大宮北銀座の赤線跡(埼玉県さいたま市)|遊郭・赤線跡をゆく|

埼玉県の遊郭赤線、私娼窟、大宮北銀座遊郭・赤線跡をゆく
木偶坊伯西
木偶坊伯西

「遊郭・赤線跡をゆく」初の埼玉県の記事になります。

筆者は埼玉県で何を発見したのか!?乞うご期待!!

全国遊郭赤線跡探訪マップ
https://www.start-point.net/maps/map_maker/ で作成

上の地図は弊記事作成当時、2025年3月時点で私が回った遊郭・赤線跡のマップです。
所要時間こそ20年ですが、北海道から九州まで、いやーよく回ったなーと我ながら自分の行動力に驚いたりします。

その「ぼくがまわった遊郭跡マップ」で青く塗ってあるところの一つに、埼玉県があります。

埼玉県自体は当然ながら何度も行ったのですが、いかんせん東京に行く際の廊下なことが多かったので、探偵対象としてはほぼスルー、記事化することは皆無でした。

よって、遊郭赤線探偵のおいらんだ国訪問、埼玉県の記事ははじめてとなります。

今回は埼玉県最大の街、大宮にあった遊里跡を語っていきたいと思いますが、その前に埼玉県の遊郭小史を。遊郭事情は道府県によって状況が様々なのですが、この県、他の県と違い少し事情が違うのです。

昭和3年(1928)、県議会で公娼(遊郭)の廃止法案が可決されました。
すぐに遊郭無くせというものではなく、5年間の猶予をあげるからその間に身の振り考えてねという、なかなかに温情のあるものでした。戦後の売春防止法も、「昭和33年(1958)施行・・」と書かれたものが多いですが、これ間違い。厳密にいえば、

昭和31年5月21日:可決
同5月24日:公布
昭和32年4月1日:施行。ただし罰則適用まで1年間の猶予
昭和33年4月1日:施行の猶予期間満了、罰則の有効化←ここを「施行」と言ってる人が多い

こんな感じなのです。

しかし、本庄・深谷の遊郭は2年後の昭和5年(1930)に廃娼を決定、年末をもって埼玉県の公娼(遊郭)はすべて廃止、群馬県に次ぐ日本で二番目の廃娼県となりました。

ところが!大人の世界はそんな1÷1=1で割り切れる世界ではないのです…

遊廓は確かに県で2か所しかなかったのは確かです。そこで、埼玉県遊廓史に詳しくないと、こんな疑問が浮かぶでしょう。

大宮は何なのさ?

そう、今回の主役の大宮は遊郭じゃなかったのと。

埼玉県は、確かに遊郭を2ヶ所しか許可しなかったものの、その代わりにあるものを用意していました。

それが「指定地」と呼ばれる存在。
あるエリアを指定し、そこに「小料理屋」の営業許可を与えたのですが、「小料理屋」とはもちろん世を忍ぶ仮の姿。実態は「達磨屋」と呼ばれた私娼窟でした。
それが浦和や熊谷、所沢など県内に21ヶ所も存在し、大宮もその一つ。

そ、それって遊郭じゃないの?

と首をかしげてしまうのはよーくわかります。遊郭を「女の子と♡♡するところ」という定義とすれば、それは立派な遊郭です。

でも、遊郭じゃない。
遊廓というのはあくまで「公娼」、つまり国や道府県などの公の機関が設置を認めたというもの。しかし、

お役所が売春を認めるとは何事か!

という声が日増しにあがり、公に認めることが困難になりました。

その最たるものが大阪の飛田遊廓の新設で、国会議員まで巻き込んだ大反対運動が巻き起こりました。飛田遊廓設置反対運動だけでも、ブログ記事どころか深掘りすれば一冊の本ができるほど、全国で反対運動が飛び火しました。

結果的に飛田遊廓は開業されるのですが、それ以来、大っぴらに遊郭を設置するのは「空気が許さない」ということになりました。飛田以降、許可されたのは名古屋の中村遊郭くらいでした。

そして昭和にかけて廃娼運動がさらに盛り上がり、その上カフェーという天敵があらわれ遊郭はオワコン化。どんどん衰退していきます。

そんな中、埼玉県のように「遊廓やーめた!」という地方が続出します。埼玉県は2番目でしたが、のちに秋田県、鳥取県なども廃娼県となりました1

しかし、遊郭がなくなれば、売春がないクリーンな地域になるのか…そんな単純なものではありません。

公娼(遊郭)の衰退に比例して、「曖昧屋」「達磨屋」「銘酒屋」などの私娼窟が大繁盛。その代表が東京の玉の井ですが、大阪でも、日本一のギガ遊郭松島の移転に端を発した「松島疑獄」以降、今里新地や港新地、長野新地などの「花街」が花盛り。和歌山でも天王新地や阪和新地といった「花街」がオープンします。

花街?あんなの飾りですえらい人にはそれがわから(以下略

遊郭とは上記のとおり「公の機関が公に認めたもの」ですが、こういった「私娼窟系」も、いくら取り締まってもなくならない現実もあり、

警察
警察

性病検査だけはやってや

税務署
税務署

税金はちゃんと払ってや

という条件で事実上黙認されていました。公には認めないものの、おざなり的に黙認された売春窟=私娼窟を、筆者は「準遊郭」と造語しています。

私娼窟は基本モグリなので、玉の井などの有名どころを除けばデータが出てこず、実態をつかむのはなかなか骨が折れます。
が、データがない以外の実態は遊郭と何ら変わらず。鳥取県の倉吉新地、出雲大社の門前歓楽街「柳町遊郭」宮城県石巻の新地群など、私娼窟なんだけど地元では「遊廓」と呼ばれ、当時の地図にもそう書かれていたところも多く存在します。「消費者」からすれば、遊郭だろうと私娼窟だろうとどうでもいいですしね。

大宮も、表には基本的に出てこない私娼窟の一つでした。なので、遊郭のような年度データなどは公的資料を見ても出てくることはありません。

それでも中身はかなり繁盛していたようで、支那事変の泥沼化でこの類の産業がお上の命令で下火になりつつある昭和14年(1939)でも、お店の数は38件、働く酌婦数は125名となかなかの繁盛ぶり。
大宮は巨大な列車工場や機関区もあったので、おそらく鉄道職員の需要が高かったと思われます。鉄道職員でも、当時は何千人もいたのでね。

そして、戦後は無事(?)赤線へ。

大宮北銀座赤線の地図

赤線当時の地図を見ても、北銀座の道沿いにお店がぎっしりと。地図なんてほんの一部です、ほんのね。

木偶坊伯西
木偶坊伯西

さてさて現在の大宮の「達磨屋」はどうなっているのでしょうか!

次ページへ続く!

  1. 他にも、議会で廃娼が可決された福島県(実行されず)や、単独で廃廓が決まった米沢福田遊郭(山形県)などがある。
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