札幌の遊郭のお話は、「札幌編」として一つにまとめたかったのですが、いざ調べてみると薄野の歴史が予想外に濃く、結果的にリュームが大きくなってしまいました。
よって事実上の前編・後編と分けることになりましたが、今回はその「後編」、白石に移転後のお話となります。前回の薄野編は下のリンクからどうぞ。
白石遊廓の歴史
札幌の白石は伊達家の仙台藩の支藩、白石藩の士族が移住し開拓した地でした。その不屈の開拓精神から、薄野遊郭の生みの親である岩村通俊が彼らの労をねぎらう意味で、「白石」と名付けました。
遊郭がのちに作られる菊水地区、旧上白石地区は、白石を開拓した旧士族の一部が移住したのが始まりでした。
ところが、北海道の気候はただでさえ過酷なのに、病気や虫による被害や慣れない農業でかなり苦戦を強いられていました。そんなところに、遊郭移転の話が舞い込んでくることに。
白石の民は大手を振って土地を提供、おそらく札幌市議会などへの政治工作も行ったことでしょう、大正6年(1917)に移転先が白石に決定します。
移転が始まったのは翌年からで、当時薄野にあった33軒のうち、31軒1が移転したそうです。
前回の薄野遊郭編でも書きましたが、遊郭の移転は町おこしのカンフル剤。
遊郭が移転→人が集まる→(飲み屋など貸座敷以外の)お店ができる→お金を落とす→にぎやかになる→知名度が上がる→町が栄える(地元目線)、税収増える(官目線)
と官も民もWin-Winだったのです。
実際、遊郭移転後の上白石の地価は爆上がりしたそうだし、大阪の松島遊廓の南端にあたる「九条新道(現「キララ九条商店街」「ナインモール九条商店街」)」は松島遊郭へ向かう遊客でごった返し、「西の心斎橋」と呼ばれたほど繁盛しました。
移転直後の数字のデータは残っていませんが、いちばん近い大正12年(1923)の数字を見てみると、
大正7年(1918):薄野遊郭 貸座敷33件、娼妓292人
『北海道統計書』より
大正11年(1922):白石遊郭 貸座敷36件 娼妓276人
薄野遊郭にあった妓楼がほぼそのまま移ったようですね。
そして昭和初期、毎度おなじみ『全国遊廓案内』には、こう書かれています。
貸座敷は31軒あって、娼妓は250人居るが、北海道の女が最も多い。店は写真制で陰店は張っていない。
『全国遊廓案内』
(中略)娼楼には、釣月楼、昇月楼、久津和楼、新盛楼、第二新盛楼、玉楼、有明楼、北国楼、高砂楼、天田楼、栄清楼…(以下略
薄野遊郭にあった昇月楼などの有名妓楼が白石に移転していることがわかります。
地元の資料をもとに、『全国遊廓案内』の時期に近い貸座敷図を取り出して、航空写真に落とし込みました。
白石に限ったことではないですが、遊郭は「大門通り」を中心に妓楼(貸座敷)を配置するというのが基本でした。これは吉原を模したこともありますが、近代的な都市計画の理にもかなっており、その完全体と言えるのが、かの飛田遊郭。
白石も例外に漏れず、「大門通り」という遊郭を串刺しにするメインロードの両側に貸座敷を配置するという、遊郭の見本のような配置になっています。
札幌の中心地から遊郭があった白石の間には、豊平川が流れています。
市街地から白石の近くには、明治初期から豊平橋という橋が架かっていたのですが、遊郭へ向かうには少し遠回りになります。
ちょっと不便だね…
という遊客からの声が実際にあったのでしょう、遊郭の関係者一同がショートカットよろしく新しい橋を架けることとなりました。
それが現在の一条大橋で、大正12年(1923)に竣工し、同15年(1926)に札幌市の管理となりました。
また、月寒という場所にはかつて歩兵第25連隊が置かれていました。陸軍と遊郭はある意味依存関係と表現して良いほど密接な関係がありましたが、札幌も例外ではなかったようで、25連隊の兵や下士官が日曜になったら白石遊廓まで通いつめたそうです。
上の地図を見てもわかるように、連隊があった月寒から白石遊郭まではけっこうな距離があります。遊郭の近くまで乗合自動車(バス)も走っていたそうですが、ペーペー二等兵や素寒貧下士官などは実測で4kmほどの道のりを歩いたと、当時の兵隊の回想にあります。
現代人なら4kmなんて歩いてられるか!!とそこで試合終了…もとい精魂が果てるでしょうが、昔の陸軍は30~50kgの装備を抱えて山越えなんてざら。今の中学生でも山を二つ越えた先の学校まで歩いてたというから、そんな過酷さに比べれば、平地を4km歩くなんて最寄りのコンビニに行く感覚でしょう。トラクターもトラックもない時代の農民の足腰の強さと馬力は、現代人から見れば化け物並みです。
また、軍隊と遊郭は密接な関係がありますが、軍隊も遊郭へ行って性病を移され戦闘不能になってしまったら使い物にならない。よって、必ずサック(コンドーム)を持っていくよう班長にチェックされていました。札幌の連隊では、酒保(軍隊内の売店)で3銭2だったそうです。
しかし、白石遊郭のピークは、実は移転直後あたり。移転したのは良いものの、そこから徐々に衰退していったのが、統計書の数字などから見て取れます。
移転直後は景気が良かったものの、徐々に客数が減っていき、特に昭和5年(1930)以降5年間の凋落ぶりは見ててかわいそうになってくるほど。遊客の利便を図ろうと遊郭の楼主のポケットマネーで架けられた一条大橋も、ほとんど効果がなかったことがわかります。
原因は、他の遊郭の例に漏れずカフェーの隆盛や廃娼運動の高まりもあると思いますが、札幌の場合はすすきのにカフェーが固まり、隠れ売春(私娼窟)もあり歓楽街として完全に死ななかったことも一因としてあると思います。
しかし、昭和11年から翌年、同14年にかけて、息を吹き返したように繁盛しています。昭和9年(1934)を底に客数・売上が上がっているのですが、これは金融緩和による景気回復の波が、北海道にまでやって来たのかもしれません。
同12年以降は、盧溝橋事件に始まる支那事変(日中戦争)の大召集により赤紙が来た人でごった返したからなのは、他の遊郭と同様です。実際、地元札幌や旭川の連隊は、事変や1939年のノモンハン事件に参加しているので、そこでかなりの召集がかかり、
せめて死ぬ前に…
遊郭に駆け込んだものと推定しています。
そして、生活に余裕がなくなってきた昭和16年(1941)も、まだ戦争の勢いが残っていたものの、遊郭としての白石の発展は事実上ここまで。昭和18年(1943)には貸座敷数がピーク時の半分以下、娼妓数は3分の1にまで減少し、遊郭としての白石の歴史はいったんここで終了します。
戦後の赤線時代と白石
札幌は大規模な空襲を受けなかったので、遊郭も戦災で焼けたなどの被害はなく、白石もそのまま残りました。が、終戦直後で源氏楼、福住楼、千代田楼他3軒の計6軒しか営業していませんでした。
戦後の混乱の中、遊郭の新しい客となったのがアメリカの進駐軍。昭和20年(1945)10月5日に札幌に進駐した米軍は、札幌の主な施設を接収しました。遊郭もその例外ではなく、RAAというGI(米軍兵士)用「特殊慰安施設」として日本人は立ち入り禁止となります。
昭和26年(1951)、札幌市が独自に風俗産業取締条例を制定したのと、地の利は抜群のかつての遊郭地、すすきのが赤線として復活・繁盛したこと、そしてアメリカ進駐軍の撤退などにより、白石の赤線への風当たりは強くなっていきました。それにより廃業する業者が多くなり、赤線廃止直前の白石は「青楼三十数軒」はどこへやらというほどの寂れ具合だったそうです。
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