松島を騒がせた二大事件
年間100万人以上が訪れた松島には、当然のごとく大小様々なトラブルが発生しました。おそらく新聞に載らなかったものを含めると、1日何軒かは起こってたのではないかと推測できます。
しかし、そんな線香花火のような喧嘩騒ぎではなく、大阪、果てはあわや総理大臣の首が飛びそうだった大事件が松島との絡みで発生しました。
松島の大乱闘
一つは、「松島某大乱闘事件」
明治18(1885)年のこと、警察が遊廓内をパトロールしていたところ、上から「あったかい雨」が。「あったかい雨」はここで遊んでいた兵士が廓の二階からかけた小便のことで、巡査が怒ると兵隊たちが逆にインネンをつけ、負けじと警察も応援。兵1400人vs警察600人の大乱闘となりました。
憲兵隊や府の警察トップがやって来て騒ぎは収まったものの、死者2名(兵士側)、負傷者60名を出す始末に。
死者を出した軍側は「警察のやりすぎ」を主張、警察側も「正当防衛」を主張、お沙汰は裁判に持ち込まれることになりました。
新聞や市民は警察に理ありと応援、無償で弁護しますと名乗り出た弁護士まで出現しましたが、警察側は「職務を遂行したのが罪なら、甘んじてそれを尊重しよう」とばかりにすべて辞退、結局全員有罪になったとされています。
軍と警察のいざこざは、昭和初期に同じ大阪で起こった「天六ゴーストップ事件」が有名ですが、この二つは昔から犬猿の仲のようで。
日本史に残る大事件-松島疑獄事件
もう一つは、「松島疑獄事件」。
戦前最大規模の汚職事件としても有名で、松島が輪をかけて有名になる事件でもありました。
松島は、出来た時こそ見渡す限りペンペン草しか生えていない荒れ地でした。が、市街地の拡張で大正時代中期には松島も市街地となり、市街地に色街があるのはよろしくないと移転の話が浮上しました。これは、松島だけでなく他の遊郭でもあるあるな事です。
松島側も、巨大になりすぎて手狭になり、これ以上の拡大・発展は望めないと移転には賛成。大正時代から港区の大阪港周辺への移転話が持ち上がってました。
今の常識では信じられないかもしれないですが、遊廓は絶好の「町おこし」の手段。
というWin-Winの関係。また、儲かるとそれだけ税収も増えると自治体もWinという、トリプルWinだったのです。
遊郭移転の話が持ち上るや否や、是非うちにと土地を提供し勧誘してくる所が殺到しました。
「松島疑獄事件」はそういう利権にまつわる事件で、土地価格暴騰でボロ儲けしようと欲が突っ張った不動産会社が、当時の政党のトップクラスの政治家に「是非うちの土地に遊廓を~m(__)m」とお願い、ついでに「雑費」として賄賂を贈ったとされます。
大正15(1926)年はじめ、それをほのめかす怪文書が出回りました。大阪府知事の中川望は松島移転の気がなかったものの、知事も収賄した話も持ち上がり、痛くもない腹を探られた知事は超激怒。
汚職の証拠をつかんだ上に知事のバックアップを得た大阪地裁の特別判検事捜査隊(今で言う地検特捜部のようなもの)は一斉に不動産会社を強制捜査、そこで動かぬ証拠が出てきました。
そこで出てきたのは、当時の政治家の大物の名前ばかり。間接的ながら首相の若槻礼次郎の名前まで浮上し、永田町は沸騰した鍋をひっくり返したような大騒ぎになりました。
そして、大阪地裁特別判検事捜査隊は当時の政党のビッグ3、政友会と憲政会、政友本党の幹部をいっせいに大阪に召喚して起訴しました。
今なら、自民党と公明党と立憲民主党の幹事長がいっせいに逮捕、総理大臣が容疑者前提で証人喚問されるようなもの。
で、結果は、あれだけ日本中がひっくり返った大事件なのに、蓋を開けてみるとネズミが数匹…という消化不良な結末に終わり、政治家の腐敗が暴露された上に国民の政治不信と政治家不信を植え付け、後の軍の独断を許す状況を作ったきっかけとも言えなくない事件であります。
その後、遊郭移転を突っぱねた中川望知事はこの直後に依願退職すると、後任の知事が突然二つの「新地」の開設を許可します。
その二つの新地が、港新地と今里新地。
これは偶然ではありません。今里新地の土地所有者は大東土地株式会社という不動産会社でしたが、松島の業者系の会社で松島疑獄事件の当事者の一つでした。
その後大東土地は大阪電気軌道株式会社、今の近鉄奈良線に買収されて「今里土地株式会社」を設立、そこが今里新地の開発に乗り出します。
今里新地の土地は、すべてが歓楽街として開発されたところではないものの、大東土地が松島の移転先としてストックしていた土地。港新地の方も、安治川土地株式会社が松島の移転候補地としてストックしていました。松島の移転地は、こちらが有力候補だったと言われています。
つまり、松島疑獄事件の後始末の結果、赤線として戦後も生き残る二つの新地が誕生したというわけで。
建前上、二つは「花街」となっていますが、店の営業は「特殊料理店」。「特殊」って何やねんというと…もう語る必要もないでしょう。
ライバル飛田遊郭の出現
そしてもう一つ、事件とまではいかないけれども、松島が受けた衝撃がもう一つあります。それは、飛田遊郭の出現。
飛田は江戸時代からの老舗遊廓、難波新地が火事で全焼した移転先なのですが、飛田が遊郭界に与えた影響は数知れません。
その一つが経営スタイル。遊郭というものは、一つの社会に見えて実のところは自営業者の寄り合い。一つ一つの貸座敷が一人の経営者でした。
しかし、飛田は土地開発会社が貸座敷を貸し与えるという賃貸方式。経営も「株式会社飛田遊郭」の一括管理でした。言い換えれば、既存の遊郭が「商店街」なら、飛田は「郊外型ショッピングモール」。町中の商店街がイ○ンモールなどの大型ショッピングセンターによって衰退し潰される光景が全国で見受けられますが、松島も「遊郭界のイ○ンモール」こと飛田に大きな恐怖を受けたに違いません。
これが全国に与えた影響は大きく、今里新地などの後発遊里や、果ては鳥取の倉吉新地まで飛田が創ったひな形によって開発・経営されています。
もう一つが「モダン」の投入。遊郭はなんだかんだで純和式。吉原などには洋風や和洋折衷の建物が存在していましたが、ほとんどは和風でした。
そこに容赦ないモダンを投入した初めての遊郭が飛田でした。遊郭で初めて「洋式ベッド」を投入したとも言われ、部屋も洋風中華風なんでもあり。
大阪の遊郭界に君臨する超老舗新町遊郭や、スーパーを超えたハイパー遊郭松島と同じことをしてても発展しないのは、遊郭を経営学的に見れば作る前から目に見えています。「モダン」の投入により、飛田は既存の遊郭の概念をことごとくひっくり返してしまったのです。
その結果、飛田遊郭は10年ほどで「遊郭界の土星」と言っても良いほどの急成長を遂げます。
そんな遊郭界の超大型新人が同じ大阪に現れてくれると、良くも悪くも松島も変わらざるを得ません。
松島も、他遊郭に漏れず、大通りに純和式の木の摩天楼が並ぶスタイルでした。が、飛田の出現により外観や内装を洋風にリフォームする妓楼が現れます。
昭和初期の松島遊郭の一角(高砂町)ですが、画質が低いのでわかりにくいものの、一見すると映画館や喫茶店と間違えそうな、当時流行の丸窓を採用した鉄筋コンクリート建築が見受けられます。『松島新地誌』によると、これも飛田からの影響といいます。
松島と飛田、大阪にあらわれた遊郭界の巨大惑星は、お互いをライバル視しつつも良いところは採り入れていく切磋琢磨な関係となっていきました。
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