からエロティシズムだけ隔離して場末の箱に入れた感じ」という箇所。これは「風俗街」を的確に短い言葉で表現した表現、「もの書き」として敬意を表したい。
強いて言うなら、「ぬるい湯」は目視では感じない程度の、薄っすらとしたピンクの湯気だったのだろうと思います。

昭和初期の洲崎の数字を、「遊郭BIG4」と勝手に呼んでいる遊郭と比較してみましょう。

昭和の遊郭の遊女

「吉原並みの規模」を常に保ちながらも、歴史も格式も上の吉原の後塵を拝していた洲崎でしたが、貸座敷の数では吉原を越えています。さすがに他の数値では、吉原はもちろん、「不動の三冠王遊郭」こと大阪の松島、「遊郭界の超大型新人」こと飛田にすら及ばないですが、ここから対米戦争が始まった昭和16年(1941)までの間、洲崎は貸座敷の数では悲願の(?)「日本一」を果たします。ここまでが、洲崎の絶頂期でした。

貸座敷・妓楼と一言でいっても、大中小のランクが存在していました。
いちばん格上は、「大見世」と呼ばれた名実ともに大妓楼と呼べるもの。遊女を「花魁」と呼ぶこともありますが、そもそもはこのランクの見世にいる最高ランクの遊女のこと。
このような上見世は、伝統的なツケ払いで一見さんお断り。登楼したければ「引手茶屋」というところで芸妓を呼んでひと遊びし、そこを通さないといけないしきたりでした。洲崎には茶屋を盛り上げ、大見世の花魁にバトンタッチするセットアッパー(中継ぎ)としての芸妓もおり、昭和初期でも180人前後在籍していました。
吉原では「大文字楼」「角海老」などが有名な大見世ですが、洲崎では上述した「本八幡楼」などがトップクラスの大見世でした。

次のランクは、「中見世」「小見世」と呼ばれた妓楼です。

遊郭の張見世

「張見世」と呼ばれた遊女が格子越しに並ぶこれが中見世・小見世の特徴で、遊客は直接遊女を見て「妓夫太郎」と呼ばれた呼び込み兼番頭と値段交渉し、成立したら登楼するという仕組み。
この張見世は大正5年(1916)に廃止され、見世の中で遊女を見定める「陰見世」や、中のガラスケース内に遊女の写真を並べる「写真見世」となりました。

いちばん下のランクは、洲崎では「けころ」5と呼ばれた最下級の妓楼。「洲崎半島」の海側に並んだ、もはや妓楼なんて優雅な名前では呼べないほどの娼家が多く、お値段も遊女の質も最低なところでした。今でいえば「ちょんの間」といったところでしょう。しかし、洲崎の客層が職人や漁師など比較的せっかちな階層だったため、かえって「けころ」の方が人気があったそうです。

戦争と洲崎遊郭の終わり

その洲崎も、徐々に戦争の影が忍び寄ります。
満州事変が起こった昭和初期から日中戦争が起こった頃は、出征する兵隊さんの童貞脱出、つまり「筆おろし」のために団体さんかつ大量に遊郭にかけつけ、洲崎も一種の「戦争バブル」が起こりました。
これは全国の遊郭どこでも見られた現象で、親が子供を連れてきたり、軍隊の班長が童貞二等兵を集めて妓楼に「こいつらを頼む」とお願いしたり。童貞のまま死なすのは忍びない、それならプロに任せようというのが当時の親心。
無事童貞を脱し、ありがとうございましたと玄関で深々と頭を下げる彼らに、遊女たちは勇ましいことばを言わず、

遊女
遊女

死んじゃあダメよ…必ず帰ってきてね…

口を揃えてこう見送ったといいます。
遊郭は「一夜だけ夫婦の契りを結ぶ」ところ。お客さんが玄関を出るまでは疑似とは言え夫婦であり、戦地へ赴く「夫」へ死んで来いとは言えません。死地へ向かう者へのリップサービスだったでしょうが、もし本当の夫婦なら、やはり「生きて帰ってきて」が本心。彼女らの言葉には多少なりの本心が隠されていたのではないでしょうか。

そして対米戦争が始まり、戦局も緊迫してきた昭和18年(1943)の10月31日、海軍が石川島造船所の徴用工の寮にするために洲崎に明け渡しを要求。洲崎は海軍に明け渡され、遊郭としての歴史はここで幕を閉じました

洲崎遊郭の最後

業者たちは同業者が集まる別天地へと流浪していきましたが、図で書くとこんな感じになります。
戦後の赤線として成立した武蔵新田は、元々は洲崎→羽田というルートで形成されたもので、洲崎の分家筋のようなものです。

そして昭和20年3月10日のいわゆる「東京大空襲」で、洲崎は他の遊郭の例に漏れず跡形もなく焼失しました。

1936年洲崎遊郭写真
洲崎遊廓と東京大空襲

昭和11年(1936)と22年(1947)の航空写真という絶好の比較サンプルがあったので、並べて比較してみます。
後者は、終戦から2年後なので多少は人家が戻っている状態ですが、それでもこのざま。空襲直後は「焼失」ならぬ「消失」という状態だったことは、この航空写真で容易に想像がつきます。妓楼は木造がほとんど、日本を燃やす尽くすだけのために開発された焼夷弾の束の前では、ただのよく燃える材料にすぎませんでした。
戦前の洲崎の妓楼配置図を元に、焼け残った建物を焼け野原の上に記載してみると、鉄筋コンクリート造りだった洲崎病院、同じ造だったと思われる元貸座敷2つを除けば、すべて「消失」です。残った建物も、外枠は残っても中は焼夷弾で丸焼けだったことは想像に難くない。

NEXT:そして「洲崎パラダイス」へ
  1. 娼妓だと体裁が悪いので、いったん武家の養女となり、養女と結婚という形となった。
  2. 本営業の開業式は9月17日。
  3. 『洲崎の栞』より
  4. 『きのふの東京、けふの東京』
  5. 吉原では「河岸見世」。
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コメント

  1. MA より:

    先日、玉ノ井カフェー街に行ったついでに駆け足で鳩の街も見に行ったのですが、情報が不正確な某サイトを見たために場所を間違えていてなにも見られず、反省して勉強し直しでこのサイトに出会い、大いに学ばせていただきました。ありがとうございます。
    さて、洲崎のページで提言を一つ。「現役時代は「都」という屋号の店」ですが、よく見ると、二階の窓と一階の窓のサイズと位置関係が変わっていないこと、二つある電気・ガスメーターの種類と設置位置が変わっていないこと、一階の窓と玄関の引き戸の位置関係および双方のサイズが変わっていないこと、以上の理由から、実施されたのは「カフェー建築のガワ(装飾部分)」だけ引き剥がして再塗装した工事で、この建物は躯体を全くいじっていないと推定されます。建物の角にあった青いタイル張りの柱に見えたものは、おそらく張りぼての装飾であり、それを撤去することで隣家との間隔が広がったと思われます。おそらく、ネットで「カフェー建築」として有名になったことから、オーナーが自宅の「黒歴史」を知らしめる特徴的な外観を手軽な工事で消失させたものと思われます。もし現地に再訪されるのであれば、隣家との隙間から見えるであろう屋根の形状や二階側面の窓の位置と形状が、改装以前と同じであることを確認なさることをお勧めします。また、写真では判然としませんが、家の前のコンクリ製たたき部分は全くいじっていないようですので、現地でコンクリ表面の経年変化を見てみるのも良いと思います。私は建築は素人ですが、古家を取り壊してから新築するのであれば完全に更地にするはずで、もし家の前に設置から数十年が経過したコンクリのたたきが残っていたら、そこにあるのは元々あった「カフェー建築」と見ていいはずです。

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