現在の天王新地
過去の探求はここで止め、現在の天王新地へと足を進めてみます。

見ていて痛々しいほどに朽ちた新地の入り口。長年の劣化の中新しいものに替えられることなく、自然に朽ちるに任されています。
かつてはこれに明かりが灯り、夜のオスどもを誘っていたのでしょう。しかし、この無残な姿を見ると、まともな神経を持っているならば先へ進む気がなくなってしまいます。
ヤル気満々のオスのテンションを下げるにはもってこいの玄関ではありますが、天王新地の現状を伝える最大の現物でもあります。

裏側はこのとおり。
「天王料…」
と途切れた看板が痛々しいですが、表は
「理組合」
と続いているため、表裏で「天王料理組合」となるユーモアなのでしょうか。そんなわけはない、ただ崩壊しているだけです。

先へ進んでも、店の看板はあるが営業してるのかどうかわかりません。訪問時が朝なので「お休み中」、しかし人の気配すらしません。

突き当りまで進み、やっと現役らしき店を見つけました。
天王新地の敷地を周回し営業してそうな店はここくらいか…おそらく営業しているのは3軒か4軒くらいだろうと思われますが、「人の気配」がしたのはこの店だけです。
この店の角を左に曲がると、また北への道が続きます。その道筋に営業中の店はなさそうで、一部は民家になったり、取り壊されて介護施設などになっています。
昭和33年の住宅地図によると赤線時代は裏路地になっており小さい店が数軒存在し、「天王ゆ」と書かれた銭湯らしきものまでありました。接待婦や客で昔は賑わっていたことでしょう。

営業はしていませんが、かつての店が残っていました。資料によると、ここは「香月(右)」「繁乃家(左)」という名前でした。

「繁乃家」跡には黒と白で模様されたタイルが残っています。

そのまま前進すると、新地のもう一つの門に出くわします。が、ここもすっかり朽ち果てて門の体をなしておりません。天王新地のお寒い現実を、この門が黙って語っているかのようです。
現役の天王新地は、これで終わり。
知名度は高いものの、いざ現地を探索すると猫の額ほどの広さ。こんなものかとつぶやきたくなります。こんな狭いエリアにかつて「65軒」の店がひしめいていたなど誰が信じろというのでしょう。
しかし、
「天王新地はかつてもっと大きかった」
としたらどうでしょう。
昔の天王新地はもっと大きかった!

現在の天王新地のエリアは、「コ」を時計回りに90度回転させた道沿いですが、昭和33年売春防止法施行直後と思われる住宅地図を紐解くと、現在の2~2.5倍の広さはあったことはほぼ確実です。
今の範囲だと紀和駅(当時和歌山駅)からはちょっと遠く、最寄り駅としては不適格です。が、赤線、または戦前(推定)のエリアだと十分最寄り駅足り得ます。

昭和14年の和歌山市の地図にも「天王新地」の名前があらわれていますが、紀和駅の方が心なしか近い気がします。現在では紀伊中ノ島駅が最寄り駅になるのでしょうが。

天王新地の玄関口は、むしろ紀和駅のほうだった
という仮定で紀和駅から天王新地へ、赤線当時の気分で新地方向へ進んでみると。

紀和駅からかつての天王新地への入口に入ると、いきなり当時の生き残りの可能性非常に濃厚な建物を発見!

この装飾は、ただの民家ではあるまい…当時の住宅地図と照合してみると、残念ながらここの部分の字がつぶれて判別は不可でしたが、これは長年の勘的に、そして場所的に間違いないでしょう。
「昔の天王新地は今より大きかった」という仮定と、資料を照らし合わせた推測がはたらかないと、ここは間違いなく見逃すでしょう。少なくても、「今の天王新地の広さ」では完全に見逃す区域なので。

現在は場末の少しくたびれた下町の住宅地という感がある場所ですが、実はここもかつて天王新地の一部として店が軒を連ねていたと地図は語っております。

暗渠と化した川に沿う道は、東京の玉の井を思い出させます。
店はすっかりなくなったが、
「ちょっとお兄さん、寄っとくれよ」
という声が、今にも家々から聞こえてきそうです。実際に聞こえるのは家から漏れ聞こえるテレビの音声だけですが。


朽ち果てた看板にいわく「天王新地料理組合」ですが、現在それが本当にあるのかすら定かではありません。稼働中が数軒だと組合もへったくれもないでしょうが…。
しかし、かつては「天王新地料理組合」の前身の建物が存在していました。写真の場所がそうで、おそらく赤線時代の組合のままか、丸電灯だけが寂しげに家の前を見守っています。
全盛期は6~70件の店に100人近い娼婦が嬌声と嬌体を競った歓楽街、ここの賑わいも夜が更けると男と女の臭いがムンムンして盛んだったことでしょう。
もちろん、現在はここも空き家となり当時の面影は見る影もありません。
バス停名からも消え…

天王新地の前にはかつて、名前そのままのバス停が存在していました。「現役」をバス停名にしているのは、非常にレアなケースです。
すでに廃線になりましたが、飛田新地の前には南海平野線の「飛田」停留所がありました。設立時期と位置的から察するに新地への客を見込んだのでしょう。が、「飛田新地前」などとストレートに書くのは、さすがにはばかられたようです!?
天王新地バス停には、そんなためらいを全く感じさせません。
だが、見方を変えるとこれは吉事。天王新地が「穢(けがれ)」として忌み嫌われていたのではなく、現地コミュニティに溶け込んでいたあらわれだと、私は思います。そうでもないと、わざわざバス停名にはすまい。したらしたで猛烈な反対運動が起きるのは明白だから。
しかし、この「現地密着」にも終わりが訪れました。バス停が「地蔵の辻」に改名されたのです。新地の入り口があの有様なので、天王新地の終わりを和歌山バスに通告されたかのような措置でした。
あとがき
天王新地の現状を目の前にすると、黄昏などという美しい言葉では表現できません。
前述のとおり数店舗は営業しているものの、それは風前の灯火。
その灯が消え、歴史の固有名詞となるのはそう遠くないでしょう。その流れにいくら抗っても、かつての繁華はもう望めまい…。
ここがかつて嬌声で賑わっていたことを想像するだけで、寂しさ以上に虚しさを感じます。かといって往年の繁栄を想像するのは、死んだ児の歳を数えるようなもの。
これが私の率直な感想です。
私の見た新地の姿は、老いた蛍が絞り出している最期の光かもしれない。
「現役」には興味ないとは言え、その一つが灯を閉じる姿に後ろ髪をひかれつつ、ここで筆を置きます。この記事が天王新地最期の姿にならないことを祈りつつ。
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