白石遊郭跡を歩く
白石の遊郭跡へ行くには、札幌の中心部より約10分、地下鉄東西線菊水駅が最寄り駅です。それどころか、菊水駅自体が旧遊郭のほぼ真上に作られており、もし戦前に地下鉄があったなら…
こんな風に、副駅名に「白石遊廓前」なんてのがつきそうなほどです。でもそれを言うなら、すすきのも「薄野遊廓前」ですけどね。
遊廓跡は道筋で残っていることが多いのですが、Google mapで見てもあまりその残滓が見えません。が、地下鉄駅構内にある周辺地図ではその跡がくっきり。菊水駅が遊郭(跡)の真上に作られていることがこの地図だとよくわかると思います。
白石遊郭の前には、他の遊郭の例に漏れず、上の絵葉書のような幅90㎝、高さ約3㍍の大門が建てられていました。門柱には「札幌遊廓」と書かれており、俗に白石遊郭と言いますが、正式名称はあくまで「札幌遊廓」なのです。
薄野遊郭と違い、遊郭の周りには娑婆と隔てるものはなにもなく、門柱だけがただ立っていたというのみでした。
遊郭としての大門通りは幅をかなり広めにとっているのが特徴で、現在でも周囲の道と比べて「謎に広い」道としてGoogle mapなどに反映されることがあります。
絵葉書の写真の場所を意識して撮影した、100年後(推定)の姿がこちら。
白石の大門通りの幅は昔とさほど変わっていないそうですが、周囲の宅地化・都市化がかなり進んだせいで違和感がほとんどありません。
正門の右側には警察の派出所(交番)がありました。遊郭は警察の管理なので白石くらいの規模になると交番があることが多かったのですが、主な仕事は廓内の治安維持はもちろん、遊女たちの管理も兼ねていました。つまり、貸座敷・娼妓取締規則など遊郭ならではの法律知識も必要というわけです。
たとえば、女郎さんが廓外へ外出する際は許可証が必要なのですが、その発行も交番が行っていました。
もう一つは、妓楼の遊客名簿のチェック。遊郭で遊ぶには名簿と消費額を記録として残さないといけないのですが、客の中には殺人や強盗などの凶悪犯も混ざっていることがありました。
これは遊郭・私娼窟あるあるで、「私娼窟版吉原」こと玉の井でも「一仕事」終えた強盗犯などが奪った金をこういう場所で使いまくり、あまりに金の使い方が荒いので、
あやすぃ…
とピンと来た女郎や売春婦が遣り手などを通じて警察に通報することがよくあったそうです。
あと、警察も1年2年廓の管理をしていると、
こいつ、偽名使ってるな…
と勘がはたらき上司に報告、許可の上臨検することもありました。なお、いくら戦前の警察でも「男女の営み」を侵害する権利はなく、臨検は私服かつ下から目線で協力をお願いしていたそうです。
昭和の戦争の頃になると、大門界隈には「朝鮮バー」なるものが自然発生的に何軒もできたそうです。軒数は、人の記憶によって違いますが、だいたい20~30軒くらい。
朝鮮バーとは朝鮮人が経営する飲み屋で、朝鮮から12~15歳の女の子を連れてきて日本語を仕込ませ、チマチョゴリを着て客を接待させるというもの。「飲食店」ですが、もちろん実態は売春を行う私娼窟でした。
遊郭の妓楼は妓楼のランクによって料金は2~3.5円でした。が、朝鮮バーは「ラーメン一杯」でOKの時もあったようです。「ラーメン一杯」とは当時の約50銭ほど。娼妓の4~6分の1くらいの値段と常識外れの価格破壊ですが、その分性病罹患率が高くかなりのギャンブルの模様。
この「朝鮮バー」は、名前は違うものの函館の新興私娼窟、堀川新地にもありました。
遊郭の周辺には、惑星である遊郭のおこぼれを頂戴しようと周囲に衛星のような私娼窟ができることがあります。大阪の飛田遊郭北部や東部の山王界隈が典型なのですが、ここ白石でも「朝鮮バー」がそれに該当したようです。
先に申し上げておくと、遊里の遺構は何ひとつ残っていません。詳しいことはわかりませんが、昭和51年(1976)の地下鉄開通で立地条件の良さから一気に再開発が進んだものと思われます。
最後まで残っていた一軒も、昭和60年代には取り壊されました1。
これが白石遊廓最後の生き残りだった「千代田楼」。赤線時代も最後まで営業を続け、赤線廃止後は「千代田アパート」として下宿・貸間として使用されていたそうです。貸間としての住人によると、中はまるで旅館だったんだとか。
白石遊郭にまつわる、悲しいお話があります。
この千代田楼かどうかはわかりませんが、「ともこ」という名の娼妓がいました。歳はおそらく22~3で小柄な女性だったそうです。
彼女は健気におつとめしていたのですが、父親がとんでもない人物で、娘が働く妓楼までしょっちゅう金の無心に来ては、楼主から金を借りていました。当然、借りた分の金は娘であるともこの借金となるだけ。
ある日、同僚の娼妓に
あんたはいいね…お金、お金って言う親がいなくて…
とつぶやきました。
いや、親がいるだけマシでしょと返す同僚に、彼女は特に返事もしなかったそうです。
その夜、彼女はクレゾールという溶液を飲んで泡を吹いて倒れ、自ら命を絶ちました。あまりに突然かつ壮絶な死に、楼主はかわいそうだとポケットマネーで葬式をあげ、彼女の菩提を弔いました。
これと同じような話が、同じ資料の別の人物の口から語られています。その人によると、その親は娘の働き口から借金した金を持って、なんと向かいの妓楼へ駆け込み女を買ったんだとか。肝心な部分が不明なため、上の「ともこ」と同一人物かどうかわかりません。が、おそらく彼女の(親の)ことだと推測しています。
さすがにこれには開いた口がふさがらなかったか、語り部も「ひどい親だ」と一言。ホントに鬼畜な親がいたもんだと。
前項で建設中の白石遊郭の写真をアップしましたが、それを意識して同じ方向から写真を撮影してみました。道の両側にビルなどが並び見えにくくなっていますが、奥の山の形だけは何ひとつ変わらず、ここの盛衰の日々を黙して語るようです。
遊廓跡内には、「勤医協 札幌病院」という病院が大きな姿で鎮座しています。
遊郭の遊女には、最低でも週1回の性病検査が義務づけられていました。公娼である以上、その費用は公費で賄われたのですが、その遊女のための病院が、これも当然ながら公費で設置されていました。大規模かつ有名なところでは、大阪にあった府立難波病院があります。
白石遊郭も例外ではなく、廓の端に「(北海道)庁立(札幌)白石治療院」という遊女たち専門の病院が設置されていました。
昭和初期で医師が1人、看護婦が2人、事務が1人、掃除などの賄婦が2~3人という所帯でしたが、建物は当時の記憶によると二階建てのかなり大きな建物で、2階には10人ほどが入院できる部屋が10ほどあったんだとか。
こういった遊女専門病院は、戦後の公娼廃止によりその役目を終え「ふつうの総合病院」となり、前述の難波病院や新吉原遊郭の吉原病院2などのように現存しているものもあります。が、白石の病院は戦後に廃止、建物は札幌市に引き取られ助産院として昭和44年(1969)まで稼働していました。
その上、「勤医協 札幌病院」の設立は昭和49年(1974)。遊女専門病院の後進というわけではありませんでした。
遊郭跡の東の端に、菊水公園があります。ここは遊郭が現役だった頃からある公園で、現在は周辺住民の憩いの場になっています。隣には保育園があり、北海道とは言え真夏の暑い天気のなか、キャッキャとはしゃぐ園児たちの元気な声が聞こえていました。
公園内には神社もあります。正式名称は菊水神社ですが、昔はお稲荷さんだったようで「菊水稲荷神社」と呼ばれていた時期もありました。なぜ名前が変わったかというと、このサイトによると昭和45年(1970)にご神体を返還し、北海道神宮から御祭神を奉斎したからとのこと。でも、御利益はお稲荷さんの「商売繁盛」。うーん、なんかわからん。
大正すすきのからの遊郭移転の際、ご神体を移したものだそうですが、神殿自体はそんな古くない時期の建設のようで遊郭時代をしのばせるものではありません。
が、よく見ると鳥居があったような二本の柱が根本だけ残っており、それもコンクリート製なものの、なかなかに古そうな趣です。
遊廓時代の頃は、毎年9月の第二日曜日にお稲荷さんのお祭りがあり、娼妓もこの日は外出用の着物を着ておめかしをし、御神輿も出ていたと昔を知る古老の記憶にあります。
鳥居ろと思われる柱の裏には、これまた玉垣の跡も見られます。そこには「高橋アサ」という名前が蚊彼ら玉垣が一つだけ残っていました。保存状態は決して良くはなく、一言で言えばボロボロ。そのボロ具合から昔の遊郭の楼主名でしょう。
白石編は以上となりますが、ちょっと趣向を凝らして(?)最後は一首詠んで終わりたいと思います。
他の遊郭の記事はこちらを見るでありんす
◆『全国遊廓案内』
◆『新札幌市史』
◆『北の女性史』札幌女性史研究会∥編
◆札幌全市案内(昭和33年)
◆白石歴しるべ(1999年)
◆札幌商工名鑑(S27 /31年)
◆ものいわぬ娼妓たち 札幌 遊廓秘話
◆北海道警察史
など。
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