水運と「おしん」の町、左沢
今回の舞台は、山形市から北西の方向の位置にある左沢というところ。「ひだりざわ」とは読まず、「あてらざわ」と読む東北随一の難読地名です。難読地名など近所に掃いて捨てるほど転がっている大阪出身の私も、これは読めませんでした。素で「ひだりざわ」と読んでました。
なお、この奇妙な読み方の由来は、諸説あって明らかではありません。
左沢へは、山形から途中寒河江を通って至る左沢線が走っています。2両編成のディゼルカーが猫の額ほどの平野を走るのですが、寒河江駅を出ると急に車窓の左右が山っぽくなり、トンネルまで現れます。そのトンネルを抜けると車窓が急に開け、最上川沿いに並ぶ家々が見えてきます。左沢もすぐ近くです。
左沢の歴史を知らないと、
なんでこんなところに鉄道が通ってるの?
と疑問に思ってしまいがちです。事実、今は良くも悪くも静かな田舎町です。が、江戸時代は最上川の水運の中継地点として人・モノが集まり非常に栄えた町でした。つまり、鉄道を敷くほどの価値があったところというわけです。
もう一つ、左沢を有名にしたのが、NHKの連続テレビ小説の伝説of伝説「おしん」。
「おしん」の幼少期の舞台はここ左沢。
おしんが奉公に出され、「おっとお」「おっかあ」と叫びながら筏で最上川を下る有名なシーンは、山形県がロケ協力を拒絶した中、左沢がある大江町全面協力で撮影されたもの。さらにおしんの最初の奉公先は左沢の材木店という設定でした。
では、なぜ「おしん」が山形なのか、最上川なのか。
「おしん」の原作者橋田壽賀子氏は、東京の食糧難から逃れるために、疎開中だった伯母を頼りここで1ヶ月ほど滞在したことがあります。戦争は終わった。しかし食うモノを求めて「疎開」するということがあったのです。終戦直後とは言え、戦後の話です。東京にはそれほど食うものがなかったのです。
日経の『私の履歴書』では、その場所は左沢だったと証言しています。が、これ実は橋田氏の記憶違い。実際は、隣の西川村(現西川町)という所なのです。
じゃあ日経も、ネットで公開している『私の履歴書』を訂正するか注釈つけろよ、読者が勘違いするぞ(私も最初鵜呑みにしてもうたやないかい!)と思うのですが、橋田氏の記憶違いを「おしん」の16年後に発見したのは朝日新聞の記者、つまり同業他社の特ダネ。そりゃ意地でもつけないわな(笑
山形で聞いた「口減らしのために米1俵で子どもを奉公に出し、筏で川を下って奉公先へ向かった」という話は、堺の高級住宅街、浜寺の洋館で何不自由なく育った橋田氏には衝撃的でした。この話は実際に「おしん」でも反映され、おしんは「米1俵で奉公に出され、筏で川を下り奉公先へ向かった」という設定です。
おしんに特定のモデルはいないと、橋田氏も言及しています(よってヤオハンうんぬんも俗説)。が、物語の「環境設定」は間違いなく山形で聞いた話。本人も「おしん」の舞台は山形と最上川でなければならなかったと述べていますが、若き日のたった1ヶ月の滞在が非常に記憶に濃く残ったのでしょう。
左沢遊郭の歴史
さて、近隣の村々の主要な奉公先でもあった左沢には江戸時代から定期的に市が立ち、水運の町として現在の姿からは信じられないほど賑わっていました。
といっても、その賑わいは昭和30年代まで続いていたらしく、左沢と寒河江の地位が逆転したのは、西村山郡の役場が寒河江に設けられてからだと言われています。その前は同じくらい、いや左沢の方が「都会」だったといいますが、現在は良くも悪くものどかな田舎町です。昭和41年(1966)には333店舗を数えた大江町の小売店も、平成19年(2007)には134店と大きく減少。住民の高齢化も進んでいるとのことです。
江戸時代、左沢を治める松山藩内では遊郭や遊女の設置は禁令となっていましたが、市が開かれた日はお目こぼし、同じく御法度になっていた賭博もおおっぴらに開かれ、無法地帯となっていたようです。
そして明治時代に入り明治14年(1881)に遊郭が解禁となり遊里が設置されました。
同年、妓楼の主人と遊女が大江町にある巨海院内の金比羅様にお参りし、寄進も行っていた記録が残っています。遊郭設置記念お参りか、それとも既存の遊郭が「解禁」となりおおっぴらに商売が出来るようになったことへの感謝か…さてどちらでしょうか。
そこに残る妓楼の名前は、「加登屋」「槌屋」「後藤屋」「東代屋」「大和屋」の5軒。娼妓名は「むめよ」「おたま」「こまつ」「わか吉」など10人。現存する最古の『山形県統計書』である明治14年版を紐解くと、左沢の遊里は「貸座敷5軒 娼妓16人」とあり、貸座敷数はピタリと一致します。
なお、上の写真のとおり巨海院は現存します。金毘羅さんは見つからなかったですが。
赤枠で囲んだところが左沢の市街地で近世には陣屋や米蔵が置かれていたところです。遊郭の貸座敷も町のあちこちに散在していました。
その遊郭が「元屋敷」と呼ばれる地域に集約されたのが、明治39年(1906)に左沢を襲った大火。この地域は空気が乾燥しているからか昔から火事が多く、明治39年だけでも3回大火事があり町の約半分が焼失したそうです。ちなみに、昭和11年(1936)にも大火があり、現在の左沢は火事はもうこりごりだと延焼防止のため道路が拡張された姿です。
明治39年の大火は別の場所に移転していた大和屋を除いたすべての貸座敷を焼き、それをきっかけに元屋敷に移転となりました。
移転当時の妓楼は、「萬年屋」「大和屋」「柏木楼」「山形庵」「国風亭」の5軒。左沢遊郭の特徴は芸妓の花街も兼ねていたことで、当時の各妓楼が抱えた芸者の名前が郷土資料に残っています。
左沢には鶴沢君女(本名菊地りう。1864-1929)という芸事の師匠がおり、芸妓に苗字のように「鶴」がついているのは、落語家が師匠の一字をもらうようなものでしょう。
また、大正期に念願の鉄道(左沢線)が開通、寒河江や山形からの客も訪れ廓はそこからさらに繁盛したといいます。
時は下って昭和5年刊行の『全国遊廓案内』には、左沢遊郭は以下のように書かれています。
現在遊郭の貸座敷は約四軒、娼妓は約十四五人居て、全部本県の女。店は写真制もあり陰店制もある。お定まりは二円五十銭で一泊が出来、酒肴付である。(中略)花街は相当に繁盛している。
『全国遊廓案内』
同時期の内務省警保局(現警察庁)の調査によると、貸座敷4軒に娼妓15人。長年遊里史の数字を扱ってきましたが、一次資料と『全国遊廓案内』の数字がピタリと一致したのは初めてのパターンです(笑
しかし、ここからある現象が発生します。遊廓が急速に衰えていくのです。昭和初期から徐々に衰退していってはいるものの、昭和9~10年(1934-35)からの衰退ぶりが著しい。まるで何かのスイッチが入ったかのように…。おそらく来年に別記事で書きますが、米沢の福田遊廓は昭和12年4月に「遊廓やーめた」と廃廓してしまいます(ソースあり)。
これは山形県全体での現象ですが、左沢も例外ではないと思います。残念ながら『山形県統計書』の統計が廓ごとではなく、管轄警察署ごとになっており、統計書上の数字は寒河江や谷地(天童の隣)も含まれています。なので左沢単独の数字は統計書上からはつかめません。
が、「西村山署(左沢・寒河江・谷地)」の範囲で、昭和10年(1935)には9軒あった貸座敷が、翌年には3軒、その次の年には1軒のみに。娼妓数もそれに比例して減少しています。つまり、左沢・寒河江・谷地の3つのうち、2つはこの時点で「死亡」したということ。
全国的に見れば、遊廓は昭和12年(1937)の支那事変による出征ラッシュに始まり、同15年の遊興業の締め付けまでちょっとしたバブルになります。貸座敷や娼妓数は減っても遊客数と売上は爆がつくほど上がるのが全国的な動向ですが、山形県の数字はその傾向に逆らうかのように真逆の方向へ。色んな道府県の統計を集めてきましたが、この「減少現象」は山形県が初めて。東北の統計はまだ山形と岩手県しかまとめていませんが、岩手県は全国の例に漏れずなので、東北だから…という理由でもなさそう。
「山形遊廓謎の衰退」、そして1年で3分の1になるほどの「スイッチ」は何か。山形県の新たなミステリーが出てきました。
そして戦後になります。
戦前の謎の衰退と戦争による遊興業の営業自粛(事実上の強制)で滅んだかのように見えた左沢の遊里。私もこれは死んだな…と思ったのですが、山形県の警察史には「赤線」として記録にあります。また、『大江町誌』にも「さしもの殷盛を極めた遊郭も昭和三十三年の売春防止法の施行によって完全に転業し…」とあり、戦後にも営業していたということが間接的にうかがえます。
といっても、お店1軒に接待婦1名なので往年の繁盛ぶりは消え失せています。唯一の1軒も、戦前の遊里の場所にあったのかも確かではありません。赤だから同じ場所だとは思いますが…。
そして明治からの遊里も「火が消えたかのように」(『大江町誌』)静まり返り、ふつうの住宅街とへと同化していきました。
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