日本の北の大地を代表する都市、札幌。
定規で線を引いたような都市区画の美と、大地はどこまで続くねんという北海道はでっかいどうを体感できる、北日本最大の都市でもあります。「おいらんだ国酔夢譚」として遊郭・赤線跡を追ってン年、ついに北の大地へ踏み込みました。思えば遠くへ来たもんだ。
札幌の遊郭史
札幌の歴史は開拓の始まり。
今や北日本一の人口を誇る札幌ですが、開拓事業開始前の人口はわずか13人だったと言います。開拓事業を司る開拓使は、都市建設に従事する労働者を本州から呼び寄せましたが、その数は数万人と言われています。
ところが、人を呼んだのはいいものの、娯楽がなく定住者が少ないという大問題が発生しました。
しかも、旧藩のプロジェクトで移住した人はさておき、個人レベルで開拓しに来る人は良くも悪くも訳ありな人が多く、山師タイプや荒くれ者が非常に多い。それにより治安も悪化していきました。特に問題だったのは婦女暴行。
また、今まで体験したこともないような過酷な自然環境やヒグマなどの獣害もあり、明日生きられる保証はない環境では、しっぽを巻いて逃げる人も多い。明日、いや1時間後には死ぬかもしれないという極限状態の戦場に婦女暴行が多いのも、オスとして子孫を残さねばという本能的なものなのかもしれません。
この性被害と人の流出を食い止める策、それが開拓使が早急に解決すべき課題でした。
そんな中、明治4年(1871)に開拓使に赴任した土佐藩出身の官僚岩村通俊が、この二つの問題を解決する策を提唱しました。
そうだ、遊郭を作ろう!
遊郭という遊び場を作れば、娯楽がなくてつまんないという不満と性犯罪の問題が同時に解決できます。
というわけで、岩村が陣頭指揮をとり同年に札幌市街地の南端だった薄野に急ピッチで遊郭が造成されました。また、すでに市街地に点在していた「曖昧屋」も薄野に集約、私娼もついでに一層しました。岩村いわく、
遊郭を作るのもまた開拓の一端である
空前絶後!薄野遊郭の奇「東京楼」
この薄野遊郭、開拓使という官が旗振り役となって作られた特性から、他の遊郭とは少し違った特徴を備えていました。
それが「東京楼」という存在。
1872年(明治5)9月、薄野にできた妓楼の一つなのですが、なんとこれ、開拓使が建設費から遊女の斡旋まで行った官設遊女屋。「御用女郎屋」とも呼ばれました。
官民のレクリエーション施設として妓楼作るから予算1万円くれ!
と岩村本人が開拓使の予算から調達した異例の妓楼で、東京の吉原から遊女をスカウトしたりとこちらも急ピッチで展開。隗より始めよと公の予算から捻出され建設された妓楼は、日本遊郭史において空前にして絶後の存在。それほど事態が逼迫していたのでしょう。
ただし、官設ではあっても官営というわけではなかったようで、器だけ作って実際は松本弥左衛門、城戸弥三郎という民間人にレンタルされていたようです。
東京楼があった場所は、遊廓の南東端、現在の南6条通りと西三丁目通りが交差する角にありました。市史にちょうど明治8年当時の薄野遊廓妓楼配置図があり、そこに松本と城戸の名前があるので間違いないでしょう。
東京楼はオープン間もない十月十七日に客の暴行事件で2カ月近く休業に追いやられたり、翌年の「芸娼妓解放令」により娼妓が廃業し屋台骨が揺らぐものの、1873年(明治6)の貸座敷営業成績表によると上位に食い込む稼ぎをあげていました。が、その後は開拓使へ支払う賃貸料も払えないほど経営が傾き、1876年(明治9)に経営不振で廃業したと記録にはあります1。
その後の東京楼は、遊郭が発展するにつれその役目を終え、民間に払い下げられたと推測されます。
札幌農学校と薄野遊郭
札幌農学校といえば、Boys be ambitious!!で有名なあの学校です。
農学校は現在の北海道大学の前身ですが、札幌のシンボル時計台はもともと農学校の演武場だったもの。農学校初期は時計台のある場所にありました。
ちなみに、時計台は「日本三大がっかり名所」としてけちょんけちょんにけなされていますが、中身の展示物はなかなか。農学校の歴史はもちろん、時計が動く仕組みなどが詳しく、歴史好より機械好き理系っ子の方が楽しめるのではないかと。
農学校と薄野遊郭の位置関係を見てみましょう。
農学校から遊郭までは、私が実際に歩いた実測でも15分くらいで、現在の地下鉄でも1駅分。6キロ7キロくらいはふつうに歩いていたご時世なので、この程度の距離なら隣の家に回覧板を届ける感覚でしょう。
札幌農学校とくれば、新渡戸稲造や内山鑑三などのキリスト教徒を生んだ校風。それだけあって最初の頃は禁欲的な空気があったようですが、遊郭が近くにあっては若き血潮が無視を許さない。中には寮を抜け出して遊郭で遊んだ不良学生もいました。まあ、こんな距離なら遊郭で遊ぶなという方に無理がある。
そんな若き血潮が、ある事件を起こしてしまいます。
明治13年(1880)、農学校の公金が金庫から盗まれるという事件が起こりました。被害金額は300円、現在の約7~800万円にあたり、学校がひっくり返るほどの大事件でした。
犯人はすぐ捕まりました。農学校二期生の永井某という学生で、同期の伊藤某、先輩(一期生)の山田某と組み、盗んだ金で遊郭で遊びまくっていたのです。当然、彼らは放校除籍となり、主犯の永井は懲役10年の刑を受けたと記録にあります。
二期生といえば新渡戸や内村らと同期で、在籍中だった彼らもこの事件を目の当たりに、同期生の不届き千万の行為に少なからずショックを受けたはず。この期はのちに、日本史に大きな影響を与えた逸材を多数排出した黄金期でもありますが、中にはとんでもない不良学生もいたというお話でした。
「すすきの」の地名の由来は?
ところで、この地がなぜ「薄野(すすきの)」という地名になったのか。アイヌ語の地名ではありません。
これには二つの伝説が現代に伝わっています。
一つは、ここ一帯にススキが生えていたから。遊廓として開発を始めた時のここ周辺は薄が生い茂っており、開拓使または自然発生的に「すすき野」と呼ばれたという説。
もう一つの説は、人名説。
遊郭建設の言い出しっぺ岩村は、設営の現場指揮を部下の薄井龍之に任せました。その彼が遊郭を造成指揮を執った際、彼の一文字の「薄」をつけ「薄野」となった説。
これについては、「ススキ説」と「薄井説」が真っ二つ。本記事のおまけのつもりで書いたのですが、文字数が長くなってしまったので別記事にまとめました。
薄野遊郭の移転
札幌の歓楽街として、周辺に集まった飲み屋なども含めて薄野は、北日本の不夜城として順調に成長していきました。娯楽なんて全くない北の大地に突然、「酒と女のラスベガス」が誕生したのだから繁盛しないわけがない。開拓長官として手腕を振るった黒田清隆も、ここ薄野遊郭で遊んで芸者と恋仲になったという話が伝わっています。
翌々年の明治6年(1873)には遊女の数が300人を越え、1902年(明治35)のデータによると、貸座敷は44軒、娼妓数は約300人。明治時代は貸座敷40軒前後、娼妓数約300名で推移していきます。しかしこの数字、実は函館や小樽よりも少なく2、北海道の中心都市といっても、金離れの良さや本能的に女を欲しがる船乗り補正がある港町の方が強いのかもしれません。
特に日露戦争後の勢いは、「イキがよかった」3と書かれているほど栄えていたようです。北海道を拠点に置く第七師団が満洲の奉天会戦などで活躍したこともあり、帰営後の兵士で賑わっていたことは想像に難くありません。
『凱旋楼』という名前の貸座敷が出現したり、「東郷」「連勝」などの源氏名の遊女が出現したり、とにかく「イケイケ」だったそうですが、戦後のリバウンド不況で遊郭の経営はかなり苦しくなったと記されています。
「性欲のトイレ」よろしく僻地に作られた遊郭も、そこが市街地となると家の真ん中に「トイレ」があるのはけしからんとまた郊外の僻地に移転させられる…これも遊郭の歴史の常です。
薄野も例外ではなく、明治20年代には現在のような街の真ん中になってしまい、「臭いものにはふたをしろ」とばかりに移転問題が持ち上がります。遊郭側も、市街地になられてはそれ以上発展しようがないので、郊外移転は渡りに船。表面的には厄介払いな形なものの、経営戦略の観点から見ると移転は100%悪い話でもない。
明治34年(1901)、区会で遊郭の移転が提議され、可決されます。が、どこに移転かなどは何も決まっておらず、結局可決されただけで「しかしなにもおこらなかった」で終わりました。
そして時は大正に入り、何度目かの移転が審議され移転が決定しました。
移転場所は東部の白石。ここは伊達政宗の右腕片倉小十郎の領地、白石から移住した士族(事実上の屯田兵)の開拓地でした。私も札幌の白石と聞いて、
仙台藩(の白石)と関係あるのかな?
ぼんやりと思っていたのですが、関係あるどころかそのまんまでした。
白石の住民はリンゴ園を作っていたのですが、不安定な農業より遊郭の方が生活が安定すると大手を振って移転の土地を提供しました。
今の常識では眉をひそめる人もいるかもしれませんが、遊郭の設置は人が来る→お金が落ちる→商売が盛んになる→さらに人が来る→町が発展して地価があがる(住民目線)→税収アップでウハウハ(自治体目線)という、Win-Winの「町おこし」でもあったのです4。
1920年(大正9年)、遊郭はすすきのから白石へ移転の上再スタート。こうしてすすきのは、遊郭としての歴史に幕を下ろしました。
これ以降の札幌遊郭史については、のちにアップする「白石遊廓編」へと続きます。
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