京都府舞鶴市-舞鶴朝代遊郭|遊郭・赤線跡をゆく|

京都府西舞鶴にあった朝代遊郭関西地方の遊郭・赤線跡
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朝代遊郭跡を歩く

まずは西舞鶴駅の駐車場で車を止め、ネットの情報で得た「霞月楼」があったという場所へ。

舞鶴朝代遊郭霞月旅館

今は旅館になっていますが、外見は完全リフォームされていました。残念。…とよーく見たら、やっぱり原形はさりげなく残しているのか、やや和洋折衷のような!?というような、ちょっと変わった旅館でした。
霞月旅館の中については、こちらのブログもどうぞ。

そこの前の道を歩いてみると…

舞鶴朝代遊郭

私が探訪した当時は、人が住んでいた気配がありましたが、別の方のブログを見ると2017年時点で空き家(売家)になっていました。そして2019年のGoogle mapストリートビューで確認すると、門前の塀が取り払われ丸腰に。すっきりはしたけれども、丸裸になった家が恥ずかしそうにたたずんでいました。

時間が昭和に止まったかのような古めかしい建物が並ぶ通りが続きます。しかし、ここではない…私のカンはそう申していました。

遊里史に関しては、私は基本地元の人に声をかけません。
私が遊里史の道に入ったのは木村聡氏の『赤線跡を歩く』からですが、「はじめに」にこのようなことが書かれています。

どうか一人でひっそりと出かけて、何かを感じて下さい。さっと通り過ぎて、風のように立ち去って下さい。

引用:木村聡氏『赤線跡を歩く』

引用:木村聡氏『赤線跡を歩く』

「カメラを向けたり」は守られていませんが、基本は「師匠」の言葉を忠実に守っているといえばそうです。
元遊郭によっては、ここが遊里だったことを知られたくないという場所や個人もいます。赤線が消滅してすでに60年以上の時が経ち、経験者も若くて80代ということもあり、最近は歴史や想い出として語ってくれる人も増えてきました。が、現在でも頑なに隠そうとする人たちがいることも事実です。

知らないことを知りたい知的好奇心や探究心は当然ありますが、地元の方のスクープ話を聞くより、「師匠」の言うことを守り、静かに通りすがり、一人のバガボンドとして静かに去っていく。このスタイルは基本変えません。その代わり、事前に資料を調べ、文章や数字を頭にたたき込んでから挑みます。

しかしながら、連れがいたり気分が良いと、たまにヒアリングすることもあります。今回はそのたま~をやってみました。

私

ここらへんに昔遊廓があったって聞いて訪れたのですが

と通りすがりのマダムに聞いてみました。すると、別に嫌な顔もせず、

そこの角に昔そのままの建物残ってるよ。もう一つ山沿いの道行っても残ってるよ

とあっさりと教えてくれました。
で、地元の人が言う「そこの角」にある「そのままの建物」を見ると。

舞鶴朝代遊郭

思わずため息をつきそうな建物が残っていました。外壁の色まで遊廓の象徴とも言える紅色。あまりに鮮やかすぎるのでリフォームがてら色を塗りなおした可能性もあるけれども、それでもこうして残っている自体が素晴らしい。

舞鶴朝代遊郭

こうて見たら、けっこうリアリティあります。

しかし、残念ながらこの建物は現存していません。2019年のGoogle mapストリートビューでは建て替えられ面影すら残っておらず…2013年のストリートビューも同様だったので、私が見て写真に残したのは末期の姿だったのでしょう。

舞鶴朝代遊郭

タイル貼りのレトロな家も発見。道の角にニョキって突き出したような感じで、場所が場所だけにもしや!?と思いたくもなりますが、ただのタバコ屋跡だと思います。

これで機嫌が随分良くなった私、この調子で「一本山沿いの道」へ向かいました。
ここは今でも参拝客が多いのか、お寺どうしを結ぶ道は真新しい石畳が敷かれ整備されています。
道の両側にある家自体はそのままのところが多いようで、これは昔の建物が残っていてもおかしくない。

期待半分で進んでみると…

舞鶴朝代遊郭
舞鶴朝代遊郭
舞鶴朝代遊郭

遊里時代の建物とは断定はできないものの、明らかに昔から残っているような建物が、数多く残っていました。

そして極めつけはこれ。

舞鶴朝代遊郭

リフォームはされているものの、昔の貸座敷をそのまま利用したらしい料理屋です。
ヒョウタン型にくり抜いた壁や2階の格子など、昔の建物の面影をそのまま残しつつ少しリフォームしており、遊廓に限らず古い建物はこうリフォームすべしという手本とも言えます。
料理屋なのでご飯食べに中に入ってもよかったのですが、残念ながらよりによって定休日。ちょうど小腹が空いた時やったナイスタイミングやのに、何でこんな日に限って定休日やねんと、我の運の悪さを嘆くだけに終わりました。

ここ界隈に住んでいた地元の人の情報によると、この料理屋の斜め向かいに銭湯があり、幼いこどもの目から見てもヤバそうな男やケバい女がよく入って行ってたと回想してくれていました。
で、その裏を取るべく昭和40年代の住宅地図を見てみると、確かに「朝日湯」という銭湯が存在していました。そして、その道沿いに検番があったそうです。

神社に見る遊里の残滓

ここ朝代遊廓跡の道沿いに、千野宮神社という神社があります。遊里跡にある神社とくればお稲荷さんと相場が決まってるもの、お稲荷さんがある所=遊廓とは限らないものの、逆はけっこう真なりなところがあります。そして、ここも稲荷神社やろと推定しながら確認すると、やはり稲荷神社でした。
通り過ぎるだけで見落としたり無視しそうな小さな神社でも、遊廓時代の置き土産が残ってたりするのですが、この神社にも…

舞鶴朝代遊郭

「朝代貸座敷組合」が神社に寄進した時の名前が玉垣にくっきり残っていました。

舞鶴朝代遊郭神社玉垣

当時あった貸座敷の名前がズラリと揃っています。
残念ながら朝代遊郭の詳細な資料が手元にないので、本当に貸座敷なのか考証批判が出来ないのですが、昔どういう名前の建物があったかの強めの証拠になったりします。

舞鶴朝代遊郭稲荷神社玉垣

朝代地区を歩いて最初に見つけた「霞月」の前身、「霞月楼」の名前が書かれたものも発見。

舞鶴朝代遊郭

「朝代藝妓一同」と書かれたものも発見。
朝代遊郭は娼妓だけではなく、芸妓、つまり芸者もいた遊郭ということが、これで間接的にわかります。
遊郭や赤線跡を訪ねる人は少なからずいるとは思いますが、ほとんどの人の目的は当時の建物。しかし、このような間接的な証拠を探すと視野が更に広がります。

そして、桂林寺から朝代神社までの、遊里エリアを端から端まで歩き、まあこんなもんやろと去ろうとしたところ。

舞鶴朝代遊郭

このエリアでは珍しい、どころか唯一の木造三階建ての家を発見。木造三階建ての建物は非常に珍しい、遊郭跡を歩いていると数は少ないながらあったりします。
確たる証拠がないのでこれが元貸座敷と断言はできないですが、少なくても赤線時代からある建物であることは確かでしょう、それが店だったことは横に置いといて。
それにしても、木造3階建てって写真で見たらそうでもないですが、実際目の前にしたらものすごい威圧感と迫力です。有名遊里になると3階建てどころか4階5階もあったというから、文字通りの「木の摩天楼」だったことでしょう。

朝代遊廓編はこれまで。しかし、舞鶴編はまだ終わりません。まだ二つ残っているのだから…

舞鶴遊郭編の他の記事はこちら!

明治21(1888)年:貸座敷免許指定を受ける
同年     :朝代遊廓本格開業 貸座敷38軒、芸娼妓200人でスタート
明治34(1901)年:舞鶴鎮守府開設
明治37(1904)年:西舞鶴駅開業
大正2(1913)年:貸座敷46軒 娼妓数124人
大正12(1923)年:貸座敷54軒 娼妓数140人
昭和18(1943)年:西舞鶴市と東舞鶴市が合併、舞鶴市となる
昭和20(1945)年:終戦
昭和21(1946)年頃:朝代遊廓、赤線に移行か
昭和33(1958)年:売防法完全施行により解散・消滅

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