現在の塩冶新地を歩く
旧塩冶新地の位置はこことなります。JR出雲市駅から歩いてもそれほど遠くない位置にありますが、昔の地図を見ていると素晴らしいくらい何もありません。百聞は一見にしかず、以下の航空写真をどうぞ。
塩冶新地は何もない僻地…とまでは言わないものの、いかにも「遊郭」「新開地」らしい隔離感が。
『出雲市商工発展史』には、赤線地区の灯は消えて「有楽町旅館街」となったと書かれていますが、旅館街としては今でも現役のようです。消えた「有楽町」もここでは健在です。
手前にある溝から先が、新地の入口となっている模様。昔はここに「新開地」とでも書かれた、ネオン輝く大看板でもあったのだろうか。
おそらくほぼ同じ場所から移した、昭和16年(1941)頃の塩冶新地。大通りを挟んで店が並んでいるのがわかります。
実際に現場を歩いてみると、新地の敷地は非常に小さく、今まで歩いた遊里跡の中でも3本の指に入るほどの狭さです。大通りの長さも、100mないと思います。実質9軒しかなかった小さな赤線だったので、それも致し方なしか。
かつては7~8軒あった旅館も、今は「柿田旅館」と「富時家」の2軒のみとなっているようです。実は、せっかくだからこのどちらかに泊まろうと電話をかけたのですが、どちらも出ず。商売する気があるかどうかは定かではありません。
新地の東の端、入口と逆の場所に、小さな神社(というか祠)が鎮座しておりました。
小さな狐がいるのでお稲荷さんですね。
遊里と稲荷神社は何故か至る所でコンビになっていますが、出雲の塩冶新地も例外ではなかったようです。せっかくの出雲なのだから、(客との)縁結びの出雲神の方がいいんじゃないのと思うのですが、それはやはり遊里だからはばかれたのだろうか、それとも私の素人考えなのだろうか。
大社にあった謎の「遊郭」の話はこちらでありんす
「新開地」は他にもあった!全国にあった「新開地」たち
『出雲今市商工案内』(1936年)
『出雲商工案内 昭和23年度版』
『出雲市の商業 昭和31年』
『出雲市住宅案内図 昭和32年』
『益田市史』
他複数