遊女たちの慰霊碑ー開始以来先亡者追善供養碑
遊郭・赤線跡探偵が、妓楼跡の他に見逃してはならないものがあります。

「洲崎半島」の南東隅には、警視庁洲崎病院という病院がありました。廓内にあったということと、管理が警視庁ということからお察しのとおり、ここは遊郭の娼妓専用(一般の患者様お断り)の病院でした。
遊郭は公娼なので公が保護しないといけません。そのために遊郭には、大小の違いはあれ主に性病を診たり、入院させたりする専用の病院・診療所がありました。
大阪には府の娼妓を総括する「難波病院」があり、元院長の上村行彰が「日本遊里史」という遊里史の必読書を残しています。
戦後は公娼ではなくなった以上、病院の存在価値がなくなり廃院、その跡には都営団地が建てられています。そこの一角に、古びた碑が一つ残っています。
「洲崎遊廓開始以来先亡者追善供養」と書かれた石碑は、昭和6年(1931)に遊郭が開廓されて以来の死者を弔うために作られたもの。善光寺からわざわざ尼僧を招いて、開業以来ここで亡くなった霊を慰めたと記録にあります。
「白菊の はなにひまなく おく露は なき人しのぶ なみだなりけり」
という、尼僧が詠んだ歌が石碑に刻まれています。
場所は少し離れますが、

深川門前仲町の浄心寺に、大正八年九月再建と書かれた「洲崎廓追善墓」と書かれた墓碑があり、脇には「貸座敷」と書かれています。
その右側には、赤線時代の昭和29年(1954)、「洲崎カフェー組合」と「従業婦多津美会」が建立した「供養観世音」が、左側には赤線廃止後の昭和39年(1964)に建立された「元洲崎遊郭無縁精霊之供養塔」が並んでいます。
洲崎や遊里史に興味がある方は、ここも訪ねてみれは如何でしょうか。

洲崎パラダイスの看板があった場所には、こんな看板と掲げられています。
『正しい歴史を受け継ぎ』
歴史を忘れてはいけない…それはごもっとも。ならば、洲崎が遊郭だった歴史も教えなければならない。
遊郭は「性欲のトイレ」として長年隔離され、蓋をされてきた。が、事実である以上、事実として正しい歴史を伝えなければならない。運動家の感情論や色欲の色眼鏡を通してではない、極力客観的に正しい遊郭の歴史を伝えるのも「正しい歴史を受け継ぐ」ではなかろうか。遊郭最後の語り部だった桂歌丸師匠も亡くなった。遊里史を掘り返しても当事者はみんなあっちに逝った。掘り返しても傷つく人は既にいるまいに。
13年の月日は、洲崎にわずかに残っていたカフェー建築を跡形もなく消し去りました。上述のとおり赤線時代の建物がすべてなくなったわけではないですが、見た目ですぐわかる残滓が消え新しい住宅が増えている中、ここがかつて東京、いや日本でも指折りの色街だったことは、徐々に歴史の波に消えようとしています。
それが良いことなのか、それとも悪いことなのか、その評価はここでは致しません。
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