あなたの知らない横山やすし
横山やすしは、『漫才教室』というラジオの素人お笑い番組で頭角を現わし、天才漫才少年と評判となりました1。それ以前の幼少期は、本人も自伝に書いているものの、肝心な部分はボカし詳細を語ろうとはしません。
裏表のないどストレート発言が大きな特徴のやすしが、まるでそこには触れてくれるなとボカす…そこに複雑な家庭環境が絡んでいます。
なお、我々大阪人は、「やすしきよし」を親しみを込めて今でも「やっさん」「きょっさん(きよっさん)」と呼んでいるのですが、以下「やっさん」「きょっさん」と書くことにします。
やっさんこと木村雄二は、昭和19年(1944)高知県に生まれました。実はきょっさんも同じ高知県生まれで、共に高知の記憶がない年齢の頃に大阪に移住しているのですが、コンビが共に高知県出身だったのはただの偶然。二人はコンビ結成までなんの縁もゆかりもありません。
やっさんが生まれた場所は、高知県沖に浮かぶ「沖の島」という小さな島でした。
母親は島の住人、父親は木村庄吉で幼いころに高知を出て大阪の堺に移住し、そこで育ちました。母親はやっさんを身ごもったのですが、当時は戦争中でいつ空襲が来るかわからない。そのため沖の島に帰り出産します。
しかし、ここに非常に複雑な事情が絡みます。
実はやすし少年の本当の父親は、海軍に出征して戦死した小田耕一郎という人物でした。父親と思っていた木村庄吉は、実は血の繋がらない育ての親だったのです。この時点で、やっさんには「父親が二人」いることになります。
そして実は、ややこしいことに「母親も二人」いるのです。
生みの母は産後の体調が悪く高知へ帰ったのですが、その間に養父と共に雄二を育てたのが、タキヨさんという近所の散髪屋の女将でした。
タキヨさんの夫は陸軍兵士として昭和19年にフィリピンで戦死。二人には子どもがいなかったので、雄二少年を実の子どものように育てました。
母性本能が芽生えたのか、タキエさんは堺に帰ってきた実の母親と壮絶な雄二の取り合いとなりました。結果、生みの母が高知に帰り、やすし少年はタキヨさんを母として幼少期を過ごすことになりました。
また、やっさんにはこのときから、「一(はじめ)」という血の繋がらない兄がいたこともわかっています。
やすし最大の黒歴史ータキヨさんは何者なのか
タキヨさんは、散髪屋の女将をしていたと書きましたが、戦後は今の堺駅前にあった龍神・栄橋遊郭で働いていました。遊郭は戦後間もなくGHQによって廃止されているので正しくは「赤線」ですが、便宜上遊郭と書くことにします。
タキヨさんが龍神・栄橋遊郭で働いていたことは事実ですが、やっさんが亡くなった年に放送されたテレビ、『驚きももの木20世紀 やすきよ いくつもの河を越えて』では、「龍神遊郭の妓楼を経営していた」とされています。
私はこれにちょっと待ったを唱えたい。
やっさんの自伝には、タキヨさんは近所の散髪屋の女将と書かれています。これが本当だと仮定すると、散髪屋の女将がいきなり遊廓のオーナーになれるのか。
近代遊廓史の沼にハマって久しい野良研究者の目から見ても、遊廓は素人が突然参入して経営できるほど甘い世界ではない。夫婦で妓楼を一軒買収するほどの金を貯めていたかもしれませんが、散髪屋にそこまで貯める金があったのかも疑問です。
さらにやっさんの自伝にも、
夫を失ったタキヨさんは、戦後に龍神の遊郭で働いていた。
『まいど!横山です ど根性漫才記』
とは書かれているものの表現が曖昧で、これでは経営者なのか、赤線で働いていた接待婦(=売春婦)だったのか、はたまた掃除や賄いなどの雑婦だったのか判断できません。
歯に衣着せぬもの言いが名刺代わりのやっさんが、奥歯に物が挟まったが如くぼかすところに何かを隠したい意図を感じます。
私は後者とみました。育ての母親が遊郭で体を売っていたことは、人一倍人恋しい、マネージャーによれば典型的なマザコンだったというやっさんにとっては、触れられたくない傷だったに違いないと。
さらに謎はあります。
『驚きももの木20世紀』では、タキヨさんは家の近くの大きな池で溺れて亡くなったとされています。
やっさんの家の近所の航空写真です。赤い○が彼の生家あたり。昭和31年(1956)5月3日撮影なので彼が小学生だった頃。これが撮影された時も、もしかして写真のどこかで遊んでいたかもしれません。
「家の近くの大きな池」を当時の航空写真で探してみると、すぐ近くに赤い矢印で示した大きな池がありました。おそらくここでしょう。
これを聞いて、私はおかしいなとある疑問が湧きました。
池に溺れて亡くなったのはいい。しかし、何でこんな池に行く必要があったのか。
ここで私は、突拍子な仮説を立てました。
タキヨさんの死と赤線廃止、売春防止法が絡んでいるのではないか
売春防止法が施行され赤線の灯が消えたのは昭和33年。木村雄二少年が14歳の頃です。
タキヨさんが堺の赤線で働いていたのは複数ソースから事実なので、売防法で食い扶持を失い悲観した彼女が入水自殺したのではないかと。
この仮説をベースに、やっさんの自伝や関連の本を読んでみたのですが…。どの本にもタキヨさんの死には一切触れていないのです。
自伝は父の死については一章を割いて書かれています。が、育ての親であるタキヨさんについては、いつ、どういう死を迎えたのか全く書かれておらずいつの間にかフェードアウト。これがかえって疑念を抱かせました。
自伝には、「やすきよ」で上方漫才大賞を取ったときや、父が亡くなった時に、「母」という表現がいくつか出てきます。が、これがタキヨさんなのか、「やすきよ」結成時は岸和田の春木に住んでいた生みの母のことなのか、何も書かれていません。自伝ではややこしいことに、表現はどちらも「母」なのです。
やっさんの自伝を読んだらすべて解決するはずだと思っていたものが、かえって謎を深める結果に。
ちなみに、生みの母の方はやっさんが亡くなった時も生きていて、関西で放送された追悼番組に出演していました。
これについては、あの世にまで行って聞くわけにもいきません。万が一聞けても、
「んなこと聞いておどりゃどないするいうんじゃアンダラ!!!」
(やっさんの声と口調で脳内再生して下さいw)
と怒鳴られるのは必至。人間誰しも、人生の中でこれだけは触れられたくないという事は一つや二つ持っているものですが、ここが彼の黒歴史なのかもしれません。
横山やすしはミリオタだった
やっさんは、現在の堺市堺区神石市之町で育ちました。本人も町名を出してここで育ったと述べているので、間違いはないでしょう。
ちなみに、漫才師として売れた後は隣の上野芝町に家を構えました。やっさん自身は堺育ちなことを誇りにしており、堺出身というだけでかわいがられた芸人も多かったそうです。
意外なことに、幼少期のやっさんは身体が弱く、タキヨさんが常に心配していたほどの虚弱体質でした。小学校高学年の年齢になると身体も丈夫になり、友達と運動して遊ぶようになりましたが、球技など集団でやるスポーツは大嫌い。自分がトップになって輝ける個人競技が好きだったそうです。
自分にも他人にも常に、
「一番を狙え。一番以外はすべてカスや」
と激励し、いつも一番でないと気が済まないやっさんの性格は、ここあたりから片鱗を見せていました。
しかし、中学に入り身体も成長、中学時代には陸上部に入りなかなか優秀な選手だったそうです。きょっさんも中学時代はサッカー部。「やすきよ」のアクションが激しくスピード感あふれる漫才は、実は二人がバリバリの体育会系で体力が有り余っていたという長所を活かしたものでした。
この時のやっさんの夢は、意外なのかそうでないのか、自衛隊員でした。
自衛隊員になる意志はかなり堅かったようですが、これは義母の猛反対で諦めることとなります。
しかし、何故自衛隊員だったのか。
生母から離れて育ったやっさんですが、15歳の時に従姉妹の案内で実の母に会いに高知まで行ったことがあります。タキヨさんには内緒でしたが、高知にいる間二人は親子水入らずの時間を過ごしたそうです。その時に、海軍にいた実の父の話を聞き、自分もその道へ進もうとしたのかもしれません。
元マネージャーの木村政雄氏(後に吉本興業専務)によるとやっさんは、例えば10:00を「ひとまるまるまる」と呼んでいたそうです。
これは旧日本軍の時間の言い方で、現在の自衛隊でも24時間制でこう呼びます。『午後3時30分』を『ひとごーさんまる』とクセで言ってしまう、元自衛隊員あるあるもあるそうです。 特に、2を「ふた」と呼ぶとかなりの確率で海上自衛隊員で、旧帝国海軍から引き継がれた数字の読み方です(旧陸軍及び陸上・航空自衛隊は「に」)
また、軍艦好きならみんな知っている軍艦雑誌、『丸』の定期購読もしていました。
読んでみるとわかりますが、『丸』は素人が読んでもほとんど理解不能なほどの専門雑誌。それを定期購読までしていたということは、相当「好き者」だったという間接的な証拠です。
旧海軍は、常に「五分前」が徹底されていました。元海軍軍人と会う時は、必ず約束の時間の5分前に集合。これが海軍と接する人間の常識でした。しかし遅刻魔のやっさん、これは守れなかったようです。
しかし、木村氏によると、
木村「午後3時に集合しましょう」
やすし「いや、『ひとごーまるごー(15:05)』にしよ!」
木村「なんですか、その5分は」
やすし「3時より3時5分の方が本気が出るやろ」
というふうに、よく変な時間設定をしてきました。元マネをして意味がわからないと首を傾げていましたが、私は旧海軍の「五分前」を彼流に解釈した「五分後」の精神かなと思ったりします。
何故やすしがミリタリー方面に興味を持ったのか。上にも書きましたが、海軍にいて戦死した「実の父」の影をどこかで追っていたのかもしれません。