日本一の遊里の跡を歩く
もう知ってる人は知ってる通り、そして上にも書いた通り、戦前の「松島遊廓」の場所と戦後の赤線の「松島新地」は存在した位置が違います。
位置を現在のGoogle mapと重ね合わせました。
戦前と戦後の位置はけっこう離れているイメージがあったのですが、こうして地図にしてみると、同じ大阪市西区のせいか、なんや隣町に移った程度やなと。
戦前は、青く塗りつぶした所が島になっており、島ごと遊里でした。遊郭は掘や塀で娑婆と隔離されることが多いのですが、松島は天然の川が境界線になっていました。
西側には、尻無川という川が流れていました。いつ埋め立てられたのかは知りませんが、『松島新地誌』が刊行された昭和33年(1958)時点で埋め立てられており、赤線があった九条地区と陸続きになっていることが書面でわかります。
戦前の航空写真から見た松島遊廓ですが、松島のメインロードは「桜筋」、赤く塗った部分です。桜筋は新吉原の仲之町通りを見本に作られ、通りの真ん中に桜の木を植えたところからその名前がつけられました。
非大阪人のために解説しておくと、「筋」とは道のこと。
大阪の道は、南北方向への道は「筋」と呼ばれます。戦前の繁華街だった「堺筋」、現在の大阪のメインロード「御堂筋」がそうです。
大阪市内の人、いや市内の人間ではない私もそうですが、道案内する際には
この筋をまっすぐ行って、どんつき右に曲がって…
こんな風な言い方をします。
大阪のこの習慣を知らない人は、
す、筋ってなに?
ってことになりかねませんが、別に筋肉のことではありません。
そんなことはおいといて、
その「桜筋」に面した仲之町1丁目と2丁目には、その昔木造2階建て3階建ての建物がズラリと並び、それも吉原を模して造られたそうです。
という大通りで、今の堺筋の幅が12間(約21.8m)だそうなので、その半分ちょっとくらいの広さだったということですね。
戦前の松島遊廓の桜筋を写した有名な写真の一つです。もちろん当時カラーフィルムはないので、白黒写真に着色したものです。
時期は不明なものの、提灯の飾りなどから何らかの戦争の直後か最中、人力車があるとこを見ると日清戦争か日露戦争の頃(明治後期)と推測します。
「木の摩天楼」が道沿いに並び、更に「黒のハイヤー」ならぬ「黒の人力車」がズラリと並んで客待ちをしている光景だけでも、松島の繁栄っぷりがわかります。
そして、この絵ハガキだけ見ると、
なんや、道幅そんな広くないやん
と思うでしょう。実はこれ、「片道」だったりします。
上の絵ハガキの右側、家の塀のようなものは桜筋の「中央線」で、その右側にもう一つ、同じ幅の道があったということです。
『松島遊廓沿革誌』によると、松島遊郭の貸座敷は桜筋の他にも一本尻無川側に集中していました。航空写真上の水色で示した筋ですが、桜筋ほど道幅は広くないものの、松島遊廓もう一本目のメイン通りだったと思われます。
現在に残る遊郭跡の「筋」
そんな松島遊廓も、上述のとおり妓楼一棟残さぬくらいに焼き尽くされ、当時を偲ぶものは何一つ残されていませ…。
いや、ちょっと待てよ。
実際に遊郭跡を自分の足で歩き、自分の目で確認していくいると、ん?と引っかかるものを感じました。
遊郭跡の道は碁盤の目の如く整理されているものの、道幅は概ね狭く一方通行となっています。
が、道幅が他の道より広い筋が、この界隈に一本だけ存在するのです。
ちゃんと中央線もあり、一方通行ではない。何故かこの筋だけこうなのです。
そして戦前の地図とGoogle mapを照合してみると、ここがかつての桜筋跡と一致。道幅が広いのは、おそらく日本一の遊郭のメインロードだったからでしょう。
さすがに「道幅6間半」はどこへやらですが(おそらくこの道幅は半分)、こんなところで「遊郭跡」と出会う自分の直感に乾杯。
松島遊郭跡は、過去に1度探索したことがありました。この道筋の違いに気づいたのは、2年前に10年ぶり2度目の調査を行った時。遊里史の知識が肥え、遊郭赤線跡を回っているうちに目も肥え直感も冴えてきたのでしょう。過去2回では気づかない、建物以外の何かにも気づいてきた自分の成長の証だと思います。
遊里史に興味がある人は、概ね当時の建物、つまり貸座敷や赤線カフェー建築に目が向くと思います。かく言う私もそうでした。
が、時間が経つにつれ当時の建物も消えていき、探すことは困難となっています。この遊郭跡には建物は残っていないんだ、ならいいやとフィールドワークをしないのは非常にもったいないこと。他の人が発見していない「気づき」に気づくことがあるかもしれませんから。
遊郭事務所跡
遊郭の北端に、遊廓事務所があった高砂町がありました。
遊郭事務所は、現在は埋め立てられた尻無川沿いにあり、「赤線のカフェー10軒か15軒分は建った」(『松島新地誌』)というくらいの大きさの洋館。中にはちょっとした市町村並みの規模の議会もあり、楼主による自治が行われていました。
大阪市航空写真で確認してみると、かつての「松の鼻」の部分に大きな建物が見えますが、「尻無川沿いにあった」という記述から、赤矢印の建物と推測できます。
そんな遊廓事務所も、大阪大空襲で焼失。跡地は現在野球グラウンドと化しています。
事務所がすっぽり野球場になるほどの広さ、規模は航空写真で見るよりかなり大きかったと思われます。
遊里跡の西側、かつて松島の西側を流れていた尻無川の跡です。
右側に竜宮城のような門構えの「竹林寺」があり、大阪大空襲で亡くなった松島の遊女の菩提を弔った無縁塚があるという話を聞いたことがあります。が、探した限りそういうのはなかったです。
遊郭の南端にあった天満宮(松島天神)です。遊里の神社ときたらお稲荷さんが鉄板ですが、ここは「学問の神様」。
『松島新地誌』にもこの天満宮の由来が書いており、明治8(1875)年に本田(「ほんだ」でなく「ほんでん」)地区からここに移ってきたようです。
それから松島の栄枯盛衰を見守り続けてきましたが、例の空襲で全焼。その上更にその境内に無法者が不法占拠してしまい、『松島新地誌』が発行された昭和30年代前半もバラック小屋が立ち並んでたそうです。
現在は、そんなスラム街のようなバラック群もなく、天神さんもすっかり小さくなってしまいました。
そして、松島遊郭跡の終点に位置するものは…
京セラドームです。。
京セラドームより少し北の少し北に市立西中学校がありますが、そこより北が旧松島遊郭でした。これでだいたい松島の規模と位置関係がわかることでしょう。
空襲で跡形もなく消え失せてしまった松島、そこから戦後に不死鳥のようによみがえり、赤線として隆盛を極めます。
ここからの松島の歴史がまた面白くなるのですが…戦後編はいましばらくお待ちください。
後編が出来上がるまで、他の関連記事をお楽しみ下さい!
『松島遊廓沿革誌』
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『南海鉄道案内』
『全国花街めぐり』
『全国遊廓案内』
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