左沢遊郭(山形県西村山郡大江町)|遊郭・赤線跡をゆく|

遊郭・赤線跡をゆく
スポンサーリンク

■左沢の遊郭跡を訪ねる

左沢線

私から見ればかなりの山奥にある左沢。しかし、山形から左沢線のディーゼルカーに乗れば、寒河江経由で約45分で到着します。Google mapで見れば遠そうですが、実際行ってみると案外あっけない。
左沢線はよくある地方のローカル線の一つですが、「フルーツライン」という別名がつけられており、駅名標がかわいらしい郷土の果物の形に。

左沢駅駅名標

終点かつ今回の目的地、左沢はラフランスという洋ナシの形になっています。

 

左沢レンタサイクル

左沢の町は、徒歩でも回ることが可能です。が、駅構内のお土産販売所には町が準備した観光用のレンタサイクルが用意されており、電動アシスト自転車が無料でレンタル可能です。
私も実際に借りて町を暴走してみたのですが、さすがは電動自転車、チョー楽ちんです。私は時間切れにつき行ってませんが、徒歩2~30分以上はかかりそうな「おしん」のロケ地へもこの自転車を使うとすぐ。これで無料だなんて、大江町はなんと太っ腹。そんな無理しなくてもいいのよ、300円くらい取ってもいいのよと心配すらしてしまいます。

遊郭跡へも、自転車を使ってしまえば、ほんの数分で到着します。

 

左沢遊郭跡

明治39年の大火跡に移動となった左沢遊郭跡は、この位置となります。
「元屋敷」という地域の中でも、遊郭だけが鉄道を挟んで孤立、言い換えれば隔離された姿になっていますが、これは左沢線が元屋敷を寸断しただけの結果論。元は遊郭を含めた「元屋敷」という一つの地域で、遊郭だけ孤立していたわけではありません。

現在、遊里の跡を偲ばせるような建物は、何一つ残っていません。が、郷土資料にはここに「遊郭の面影が残る建物」と記された場所があり、最近まで何かの建物が残っていた可能性があります。といっても、それはあくまで住民のアンケートであり、郷土史家などの専門家のフィルターを通しているわけではなく、建物が残らぬ今、それが何だったのかは定かではありません。

 

ここに一枚、左沢遊郭を写した絵葉書があります。

左沢遊郭絵葉書

遊郭があったヒントはこの一枚のみ。写真を図書館の中の人に見せ、さあここがどこか探せ~!と私を入れて3~4人で郷土資料をまさぐりまくった結果が、上の場所でした。

左沢遊郭の現在

絵葉書の角度のまま現在の姿を撮影…するのを私ともあろう者がド忘れしていたので、Google mapのストリートビューから切り取りました。私が見た2020年の姿も、これと全く変わっていません。

そんな左沢廓を訪れた一人に、歌人の斎藤茂吉がいます。昭和4年(1929)に友人を訪ねて左沢を訪れた茂吉は、ちょうど9月の鮎のシーズンだったこともあり鮎料理をほうばり、すこぶる上機嫌だったといいます。そして、帰りは「遊廓ととおった」と記録にありますが、果たして「通った」だけなのかという疑問が。まあ、芸妓の花街も兼ねていたので、友人の歓待で芸者相手に一杯やったという可能性は十分にあります。
やはり廓と縁があったのか、遊郭跡には斎藤茂吉の歌碑が残っています。

遊郭が花街を兼ねていたということは複数の資料から明らかですが、では廓内で遊女と芸妓はどう区別するのか。
これも、郷土資料から掘ってまいりました。

遊女や芸妓の髪結いをしていた方の回想によると、遊女が「つぶし島田」または「銀杏返し」、芸妓が「桃割」と決まっており、髪結いも一つの女性が毎日結うのではなく、数日に1回だったと。要は髪型で身分境遇がわかってしまうということです。
しかし、遊女の場合は「職業柄」、前の日に結ったのにまた結わないといけない「特殊な事情」もあったようです。それはもうお察しでしょう。

また、遊女の髪結いをしているうちに気ごころ知れた仲になり、身の上話を聞かされることもあったようです。籠の鳥である遊女は華やかに見えて心は寂しい人も多く、髪結いは彼女らの聞き手になってあげないといけないと髪結いの師匠が言っていたと回想では述べられています。

 

「おしん」の舞台の一つ、左沢。確かおしんの母はのちに銀山温泉で酌婦をし、おしんが銀山温泉まで母を訪ねにくるというシーンがあります。
酌婦は、文字通りなら客にお酌をする水商売の店員です。が、当時はほぼ売春婦の代名詞。日本最大の規模を誇った私娼窟、東京玉の井の私娼も名目上は「酌婦」でした。
公娼も私娼も、そもそもは貧困で生きるためには身体を売らざるを得ない苦しい状況から。おしんの母は果たして…「おしん」をもう一回見直してみたいな…そんなことを思いながらこの編はおひらきにしたいと思います。

山形県の遊郭は他にもあります。こちらもどうぞ!

 

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました